第三章 潺、皓月堂に集う《四》
居間に落ち着いた長七は、お鴇の入れた茶を、一気に飲み干した。
「喉が、からっからだったんだ。美味い茶が、身に沁みるねぇ」
しみじみと感じ入り、善次郎に改めて頭を下げた。
「善次郎様と皓月さんに、すっかりお世話になったのよ。兄ちゃんからも、お礼を言ってね」
長七の湯呑に茶を注ぎながら、お鴇が念を押す。
「あぁ、うん。そうだよな。善次郎様、この度は妹が世話ぁ掛けちまいやして、本当にすいやせん。仕事とはいえ、気が付かねぇで、出かけちまって」
歯切れの悪い言廻しで長七はお鴇を、ちらちらと伺う。
「あ! そうだ。お鴇、茶葉を換えてきな」
「まだ、勿体無いじゃない。でも、換えたほうが良いかしら?」
茶瓶の中の茶葉を、お鴇が難しい顔で覗き込む。
「うんうん、換えてこい。ついでに、茶瓶も綺麗に洗って、折角だから、台所の掃除もしてこい」
何度も頷く長七に、お鴇が
「円空。おーい、円空。ったく、あの野郎。どこに、行きやがった」
店先で皓月の投げやりな声が響く。怒り混じりの呆れた声に、善次郎が苦笑いした。
「お鴇、すまぬが、皓月を手伝ってくれるか。円空は酔狂な男故、一度消えたら、いつ戻るか知れぬ。力仕事は、皓月に任せればよい。できる仕事をしてやってくれ」
「円空さん、困ったお人ですね。わかりました、手伝ってきます。兄ちゃん、善次郎様に失礼のないようにね」
「しねぇよ! ガキじゃぁねぇんだぞ!」
眉を下げて笑いながら、お鴇が部屋を出る。
襖がしっかり閉まったのを確かめて、善次郎は長七に向き直った。
「これで、しばらく、お鴇はここに戻らぬ。お鴇の前では語れぬ事情も、話せよう」
長七が目を見開いて、唾を飲み込む。困り顔で俯くと、頭を下げた。
「気を遣っていただいて、申し訳ありやせん。お鴇が皓月堂に厄介になっている訳は、あの道具でございやしょう」
「何も話していないうちから、よくわかったな」
「心当たりが、それしかございやせん。道具の気這いも、よくよく感じやす。それと、俺も江戸を発つ時、ちっとばかし、気懸りがありましたもんで」
お鴇に近付けなければ静かにしている道具の気這いを長七が感じ取っている事実に、感心する。
「お鴇は、あの道具について、何も知らぬ様子であった。其方は、知っておるのだろう」
長七が沈痛な面持ちで頷いた。
「知らねぇんじゃなくて、覚えていねぇんです。あの道具に血が付いた時に起きたこと全部、忘れちまっている。俺も無理に思い出させたく、ねぇんです。だから、お鴇の前で話すのは、気後れしちまって。すいやせん」
長七が再び頭を下げた。
「構わぬ、気にするな。あれは血に穢れ、悪い妖になりかけておる。お鴇の生気を吸っているのも、其方なら気付いておろう。先祖代々使い継いだ道具を、手放せなかったか」
俯いた顔が、更に下を向く。
「仰る通り、道具は付喪神になり損ねて、半妖になっちまった。普通に供養はできねぇ。もっと早くに、せめて俺が清水に発つ前に、皓月さんに話していりゃぁと思いやす。決断、できなかったなぁ、大事な道具だってのも、ありやすが。あの血が母親の血だから、なのでごぜぇます」
「それは、どういう仔細だ。何故、道具に母親の血が付く」
桐箱に付いていた血は赤黒く、時が経っているのは、わかった。だが、あれ程の出血をしたとなれば、尋常ではない。
「六年前、江戸への帰り道で、妖に襲われて。俺とお鴇を庇った母親が、獅子に食い殺されやした。あれは、そん時に、飛び散った血です。道具を持っていた俺も、お鴇も血だらけになりやした。余程に恐ろしかったんでしょう。お鴇は、そん時の何もかも、一片も覚えちゃいねぇんです」
善次郎は絶句した。長七の眼に浮かぶのは、恐怖より怒りだった。
「駆けつけてくだすった旅装束の御武家様のお陰で、俺とお鴇は、助かりやした。ですが、母親は、そん時にゃぁ、もう……」
声を詰まらせる長七に、掛ける言葉が見つからない。同じ眼をしたまま、長七は話を続けた。
「獅子を退治してくださった御武家様も、大層、
長七が、ぎゅっと目を瞑る。善次郎は眼を細めた。
