第三章 潺、皓月堂に集う《二》

 善次郎の前に座すお鴇は、そわそわと落ち着きのない様子だった。

「こうして改まると、何から話せばいいのか、わからなくなりますが……。昨日、突然、胸がざわざわして、気が付いたら道具を抱えて、皓月堂に走っていました」

「道具を持って行こうと思った切掛けは、胸のざわつきだけか?」

 善次郎の問いに、お鴇は首を傾げる。

「よく、わからないんです。時々、自分が何をしていたのか、覚えていない時が、あって。昨日も、何故かわからないけれど、あの道具を皓月さんに見てもらわなきゃ、って思って。その一心で、ここに来ました」

 善次郎は皓月に眼を向ける。皓月が首を傾げた。どうやら皓月も、お鴇からこういった話を聞くのは、初めてらしい。

「兄の長七は、左官職人だと、皓月から聞いた。あれは長七の道具ではないのか」

 お鴇が目を伏し、悲し気な顔をする。

「うちは、おとっつぁんもじっちゃんも左官で、代々あの道具を使っていました。兄ちゃんも、昔は使っていたんです。けど、いつの間にか使わなくなってしまって。どうして、って聞いても、教えてくれないんです。それからは、ずっと部屋の隅の長持に仕舞っていました。私には、何があっても触るなって。近づくだけで叱られて」

 善次郎は黙り込んだ。

(長七が触るなと叱ったのは、あの道具がお鴇の生気を吸っていると知っていたからか。わかっていながら供養しなかったのは、先祖代々使い継いだ道具を手放せなかった、と考えるのが道理、か)

 俯くお鴇に目を向ける。姿をしっかり識認してから、善次郎は眼を閉じた。瞼の裏に、お鴇と輪郭を同じくした黄色の灯火が揺れる。

 善次郎は、更に気を尖らせた。

(皓月堂に住み着く座敷ぼっこのような、妖に近い気這いだ。だが、妖ではない。お鴇に流れる気は間違いなく、人だ)

 目を開き、お鴇を伺う。依然、不安そうな表情には、虚偽や悪意の一片もない。

 死神が言った「良くも悪くも純粋で正直」という言葉。あの言葉が正に、ぴったりと当て嵌る。

「あの道具が、兄ちゃんに何か悪さしたら、どうしようって。走りながら思っていました。どうして、そう思ったのか、自分でもわからないけど。ただ、とても怖かった」

 身を震わすお鴇は、あまりにも隙だらけだ。善次郎からすれば、丸腰で真剣に向き合っているのと、同じに見える。

(相当に怖かったろう。だのに道具を放り出しもせず、兄のため、走り回るとは)

 お鴇の真っ直ぐさと思いやりの心は、痛いほど感じ取れる。

「実は預かってすぐ、あの道具を改めた。悪い気が纏わりついておった。其方が昨晩、倒れたのは、あの道具が其方の生気を吸っていたからだ」

 驚いた顔で、お鴇は声を詰まらせた。

「やっぱり、悪いものが憑いていたんですね。私の命を吸っていたなんて……。でも、兄ちゃんの命が吸われなくて、良かった」

 ほっと息をつくお鴇の顔に、安堵が浮かぶ。善次郎は、かえって憂慮を濃くした。

「其方はもう、あれに触れぬがいい。道具はこのまま、皓月堂で預からせてくれ。長七にも話を聞きたいが。江戸に戻るのは、いつだ?」

 お鴇が素直に頷く。指を折りながら、日を数え始めた。

「十日くらいで戻るって言っていたから……。あと三日くらいで帰ってくると思います。仕事の進み具合で、もう少し遅くなるかもしれませんけど」

 善次郎は顎に手を当て、思案する。

「ならば、お鴇。其方さえ良ければの話だが。長七が戻るまで、皓月堂に留まってくれ。男所帯故、女手を貸してもらえると助かる。儂も皓月も、誓って不埒な振舞いはせぬ」

 先ほどとは打って変わった表情で、お鴇は大きく頷いた。

「善次郎様と皓月さんを、信じていますから、大丈夫です。私でお役に立てるなら、是非ここに置いてください。助けていただいたお礼が、したいんです」

 にっこりと笑う顔は明るく、まるで花が咲いたようだ。

(綺麗に笑う娘だ。心根も素直で愛らしい。それ故に、とても危うい)

