第7話 8年前────不吉の予兆

 床に染み込んだ酒の跡。大きなひびが入った、黄ばんだ壁。机には食べこぼし。酒で理性を飛ばした男が唾を飛ばしながら喚き散らし、取り巻きの女達は黄色い嬌声を上げて男にしなだれかかる。

 いつもの酒場。いつもの風景。日が沈み、月が空高く昇る頃、その日の仕事を終えた男達が、安酒を求めて貧民街まで集まっていた。

 その男は、両脇に女を侍らせて座っていた。小柄なイチヨウよりやや背が高い程度の、小太りで赤ら顔の不潔な男。上唇から飛び出した黄色の出っ歯が、まるでネズミのようだった。

 この酒場ではよく見る類の男だ。可能な限り近づきたくないはないが、仕事だから仕方がない。

 男と男に絡みついている女から注文を取り、足早にその場を離れる────そのつもりだったのに、男に背を向けた瞬間に腕をつかまれた。

「おい、お前、いくらだ?」

 しゃがれているのに、妙に甲高い耳障りな声だった。

 反射的に振り払いたくなる衝動を堪えて、腕を掴まれたままゆっくりと振り返る。出っ歯の男が、にやにやと笑っていた。

はやらないって決めてるの。他を当たって」

「はあ?」

 男の顔が歪む。眉間に深いシワが刻まれ、声が一気に低くなった。

「ぎゃはははははっ、なんだあてめえお高く止まりやがって。この俺様の誘いを断るたあ、良い度胸してんじゃねえの」

 わざとらしい笑い声。男の右の頬だけが不自然に痙攣する。最初は軽い調子だったが、後の方になるにつれ、出っ歯の男の声は低く重くなっていった。

「てめえ何様のつもりだ、あ? お前みたいなどうしようもないブスを女扱いしてやったんだ。泣いて喜ぶところだろうがよ。まったく、躾がなってねえなあ」

「そうよぉ」

「すっごーい」

 男の両脇に控えていた取り巻きの女が、粘ついた嬌声を上げた。左の女が男の肩にしなだれかかり、右の女はケタケタと笑いながら手を叩いている。

「そうだよなあ、そうだよなあ。ほら見ろ、はみんなこうなんだよ。お前みたいなとは違って」

(だったら私なんかほっといて、両脇にぶら下げてるだけ相手にしてりゃ良いでしょうが)

 胸中で忌々しく吐き捨てる。声には出さない。相手は客で、しかも男だ。

 目を合わせたら睨みつけてしまいそうだったため、イチヨウは男の赤らんだ鼻の頭をぼんやりと眺めていた。

 どこにでも居る、掃いて捨てるほど居る普通の男だ。このような男は、毅然と拒絶すれば逆上し、愛想良く穏便にあしらおうとすれば更に調子に乗る。

「知ってるぜ、お前のこと。こんなしみったれた汚ねえ酒場で男漁りしてるくせに、毎週教会に通ってるんだってなあ?」

「··········」

「教会で教えてもらわなかったのか? 女は男に従わなければならないって」

「··········」

「聖句にちゃんとあったはずだよなあ? お前、教会でも男漁りしてんのか? あ?」

 ――――きゃはははははっ、やだあこわーいっ。

 取り巻きの女達の声が、妙に遠くから響いてきた。

 この男の言う通りだった。確かに聖書には、『女は主人である男に従わなければならない』と書かれている。

 神は救世主の性別を、女ではなく男を選んだ。だから、男は女よりも救世主に近いものとして扱われている。

 だから、救世主はへパンと葡萄酒を分け与える。救世主と同じ性別である男だけが、人として扱われている。

 ――――殿方にパンと葡萄酒をお与えになったのなら、ご婦人や子供達には何をお与えになったのかしら。

 イチカの声が聞こえた気がした。男の両腕に絡みついている取り巻きと同じ性別の、可愛らしい女の声。

 だが、イチカは、この取り巻き達とは違う。

「··········男だから従うんじゃないのよ」

「あ?」

「相手が男だから、自分が女だから男に従うんじゃないの」

「はああ?」

 男が唸り声を上げる。彼の両脇に控える取り巻き達は、驚いたように小さな唇をすぼめていた。

 ここは口を閉ざすべきだ。男は好きなだけイチヨウを罵倒し、男に逆らう愚かな小娘に説教をしてやる快感に酔い、男の気が済むまで身の程をわきまえない馬鹿な女を貶し続けるための場面のはずだった。

 ――――相手が男性だから、自分が女性だから従うわけじゃないのよ、イチヨウ。

 イチカの声を思い出す。

 黙ってやり過ごすべきだ。そうわかっているのに、止められなかった。

「聖書が作られた時代では、司祭や教師、政治家のような指導者には男しかなれなかった。家長だって男だった。確かに良い指導者の言葉なら耳を傾けるべきだわ。良い指導者なら、ね。どんな男だろうが、女子供は男に絶対服従すべきだなんて意味じゃないのよ」

