天災犬

 現れたのは迷い犬だった。どこからやって来たのか、どこから入り込んだのか。それは誰にもわからない。

 しかし、オリンピック予選決戦会場にその仔犬は現れていた。


 すでに様子のおかしさに気づいた観客はどよめきの声を発してはいる。しかし、大抵の観客はその出現に気づかず、ましてや調理に集中している料理人たちは犬が現れたなど、思いもよらない。

 鹿島かしまもまた、一心不乱にただ料理に向き合っていた。


「あ、わんちゃん」


 思わず声を上げたのは来海沢くるみざわ撫子なでしこだ。漁り猫チャコール・グレイ・フォルクローレの異名を持つ激辛アスリートで、決勝出場者ファイナリストの一人であった。麺を釣り上げ、空中で冷やす恐るべき技術、漁り猫スナドリネコを持つ。


 もう一方の決勝出場者である天才の種子ライジング・プロミネンス高梨たかなし日葵ひまりは、犬のことなど気にせず、必死でラーメンを食べている。

 とはいえ、食べているのは辛さゼロの海の幸豆乳ラーメンであり、一切の得点にならない。しかし、その豊富な魚介の旨み、豆乳のまろやかな味わいに日葵は夢中になっていた。


 仔犬はトコトコと歩く。照明を支えるための台を登り、棚の上に進み、やがて、厨房のセットの上を歩き始めた。

 ここへ来て、ようやく鹿島も仔犬の存在に気づいた。

 何やってるんだ。そう大声を荒げそうになったが留める。子犬が驚いてセットの狭いへりから落ちてしまっては大変だ。その下には、極辛の北区スープが煮立っている。


「ああっ!」


 そう思った矢先、鹿島は大声を上げた。まさに懸念したとおりのことが起こったのだ。仔犬が足を滑らせ、北区スープの鍋の中へと落ちそうになっている。


「キャンキャン!」


 仔犬が甲高い泣き声を上げた。驚きと悲痛さがない交ぜになっている。

 セットは思いのほか高く、仔犬を抱き上げることはできない。かといって、鍋はセットに備えられたもので、移動させるような作りにはなっていない。

 万事休す。仔犬を救うことは不可能であるかのように思えた。


「私、やります」


 声を上げたのは日葵だ。海の幸豆乳ラーメンはすでに平らげている。

 彼女はからになったどんぶりを掲げると、鍋の中に突っ込んだ。そして、それを一息に飲む。


 見ている鹿島も息を呑んだ

 北区ラーメンのスープは激辛である。それは、今は亡き均坂ならさかの親父さんが東京23区の極北、北区の荒々しい気象をイメージして作り上げたラーメンだ。その辛さは中国料理・均坂ならさかのメニューの中でも群を抜いている。

 それを一息に飲むなんて自殺行為だ。ましてや、鍋の中身を一人で全部飲み干そうとするなら、その身体に異変が起きてもおかしくない。


「無茶だ、やめるんだ! そんなことをしたら、仔犬を助ける前に君が!」


 思わず、鹿島は叫んだ。しかし、日葵はそんな言葉を聞いてなお、にっこりと笑った。そして、そのまま再びどんぶりで北区スープを掬い、そのまま飲む。

 それは幾度となく繰り返された。その激辛が舌を攻め、喉を焼き、胃を苦しめただろう。それでも、日葵は笑顔を絶やさず、ひたすらに北区スープを飲み干していく。

 日葵の笑みはまるで天使のように美しく、その行いは高僧の如く貴い。会場の誰もが日葵の姿に見蕩みとれ、心酔していた。


 バタッ


 日葵は倒れる。それと時を同じくして、仔犬も鍋に落ちた。

 鍋の中にはすでに北区スープは一滴たりとも残されていない。日葵が飲み干したのだ。

 仔犬は救われた。日葵の犠牲と引き換えに。


――ワアァァァァァァァ


 会場中から歓声が鳴り響いた。日葵の貴い行為に皆が感動している。

 ただ、戸惑っていたのはアナウンサーの豚饅頭ぶたまんじゅう篝火花シクラメンだ。彼女が伝えるべき真実は大衆マスの思惑にあまりにも反していた。


「高梨選手、素晴らしい活躍ファインプレーでした。彼女のおかげで仔犬は助けられたのです。

 ですが、試合としては高梨選手の再起不能リタイヤ。優勝は……」


 篝火花の声に、湧き立っていた観客たちの歓声が消沈していくのがわかる。それはアナウンサーとしてもつらいことであった。

 だが、その声を遮るものがあった。


「やめましょう。誰が優勝したかなんて一目瞭然です。

 私は日葵さんが倒れる前に降参ギブアップしていた。そうじゃないですか?」


 それは優勝したはずの撫子の言葉だった。撫子もまた日葵の崇高な行為に感動していたのだろう。自らの勝利を取り下げてでも、彼女の行動に報いようとしていた。

 その宣言を聞き、消沈しかけていた観客たちの歓声が再び沸き立つ。


 鹿島はその歓声を背に、虎島とらじまの元へ向かった。オリンピック予選大会の大会運営委員長である。


「どうするんですか? 日葵さんを優勝にしないと観客が納得しないでしょう。ですが、ルールとしては撫子さんを優勝にしなければ、筋が通りません」


 鹿島の言葉を聞き、虎島は腹を抱えて笑った。


「カッハッハッハッ、まさかこんな事態になるとはな。だが、これこそ伝説となる大会になるだろう。

 敗北したとて、日葵の名は永遠に刻まれることになろう」


 その言葉を発した後、虎島は少し冷静になる。


「日葵は生きているんだろうな。準優勝であってもオリンピック出場の権利はある。日葵が日本代表でないオリンピック本戦なんて見たくもないぞ」


 それを聞いて、鹿島もハッとする。日葵に限って、激辛で死ぬなんて思いもよらなかった。あれだけ強靭な胃腸の持ち主なのだ。

 しかし、その可能性も確実に存在する。いや、まさか日葵に限って、まさか……。


 鹿島は、今度は医療室に向かって駆け出していた。

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