8.聖ドラグス暦1859年、王都メルヘアⅠ




 こんな夜会だって、今日届いたばかりのレイチェルからの手紙のことを考えれば愛想笑いをいくらだってはりつけられた。


 オスカー・ローラントはもうすぐ二十三歳になる。今年、フォルトマジア国王を支えつづけた魔術師団長が年を理由に引退することになったためその後任として若くしてオスカーは魔術師団長に任命された。やっかみがなかったわけではないが、オスカーの魔力の高さは誰もが知るところであり敵う者も当然いなかった上、引退する魔術師団長ではなく国王が直々にオスカーを指名してきたこともあって誰も反対する者は出なかった……オスカー自身はあまり気乗りはしなかったが。


 最近のレイチェルからの手紙には、友人たちと一緒に参加した夜会の様子や、週末は領地にピクニックに行って領民の女の子たちも一緒に木苺を摘み、みんなでパイを作ったことが楽しそうに書かれていた。

 レイチェルは十六歳――今年、十七歳になる。春に社交界にデビューし、成人したはずだ。オスカーが最後に彼女の姿をちゃんと見たのは彼女が王立学院の一年生だった時なので、もう何年もその姿を見ていない。きっと素晴らしい淑女になっているだろう。手紙から察するに身分の隔てなく誰とでも親しそうだし、きっと――オスカーの思考は、不愉快な声で遮られた。


「――この娘がつけている髪飾りはトゥーランの特に腕利きの職人に作らせたものなのです」


 オスカーはにっこりと、しかし彼を知る者から見れば完全に上っ面だけの笑顔をはりつけた。全く聞いていなかった。


 今は王宮で開かれている夏至の夜会の最中。就任したばかりの若き魔術師団長であるオスカーがほとんど主役と言ってもよかったが、彼はもう帰りたくて仕方なかった。


 目の前にはでっぷりとした体格の伯爵が、王立学院を卒業したかしないかくらいの年齢の娘を連れていた。二人の目は期待と下心いっぱいでオスカーに向けられている。確かに娘の髪にはオスカーの故郷であるトゥーラン製だと思われる髪飾りがついていたが、特に腕利きの職人が作ったようには見えなかった。

 トゥーランの職人が作る細工などはほとんど祖父の商会が卸しているので、伯爵親子が購入した小売りの商人が代金をつり上げるために勝手なことを言ったのだろう。どうでもいいが。


 太った伯爵は娘についてあれこれ話している。そしてその合間にオスカーの周囲にいた別の貴族の父親と娘がつっこみを入れて今度は彼らが話しはじめる――というのを、先ほどから延々とくり返されていた。若い魔術師団長を何とか手中に収めたい貴族たちの輪の中心から、友人たちの姿を見かけて助けを求めるように視線を投げかけたが、友人の一部はニヤニヤ笑って傍観を決めこみ、残りは自分たちの妻や婚約者に夢中なフリをして完全に無視を決めこんだ。


「魔術師団長は侯爵家の跡取りでもいらっしゃる。結婚相手の条件として望まれることは多いのではないですかな?」


 自分の娘はどんな条件でも当てはまるだろうという自信に満ちた声だった。いつの間にか話はオスカーの結婚相手のことになっていたらしい。友人への報復についてを考えて現実逃避していたオスカーはまた現実に引き戻された。


「そうですね……でも今は、魔術師団長として陛下のお力になることで頭がいっぱいなので」


 「結婚は考えられません」と暗に伝えたが、いつもならそこで引き下がる貴族たちはなぜか今日は食い下がってくる。魔術師団長の肩書が相当おいしそうに見えるらしい。


「いやしかし、魔術師団長になったからこそ公私を共に支える相手が一刻も早く必要でしょう」


 どうして言い切れる? 「これだと思う女性に巡り合えれば」と当たり障りなく答えながらオスカーは笑顔を崩さない自分を褒めたたえたかった。


「あの、オスカー様!」


 伯爵の娘が勇気を振り絞った声でオスカーを呼んだ。この父親に比べたらまともな顔立ちだが、化粧やドレスに品がなく、その媚びた視線もオスカーの心を冷えさせた。


「オ、オスカー様はどんな女性がお好きなのですか? その、結婚されるなら――」


 その勇気は賞賛しよう。「そうですね……」とつぶやいたオスカーの視界の端に心配そうな両親の顔が映った。世界で一番オスカーの性格を知っている二人だ。外面よくするのが得意なオスカーがうっかり失言したことは今まで一度や二度ではないことを二人はよく知っている。その上、大人になってからオスカーは知ったのだが、両親は彼の気持ちに随分前から気づいていた。