「御武家様が息絶える前に、これを、くだすったんです。震えるばかりの俺に、きっと二人を守ってくれるから、って」
長七が袂から取り出した鈴を見て、善次郎は息を飲んだ。脈が走り、心ノ臓が、重く痛い。
煤けた赤い根付に結わえた、色褪せた白い鈴。
善次郎と「潺」が持つ鈴と、同じものだ。しかし、それだけではない。
(これは、間違いなく兄上の気だ。兄上も同じ鈴を持っておられたのか)
忘れるはずもない兄の気を纏った鈴だった。
口元を、そっと片手で隠した。走る血脈と湧き上がる想いを懸命に抑える。
(六年前なら兄上の遠国御用とも符合する。兄上の頓死は、二人を助けたためであった)
長七に気取られないよう、静かに息を吸い込んだ。
「それからは、お鴇に、この鈴を持たせておりやした。守りになるから肌身離さず持っているよう、伝えていたんですが。清水に出張る時、お鴇が俺に鈴を持って行けと、しつこく迫りやして。あんなに頑固なのも珍しいんで、つい持って行っちまった」
悔しそうに語る長七は、善次郎の様子に気付いていない。
何度か息を吸い、吐き出して、気持ちの波を沈める。
(円空が長七を連れ帰った訳は、これか。それに)
長七の手の中の、煤けた鈴を、じっと見詰める。
(恐らく潺は、兄上が拵えた間諜だったのだろう)
善次郎が皓月に力添えを求めた時、皓月堂は既にあった。
皓月が即答したのは、宇八郎か忠光の口添えだろう。どちらにせよ、皓月は初めから、そのつもりだったのだ。
(知らなんだのは、儂だけか。いや、それはいい。それより、兄上……御立派な最期で、ございました)
心の中で、何度も何度も手を合わせる。
悲しいのでも、辛いのでもない。誰かを責めるのでもない。
只々、胸の中に空虚な風が、吹いていた。
「いつも通りお鴇に持たせておきゃ……。いや、でも、この鈴のお陰で、俺ぁ早く江戸に戻る気になったんだ」
呟いた長七に、善次郎の沈んた意識が持ち上がる。
「それは、どういう意味だ」
「清水に着いてすぐ、鈴が鳴らなくなりやした。そんなこたぁ、初めてだった。何やら嫌な勘がして、早く江戸に戻らなきゃならねぇと、思ったんでさ」
「……鈴が鳴らなくなったのは、何日前だ」
善次郎の口が、自然に開く。
長七が額に指を当てて、考え込んだ。
「今からだと、五日前、ですかね」
「五日で間違いないな。それより後ということは、ないな」
強く念をつがう善次郎の声に押され、長七が驚いた顔で頷いた。
「仕事に手を着ける前ぇだったから、心を入れるのに苦労しやした。だから、よく覚えておりやすよ」
浮き上がった腰を下ろし、善次郎は顎に手を当てた。
(三社の狛犬……いや、獅子が壊されたのが、四日前。道具の瘴気にお鴇が怯えたのが、昨日。何者かの幻影に襲われたのが、昨晩。兄上の死霊を見たのも、昨晩)
総ては、鈴が鳴らなくなってから起きた出来事だ。
(関わりが、ありそうだ。いや、少なくとも、兄上の死霊との関わりは、きっとある)
思案する善次郎に、長七が問い掛けた。
「善次郎様、お鴇は道具を持って皓月堂に来ましたでしょう。そりゃ俺が、あの道具に何かあったら、皓月さんを頼れ、と含めておいたからなんですが。そん時、お鴇はどんな様子でしたか」
昨日の夕刻。駆け寄ってきた時の、お鴇の様子を思い返す。
「覚束ない足取りで、道具を抱え走ってきた。あの時既に、お鴇は道具に生気を吸われておった。あの日は、儂が皓月を呼び出していた。なかなか会えずに、長い間、道具を抱えていたせいも、あるだろう。すまなかった」
長七は慌てて両手を振った。
「いやいや、そいつぁ善次郎様のせいじゃぁ、ございやせんでしょう。他に、ぼんやりしていた、とか、
「てっきり生気を吸われて憔悴しているのだと思っていたが。言われてみれば、あったやもしれぬ。以前にも、そのような状態があったのか」
長七が、眉間に皺を寄せ、頷いた。
「母親の件があってから、ぼんやりすることが増えやして。一人でぶつぶつ言っている時もありやす。ですが、お鴇に聞いても、さっぱり覚えちゃぁいないんでさ」
