そして、猫になる

白川ちさと

第1話

 7月17日、Twitterにて新しいアカウントが立ち上がった。


 アキヒト『猫を飼い始めました。名前はジョーです』


 猫の写真が添えられている。飼い主と猫の写真だ。三毛猫だ。オレンジの部分が多い。その日のツイートは猫垢から三ついいねがついて終わった。


 まさか、このただの猫垢が世間を賑わすアカウントになるとは誰も思わなかった。

 


 ◇



 藤森明人ふじもりあきひとは地方の国立大学の大学生だ。社会学部の二年生で、天文サークルに入っている。天文サークルには明人の想い人がいた。農学部の江原さんだ。背が低くて眼鏡を掛けていて地味だけれど、声がとても可愛い。たまに喋ると、心がぽかぽかと温まる。隙をみて話しかけて一言二言話す。それだけで満足してしまう。そんな残念な関係だった。


 大学進学を期に明人は一人暮らしをしていた。ぼろいアパートで築半世紀は経っているそうだ。そのため、家賃は格安だ。風呂は無く、近くの銭湯に行っていた。その銭湯から出てきたときの話だ。


 明るい満月が他の星の光を消すほど輝く夜空の元、銭湯の正面に猫が座っていた。三毛猫で毛に艶はない。鋭い視線が野良を思わせた。


 明人は決して猫好きではない。しかし、その猫を見た途端、何かを自分に訴えている。

 そう思った。


「おい。猫。どうした?」


 明人はしゃがみ込んで話しかける。猫はにゃあとも言わず、逃げることもせず、じっと明人の顔を見つめた。値踏みをしているような視線になんだか居心地が悪くなる。


「じゃあな」


 立ち上がって手を振り、その場を去った。しかし、後ろを振り向くと猫が付いてくる。


「おいおい、エサも何も持ってないぞ」


 そう言い聞かせても付いてくる猫。困ったぞと思いつつも、家の中に入ってしまえばついてくることは出来まい。


 猫は銭湯から歩いて三分の明人のアパートにまでついて来た。


「じゃあな。猫」


 猫が部屋まで入ろうとするが、その鼻先の前でバタンと扉を閉めた。


「マタタビの匂いでもするかな」


 明人は自分の腕の匂いをクンクンと嗅いだ。すると、外からドンッドンッとドアを揺らすほどの衝撃と音が鳴りだす。


「ま、まさか……」


 にゃあご、にゃあごと開けろと訴える鳴き声まで聞こえてきた。


「嘘だろ」


 明人はただどうしていいか分からず、その場に突っ立っている。猫の体当たりが三分ぐらいしたときだろうか。


「ちょっと、藤森さん!?」


 この甲高い声は隣に住んでいる大家だ。明人は慌ててドアを開ける。その隙にスルッと猫が部屋の中に入った。


「もしかして猫を飼っているの?」


 大家は細身の中年女性で、寝間着姿でカーラーを巻いている髪をいじりながら言う。


「ち、違います。銭湯から着いてきてしまったんです」


「どうせ、エサかなにかやったんでしょう。まあ、騒がしくしなければいいのよ。猫の一匹ぐらい飼ったって」


「え、えっと……」


 追い出せと言われるに違いないと思っていた明人。飼うつもりはないが、文句を言われなくてホッとする。


「このアパートも半年後には取り壊されることに決まりましたからね」


「え……、そうなんですか」


「ええ。だから、他のペット可のお部屋を探してくださいね」


 それだけ言うと大家は背を向けて去って行った。明人はゆっくりとドアを閉める。


「まあ、ぼろい所だしな。仕方ないだろうな」


「そうだよね。……ん??」


 大家はいま去って行った。明人の四畳半の狭いアパートは当然一人暮らし。


 明人は振り返った。そこには今しがた入ってきた猫が座っている。猫は猫で、目を大きく開いて驚いている様子だ。


「明人、お前。俺の言っていることが分かるのか!?」


「ね、猫がしゃべってる!? うわっ!」


 猫がしゃべる上に、自分の名前まで知っている。明人は後ろに下がったと同時に、足を滑らせて、後頭部を玄関のドアノブで強打してしまった。


「大丈夫か、明人」


 いっそのこと気絶したかった。そして、目が覚めたら猫はいない。ただの白昼夢を見ていただけだと思うことが出来たのに。


「……なんで、俺の名前を知っているんだ」


 目を覚ますと猫が自分の顔を覗き込んでいる。


「それは俺が杉崎丈すぎさきじょうだからだ」


「杉崎丈?」


 懐かしい名前だった。中学の同級生の名前だ。明るい奴でお笑い芸人を目指していると言っていた。実際にクラスを笑わしたり、学祭の音頭を取ったりと目立つ生徒だった。中学を卒業してから、高校は別になり、数回数える程度にしか会っていない。


「丈が何で猫に?」


 明人が起き上がると向かい合った丈と名乗る猫が腕を組んだ。


「それがな。どうも、猫に変身させられてしまったみたいなんだ」


「え……」


 なんだ、そのSF設定。しかし、変身したのが猫だなんて。


「ぷっ」


 明人は思わず笑いを漏らしてしまった。その頬に猫パンチが繰り出される。


「笑いごとじゃない!」


「痛ってー!」


 しなやかな鞭に打たれたような痛さだ。そのとき、ドンッと隣からうるさいぞと壁を叩かれた。


「……それで、なんでここに?」


「俺も分からない。記憶があいまいなんだ。俺は確かまだ、高校生だったはずなんだ。それなのに、明人は大学生になっていて、よく知らない町に来ている」


「ここは隣の県だよ」


 大学進学は地元の大学ではなく、隣の県の大学を受験していた。


「何にしても、しばらく厄介になるよ。野良猫なんてやってられないし」


「まぁ、いいけど……」


 大家さんには既に了承済みだ。ここで追い出すのは可愛そうだろう。


「お腹空いたんだけど」


 猫らしくなく、お腹をさする丈。


「えー、大したものないぞ。あ。猫まんまなら」


 こうして、明人と猫になった丈との生活が始まった。



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