「僕と同じ、虹色の虹彩を持っている女性と出会えたら――やぶさかではありませんね」


 ローラント夫妻は知っていた。オスカーが結婚を焦らないのは、結婚願望がなく魔術研究に心血をそそいでいるから――だけではないことを。






***






 軽率だった……オスカーは王都のローラント邸の自室でレイチェルからの手紙を握りしめてがっくりとうなだれた。新学期がはじまるため、レイチェルは王立学院の寮へと戻ってきていた。手紙には夏季休暇の間、彼女を悩ませ今も悩ませつづけている卒業後の話題が主に書かれている。魔術に関わる仕事がしたいという彼女は、自分の興味のためだけではなく民のためも思ってその願いを抱えていた。そこまではオスカーの顔を緩めるに十分だったのだが、問題は手紙の後半だ。


 あの夜会でオスカーが言った言葉がめぐりめぐって彼女を怒らせていた。しかも彼女は「オスカー・ローラントの顔も知らない」と言ったのだ。オスカーは彼女を本当に大切に思っていて、いつだって彼女のことを忘れたことなんかなかったのに……。


 手紙の返事は基本的に書かないが、今度ばかりは書こうかと本気で悩んだ。しかし思い浮かぶ文面は言い訳ばかりでこれではアラン・スミシー――これがオスカーの偽名だった――が、オスカー・ローラントだとすぐにバレてしまうだろう。バレて問題があるわけではなかったが、折角彼女が“アランおじ様”に寄せている信頼を失うのは恐ろしかった。こんな手紙をもらった後では特に……。返事は書かなかった。


 新学期が本格的にはじまり、それとなく学院内のことを調べさせたが学院内に限らず社交界デビューを終えてまだ婚約者すらいない独身の貴族令嬢たちはこぞって生まれながらの瞳の色をどうにか虹色に変えられないか四苦八苦しているらしい。

 重いため息が口からこぼれる。次の手紙にどんなことが書かれているか考えるだけで憂鬱だ。彼女は自分の顔も知らないというのに、自分は彼女に何もしていないというのに、彼女の中のオスカー・ローラントの評価だけが急降下していく。


 「オスカー様が魔術以外のことでそんな思い悩むなんて……」と侍従がおもしろそうに言ってきたが、正直かまっていられなかった。レイチェルは“アランおじ様”に自らの瞳の色について語ったことがない。直接会うことがない上に彼女は人前では瞳の色を隠しているのだからわざわざ語ることはないだろう。その上でうっかりなのか書かれた「瞳の色をごまかしている」という一文に、オスカーはますます気持ちが重苦しくなった。


 とはいえ、仕事には何の影響も見せないところがオスカーの優れたところの一つだ。いつもは王宮内にある魔術師団の本部で仕事をしていることが多いが、その日は所用があって王立図書館の近くにある研究所へと足を運んでいたところだった。

 このところ雨つづきだったため久しぶりの快晴で、オスカーはのんびりと歩いて研究所へと向かっていた。王立図書館に近いこともあって彼は本部よりもこちらの建物の方が仕事場として気に入っていた。




 通り過ぎた馬車が道を歩いていた二人組の女性に思い切り泥水をかけたのを見たのは本当に偶然だった。




 周囲は冷たくも足早に――しかし視線だけはひそひそといやらしく向けながら――二人のとなりを通り過ぎて行くのに対し、オスカーは歩調を速めることこそなかったが女性二人を無視することはできず「大丈夫かい?」と穏やかに声をかけた。

 向かい合っていた二人の内、オスカーの方を向いていた女性がオスカーの顔を見て驚きに目を丸くした。が、振り返った黒髪の女性の顔を見てオスカーはそれ以上に驚いてしまった。顔には出さなかったが。


「平気です」


 素っ気ない声が応える。形のいい眉がひそめられ、暗い深緑色の瞳がオスカーに向けられた。長い睫毛に縁どられた猫のような瞳が細められる。すっとした鼻筋、鮮やかだが自然のままの紅色の唇はきゅっと結ばれていた。緩やかな曲線を描く黒髪は艶やかで、白い肌とお互いを際立たせている。シンプルなワンピースを着ていたが、そのスタイルのよさはコルセットのおかげだけではないことがよくわかった。


 オスカーが想像していたよりもずっと美しく成長したレイチェルに、彼は口から心臓が飛び出しそうだった。


 社交で厚さだけは充分に鍛えられた外面を駆使し、しかしやっと会えたレイチェルの姿をしっかりと焼きつけようと視線だけははずさずに、オスカーはにっこりと微笑んだ。

 「そうは見えないけど」と言うと、彼女はますます素っ気ない態度をする。不意に手紙の文面を思い出し、この辺は想像通りだなと思ってオスカーはやっと心臓が落ち着くような気がした。


「初対面の相手にそんな態度はどうかと思うよ」


 非難するような言葉でも、兄のような優しさとどこかこの状況を楽しむような響きは隠せなかった。オスカーはすぐ目の前の研究所に二人を招待した。泥がついたままでは、寮に帰るのにも不躾な視線を浴びることになるだろう。レイチェルは不満そうだったが、侍女がすぐに頷いたので幸い断られることはなかった。



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