第三章 潺、皓月堂に集う《六》

 和やかな佇まいの居間に、店先から不穏な声が響いた。

「おい、こら、円空! やっと覆った菰の真ん真ん中に、穴ぁ空けやがって!」

「出入りするのに、ないと不便だと思うが」

「こっからは出入りしねぇよ! これじゃぁ、やり直しだろうが」

 居間にいても聞こえる二人のやり取りに、善次郎が苦笑いする。がっくりと肩を落とす皓月の姿が目に浮かぶようだ。

「あっちが梃子摺っていそうだから、俺が手ぇ貸してきやす」

 立ち上がった長七に頷きかけた善次郎が、引き留めた。

「あの道具の件だがな。桐箱は諦めるしかなかろうが、道具は何とかなりそうだと皓月が話していた。皓月の砥ぎの腕であれば、悪い気は落とせよう。その先は、道具と、長七次第だろうが」

 自分を指さし首を傾げる長七に、善次郎が頷く。

「道具は使い手により変わるものらしい。あの道具を使うのはお主であろう。仔細は皓月に聞くといい。儂より詳しい話が、聞けようからな」

 長七の顔に、明るさが射した。

「あれを供養せずに済むんなら、何としても使いこなしてみせまさぁ! 善次郎様、ありがとうごぜぇやす!」

「礼は皓月に言ってくれ。儂は聞いた話を伝えただけだ。それとな、その鈴は」

 不意に、善次郎の言葉が途切れた。俯きかけた顔を上げ、長七に向き合う。

「お鴇より、長七が持っているのが良かろう。今は、な」

 語尾に力を込める。意味を受け取った長七が、深く頷いた。

(鳴らない鈴をお鴇に持たせても、恐らく護りの意味をなさない。むしろ危険ですらある。不測の事体が起きても、長七なら術がある)

 長七は片手を上げて、部屋を出て行った。

「私も手伝う。兄ちゃん、待って!」

 環と善次郎に向かい、ぺこりと頭を下げると、お鴇が長七の後を追った。

「よろしかったので? あの鈴は、善次郎様がお持ちになるべきじゃぁ、ありやせんか?」

 二人が出て行った後、環が声を顰めた。円空から鈴の話を聞いたのだろう。

(本当なら、この手に戻したい。だが、兄上は長七に鈴を託した。儂の気持ちだけで、奪うわけには、いかぬ)

 善次郎は静かに頷いた。

「あの鈴は、長七とお鴇の手にあるべきだろう。この六年、大事に持っていてくれたのだ。これから先も、きっと大事に持っていてくれよう」

 環は難しい顔で、じっと黙った。不満というより、何かを懸念している表情だ。

 善次郎の眼に気が付いた環が、躊躇いがちに目をらした。

「御役目の話も宇八郎様の鈴の話も、全部、聞きやした。善次郎様がそう仰るなら、あたしに異論はねぇ。けど、何やら嫌な勘が致しやす」

 環にしては珍しく濁すような言廻しだ。善次郎は、環の言葉を待った。

「ここに来る前、浅草のために行っておりやした。鈴が鳴ってすぐ、飛び出してきたんですが。どうも、あの界隈の風が、気になりやしてね。雨も降りそうにねぇのに、黒くて厚い雲が出ていやがる。不穏なもんを感じたんでさ」

 溜とは、罪人の病気を見る診療所で、非人が営んでいる。病気に限らず、罪人の世話の大半は非人が行っている。非人に入墨の指導をしている環は、その方面に明るく、顔も利く。

「聞けば、神社の狛犬が壊されているってぇ話だ。浅草には古い社が多いですからね」

「次に浅草界隈の神社が狙われても、おかしくはねぇ、な」

 善次郎の言葉に、環が神妙に頷いた。

「それから、溜で妙な噂も、聞きやした。獰猛な獅子を連れた落ち武者の怨霊を見たってぇ奴がいまして。どうせ酔って寝ぼけたんだろって聞き流しちまったが、そうでもねぇかもしれやせん」

 善次郎は顎に手を当て、黙り込んだ。

 宇八郎の鈴を持たせておけば、長七とお鴇が件に巻き込まれる危懼がある。環はそう言いたいのだろう。宇八郎の死霊に実際に会った善次郎も、同じ懸念を持っている。

(長七が戻ったとはいえ、お鴇に結界彫りを施していない以上、このまま放ってはおけぬ。かといって、巻き込む訳にも、いかぬ)

 そうは思うが、放り出せない訳は、他にもあった。

『鈴が鳴らなくなった』

 長七のあの言葉が、やけに引っ掛かっていた。長七が不安を感じたように、何かの凶兆だとしたら。

「既に巻き込んでおるのやもしれぬ。いや、長七にとっても他人事では、ねぇのやもしれんな」

 ぽそりと零した善次郎の呟きに、環が顔を顰めた。

「あの二人に、辛い思いは、させたか、ありやせんね」

 郷に家族を残してきた環には、お鴇が妹のように見えるのだろう。長七とお鴇の互いを思いやる気持ちも、痛いほどわかっている。

(平素は荒っぽく豪快に振舞っておるが、優しい心根も変わらぬな。全く潺は皆、世話焼きのお節介ばかりだ)

 などと口にしては、環が怒り出す。善次郎は微笑んだ。

「ならば儂が腹を括るまでだ。長七とお鴇には、この際、巻き込まれてもらう。だが、必ず守る。潺が付いておれば、憂慮するまでもなかろう。儂と兄上が信を置く潺なのだからな」

 目を大きく見開いた環が、ぐっと息を飲む。しばし黙り込んだが、笑みを零した。

「ふふ、あはは! 流石は善次郎様だ。あたしぁ善次郎様の、その質が好きですよ」

 若干の含羞を隠して、善次郎は咳払いした。

「何にせよ、非人が見た怨霊と、浅草の不穏な暗雲は気になる。一度、見に行くとしよう。環、円空と共に来てくれ」

「合点承知! 善は急げだ。早速、参りやしょう」

 颯爽と立ち上がり、環が先立って部屋を出て行く。

「勇ましくも、頼もしいな」

 緩んだ頬を引き締めて、善次郎も部屋を出た。

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