 自分では気づいていない鋭い感と、身を守る術を持たない丸腰のさま。見ている側が不安になるほど明け透けな性格は、食ってくれと、悪いものに身を差し出しているようなものだ。

(余計に、このまま帰すわけには、いかなくなった)

お鴇の笑顔を見て、善次郎は腹を括った。

「では早速、朝餉の支度を頼みたい。体は、大事ないか?」

「勿論です。こう見えて、丈夫なんですよ。皓月さん、お台所、借りますね」

 嬉しそうな足音を立てて、お鴇は居間を出て行った。

 後ろ姿を見送ると、善次郎は静かに息を吐いた。

「鋭い気に頭と体が追い付いていないのだろう。あのままでは、いずれ凶変に巻き込まれる。いや、もう巻き込まれておるか」

「しかし、妙ですね。俺はお鴇に何度か会っています。あれほど気が敏いとは、今まで知りやせんでした」

 不思議そうに首を傾げる。善次郎も不審に思った。この皓月が、お鴇の気の鋭さに気が付かないはずがない。

「長七とも知り合いであったな。兄も同じか?」

 皓月は大仰に、首を横に振った。

「とんでもねぇ。長七はお鴇より遙かに敏い気を持っていやすがね。真反対ですよ。自在に使いこなして、仕事に活かしているくれぇだ」

「仕事とは、左官の仕事に、か?」

「長七は左官ですが、あの家筋は代々、鏝絵を得意としていましてね。特に長七の鏝絵は人気がありやして、神が宿るとまで言われる腕前でさぁ。だから清水のほうからも声が掛かる訳でして」

 鏝絵は左官が礼代わりで添え物程度に施す場合が多い。鏝絵そのものを生業とする者は、ほとんどいない。鏝絵のみで仕事が入るのは、異例と言える。

「長七の鏝絵は事実、神や妖が好むもんで。蔵前の旦那が、自分とこの蔵門に鏝絵を注文したり、寺社から直に仕事を請け負うことも、あるそうですよ」

 善次郎は素直に感心した。

「そこまでの鏝絵となると、一度、拝んでみたいものだな。どんな為人なのか、長七とも話してみたい」

 長七という男が、純粋に気になった。

「どのみち会うんですから、仕事の話も聞いてみると面白いですぜ。戻りが三日後なら、思ったほど待つってぇもんでも、ありやせんしね」

「何にせよ、お鴇の事情は長七に聞かねば分かりそうにない。帰りを待つより他にないが。その前に、環を呼ぶか」

 善次郎は袂から、月白の鈴を取り出した。環も皓月と同様に、善次郎が使役する間諜「潺」である。

「お鴇を守るにゃぁ、それが一番かもしれやせんね」

「御役目の話もある。環と円空を呼ぶとしよう。早いに越したことは、ないからな。時に、円空はどこにいるか、知っておるか」

 円空もまた「潺」だ。常に各地を行脚している。江戸に留まるのは、潺の仕事が入る時くらいのものだ。

「さぁ、わかりやせんが。どこに居ようと円空なら、一足飛びで江戸に戻って参りやしょう。言葉の通り、直ぐにね」

「確かに、そうだな。潺は人離れした者ばかりだが、円空は一際だ。案ずるまでもなかろう」

 赤い根付を手にして、善次郎が鈴を振る。

「環と円空の鈴よ、鳴れ」

 涼やかで優しい小川の潺のような鈴の音が部屋に流れる。音色は短く、すぐに消えた。

「皆で集うのも、久しいな」

 潺が集うのは、大役を仰せつかった時だけだ。懐古とは違った思いが込み上げる。

 善次郎が零した声を、皓月は静かに聞いていた。

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