「まるで、
すっと襖を開けて、円空が入ってきた。気這いなど全く感じさせない態度に、呆れ返る。
「円空、店先の片付けは、どうした。皓月の探す声が聞こえたが?」
「皓月は菰を貰いに出掛けました。店先はお鴇さんが綺麗に片してくださいました。長七さん、ありがとうございます。礼と、帰着をしくじった詫びに、これを」
長七の前に出したのは、手に収まるくらいの木彫りの仏像だ。
「俺に礼を言われても、って……。この仏様は、円空さんが作ったのかぃ? こいつぁ、見事だ……」
長七が感嘆の声を上げる。仏像を手に取り、まじまじと見入っている。
「円空は仏師でな。木彫りの仏像を得意とする。元は沙門だ」
「聖観音様を彫りました。私は、木に宿る神を、形取ったに過ぎませぬ」
木目を活かした彫りと優しい顔の観音像に、長七は強直のようだ。
仏師である円空は美濃国の出だ。見目は皓月とそう変わらないが、実の齢は、よくわからない。
本人に聞いても、
「六十四で、かりそめに
などと、真顔で答える。
悟りを開いたのか、即身仏となった、の意か。いずれにしても高僧であったのは確かだろう。人離れした神速や、気這いを自在に断つ術などは、
だが、それ以上の詮索はしていない。
(何者であろうと、頼りになる朋輩であるからな)
忠光から許しを得ている以上、正体も齢も、障りがなければ探る必用もない。それに、善次郎が「潺」を使役する前から、円空は皓月堂に出入りしている。
(兄上が信を置いた朋輩ならば、尚更だ)
円空の彫った聖観音像を眺める。胸の中に吹いていた風は、いつの間にか凪いでいた。
「そうだ、円空。先ほど口にしていた、巫覡や口寄せのよう、とは何だ。詳しく教えてくれ」
仏像に見惚れていた長七が、はっと顔を上げる。
「霊や妖に憑かれているのか、降ろしているのか。自分の意思でやっているなら、良いのですが。お鴇さんが覚えていないのならば、意思ではない。恐らく、何者かに体を乗っ取られているのでしょう」
長七が蒼顔で、ぞっとした声を上げる。
「そいつぁ、どうにかする法は、ねぇのかい」
「なくは、ない。ただ少しだけ、お鴇さんと長七さんの、覚悟がいる」
円空が、善次郎を振り向く。善次郎が最初に思いついたのと同じ案を、円空も考えているようだ。
「覚悟って。そんなに、
意気を上げる長七に、円空が首を横に振った。
「長七さんがすることは、特にない。覚悟だけ、すればいい」
「意味が、よくわからねぇ。どうも円空さんの言葉は、要義を得ねぇなぁ」
難しい顔で考え込む長七を、円空は眺めるばかりだ。それ以上は、何も言わない。
「そういえば、環が遅いな。環こそ、一番乗りでやって来ると思っていたが」
ちょうど外から、皓月の声が聞こえてきた。
「環に会えて良かったぜ。菰も大量だと重いし、一人で運ぶにゃぁ難儀だからなぁ」
「大八車でも借りりゃぁ良かったろ! この抜作!」
「車だって一人じゃぁ、引けねぇだろ」
「あんたなら引けるだろ、その太い腕ならさ! か弱い女を何だと思っていやがるんだ」
「あっはは! か弱いって。お前ぇさん、冗談が過ぎるぜ! はははは!」
「笑い過ぎだってんだ。相も変わらず失礼な野郎だよ、ったく!」
言い合う二人の声が、徐々に大きく鮮明になる。善次郎は安堵の心持で、苦笑いした。
「やっと、揃ったな。どれ、菰を運ぶのを、手伝うとするか」
腰を上げる善次郎の両肩をぐっと押して、円空が立ち上がった。
「宇八郎様の鈴の話は、私から皓月と環に伝えましょう」
善次郎の耳元で、ぽそりと、とても小さく、円空が呟いた。
「私が手伝ってきます。今度こそ、皓月に本気で叱られますので。善次郎様は長七さんと、お待ちください。店先にいるお鴇さんにも、こちらで休むよう伝えます」
今度は、はっきりした声で長七にも聞こえるよう言い切り、円空が颯爽と部屋を出た。
「忝い。では、頼む」
もう見えない背中に向かい、善次郎もまた小さく返事した。
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