 全てイチカの受け売りだ。聖書の言葉に癇癪を起こしたイチヨウに、イチカは静かにそう言った。

 ――――ねえ、イチヨウ。私はね、父さんが東地区の教導師長だから、特別に司祭として認められたんですって。

 穏やかで優しい聖職者の顔。だが、その時のイチカの瞳には、いつもとは違う冷たい光が宿っていた覚えがある。

 ――――司祭になるためにたくさん勉強したつもりだけど、私と一緒に学んだ男の子達は合格点さえ出せれば良かったのに、私だけは満点でなければ不合格だったわ。少しでも間違えれば『女には理解できない』と馬鹿にされた。男の子達が同じ間違いをしても、そんなこと言わないのに。

 あれはイチカの怒りだ。この東地区で強い権力を持つ教導師長の娘、傍からは苦労知らずで何でも思い通りになるお嬢様のはずのイチカでさえ、イチヨウと同じ種類の怒りを抱えていた。

 ――――まだまだ女性の指導者は少ないわ。それでもね、

「今は、女だって司祭や教師に、指導者になれる」

「生意気言ってんじゃねえよ、ブス!」

 いきなり乱暴に突き飛ばされた。踏みとどまることが出来ずに、背後の机に背中がぶつかった。

「おい、なにぶつかってんだよ!」

 それまで我関せずを決め込んでいたその席の客が、イチヨウに向かって怒鳴り声を上げた。


 出っ歯の男だけでなく、その背後の席の客まで怒鳴り声を上げた頃に、ようやく店の奥で息を潜めていた店主が姿を現した。

「ああ、ああ、なんてこと、なんてことだ、たいへん失礼しました、お客様!」

 店主がぺこぺこと二人の客に頭を下げる。笑顔を作ろうと努力したようだが、唇の右端だけを引き上げた異様な顔になっていた。

 後ろの席に居た男は太い鼻息を吹いた後にむっつりと座り直す。出っ歯の男は盛大な舌打ちを残した後、両腕に取り巻きの女を絡みつかせて店から立ち去った。

 何とか騒ぎを収めた店主は、出っ歯の男が姿を消した途端に無表情になった。イチヨウの腕を掴み、半ば引きずるようにして店の奥へと向かう。

「てめえ何様のつもりだ? デブでブスのババアのくせにお高く止まってんじゃねえよ!」

 それから閉店までの数時間、店主はイチヨウに向かって怒鳴り散らしていた。

 イチヨウはただ黙って聞いていた。店主の気が済むまで、ひたすら怒鳴られ続けるしかない。

「胸だろうが尻だろうが触らせてやれば良いじゃないか、減るもんじゃなし! 旦那が抱きたいってんなら抱かれてやるのが女ってもんだろうがよ! お誘いくださった旦那に失礼だろうが!」

 イチヨウはひたすら口を閉ざしていた。顔を真っ赤に染めた店主が怒鳴り散らし、壁を殴り、地団駄を踏むのを、冷めた目で見つめていた。

「殴られなきゃわからんか、あ? お前みたいなわきまえない女が生意気な口を叩けるのは、俺ら男が殴らないでいてやってるからだ。なんて優しいんだろうなあ。お前みたいな、無駄に空気を使うだけの馬鹿女を殴らないでいてやるだなんて」

 店主の罵倒は止まらない。

「謝れ! 感謝しろ! お前のようなデブでブスのなんの取り柄もないババアを殴らないでいてやるんだ! 謝れ!」

 だが、店主にどれだけ怒鳴りつけられようとも、イチヨウは決して謝罪も感謝も口にしなかった。

 やがて、体力を使い果たし、数時間怒鳴り続けたことで喉まで潰した店主に、イチヨウは半年の減給を言い渡された。

「この程度で済ませてやったことに感謝しろよ。今度同じことをやらかしたらクビだからな」

 店主は最後にそう言い捨てて、イチヨウを解放した。

 だが、まだ終わらない。

「見て。あの子よ」

「『今は、女だって司祭や教師に、指導者になれる』だっけ? 凄いよねえ、あの子、字もまともに書けないくせにあんなこと言っちゃうんだ」

「私女だけど、女が指導者になるなんて無理だと思うの。もしほんとにそうなら、とっくにみんななってるはずでしょ」

 帰り支度をしながら、給仕の娘達がこそこそと小声で話していた。

 客の居ない酒場の中は静かだ。どれだけ声を潜めていても、全て聞こえてしまう。

 イチヨウに聞こえていることを百も承知で、それでも娘達はあくまでも内緒話の体を崩さず、イチヨウを嘲笑する。

「男の人に誘ってもらったんだから、その通りにすべきだったのよ。ブスのくせにお高く止まっちゃってさあ」

「日曜日に教会に通ってるってだけで、司祭様になったつもりのかしら」

「私女だけど、あんな子に女を代表して欲しくないわ。だって、女は男と違って責任を取れないし、誰かを養うなんてできないもの。私女だけど、指導者になんかなりたくない。女がみんなあの子みたいだと思われたら迷惑だわ」

 給仕の娘達の嘲笑を、イチヨウは黙って聞いていた。

 男は怒鳴る。女は嘲笑する。どちらも気が済むまでやらせておくしかない。

(明日は日曜日よ)

 娘達の嘲笑を聞き流しながら、イチヨウは胸中で繰り返した。

(日曜日になれば、イチカに会える。それに――――)

 明日は日曜日。

 イチカと共に、礼拝者達の前で聖歌を歌う日でもあった。

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