第一章 善次郎、気鬱を拝す 《二》
善次郎は、壊された狛犬を自分の目で識認するため、すぐさま江戸城を出た。
去り際に、忠光から渡された紙を開く。
『神田明神、根津権現、日吉山王大権現』
と、名称だけが書かれていた。
「大きな社ばかりだな」
忠光の言った通り、三社とも将軍家が尊崇(そんすう)する、古より続く神社だ。
「一先ず、先に書かれている神田明神から廻ってみるとするか」
紙を袂に仕舞い、目を上げる。一匹の猫が、前を横切った。
鈴付きの朱の首輪をぶら下げた真っ白い綺麗な毛並の猫が、人の足下をひょいひょいと潜り抜けて悠然と歩く。
(あれは、猫又だな)
直ぐに
(妖なら、何か知っているかもしれん)
時に妖は、人の知らぬ事情を知っている。しかも、あの猫又は、見目からして人に飼われているのだろう。妖の事情のみならず、人の話にも詳しいかもしれない。声を掛けて、損はない。
ふい、と猫又が善次郎に眼を向けた。歩く前足を、ぴたりと止めると、向いた黒目が見る見る細く鋭くなった。
「しゃーっ」
びん、と伸びた尻尾から全身の毛並を逆立たせ、威喝する。猫又は風の如く細い路地に駆け込んだ。
善次郎は呆気に入って、佇んだ。
「まだ、声すら掛けておらぬぞ」
しゅんと肩を落とし、やむを得ず歩き出す。
(何故、妖に、あんなにも避けられるのか)
御庭番に就いて気が付いた事実だが、善次郎は、どうにも妖に好かれない。声を掛れば逃げられるなど、毎度の失策だ。
「声を掛ける前に逃げられたのは、初めてだな」
思わず乾いた笑いが漏れた。
明楽家の人間は、先祖代々ずっと妖と仲が良い。父も兄も、その例に漏れず――特に兄は、その気質が強かった。
家の者にとっては何でもないこの気質を大御所様に見初められて以来、明楽家は怪異の絡む仕事を一任されている。
此度の御役目にも、きっと妖が絡んでいる。だからこそ、お鉢が回ってきたのだろうが。
(儂は兄上のように、妖と仲良くなれぬ)
兄がどのような手段で妖を手懐けていたかを、善次郎は知らない。
「御役目に活かすには、どう鍛錬すればよいのか」
忠光の心願の大きさと自分の不甲斐なさに気鬱が増した。それでも善次郎の足は神田明神へと向かう。そこが善次郎の真面目な性質だ。
思案して歩くうちに、いつの間にか、本郷まで来ていた。
立派な鳥居は、遠目からでも存在が大きく見える。鳥居の奥に建つ立派な朱塗りの門は、造りの荘厳さも相まって威厳を放つ。
(胸が騒ぐ。よくわからぬが、嫌な感じがするな。今までにない気味の悪さだ)
日頃は神の護りで安息を得る所から、得も言われぬ不気味さが漂う。頭を振って嫌な空気を取り払う。善次郎は思い切って境内に足を踏み入れた。
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