振れたから

 初めまして、なんてきちんとした挨拶をするもんだと考えていた予想は今も鳴りやまない声により大幅に覆された。

 緊張も何もかもこちらをワンワンと元気よく吠え、かまってほしそうに近寄ってくる犬たちによって吹き飛ばされる。先ほどまで深呼吸を繰り返したのにも関わらず固まっていた肩は、一気に力が抜けた。

 二匹の犬が今も吠え続ける。それを「コラ」と嗜める女の人とぱちりと視線が合った。

 女の人はにこりと笑った。

「初めまして、ようこそ」

 かき消されぬようにはっきりと大きめな声を出した女の人に、触発されたように二匹の犬の声もワンレベル上がった。

「初めまして、おじゃまします」

 頭で描いていたよりも、大き目な声になってしまった。


 家に入るなり案内をしてくれるという女の人の後ろをついていく。自分よりも一回り小さい背は、予想よりも低くて、それでもしゃきりと伸びているのが眩しかった。

 決して美人という顔立ちではなかったし、見た目にそれほど気を遣っていないのが、櫛でとかしただけであろう髪だったり、よれつつある服だったりで一発でわかった。同級生の女子が話していた化粧も一切施していない顔は、背のことも相まってか人並みより小さいように感じられた。

 出会って数分だというのにここまで見た目のことを考えてしまった浅ましさを見抜いたのか、犬たちは今もこちらに対して吠え続けている。

「ごめんね、一時間もすれば落ち着くと思うから」

 一時間。それほどまでに吠え続けられなければならないのか。

 足元を無邪気にあっちこっち行く犬たちは、決して威嚇をしているのではないというのは雰囲気で分かった。

「あなた、誰? 一緒に遊びましょ!」

 そんな子供みたいなことを言っているんだろう。

 案内されたところはごちゃごちゃと物が置いてあるリビングだった。存外生活感が溢れている場所で、一瞬虚を衝かれたのは仕方ない事だろう。

「疲れたでしょ、そこのソファとかにでも座ってて」

 そう言って女の人はどこかへ行ってしまった。犬たちはそれを見送っただけで、すぐにこちらを向き、再度吠え始めた。

 言われたとおり、ローテーブルと壁の間に備え付けられた、横になれそうなくらいに長いソファの端へ腰掛ける。犬たちはまるで慣れているかのようにひょいひょいとソファに飛び乗って、そのままこちらへ突進してきた。

 いくら小型犬だといえど、二匹分のしかも興奮している動物のたしなめ方なんてわからない。されるがままにしていると、一匹の犬がもう一匹の犬とこちらの間を縫うように無理やり寄り掛かってきた。気が付いたらべろべろと口を舐められていた。驚きのあまり犬を掴むが、その勢いが止まることはなかった。それより、初めて触れられたのが嬉しかったのか嬉しそうに目をらんらんと輝かせていた。

 もう一匹の犬は諦めたのか、ソファの上でお座りをしていた。先ほどよりは勢いが弱まったことにほっとして、無神経にも突進してきた方を撫でる。撫でれば撫でるほどかぷかぷと甘噛みをされるが、それがこの犬にとっての愛情表現なのだろう。噛まれているというのに全く痛くない。

 大人しくしている方の犬にも手を伸ばして顎の下を撫でてやると本当に愛おしそうに目を細めるから、本当に先ほどまで自分を吠えていた犬と同一犬なのか疑問に思ってしまった。

 そんなことをしていると甘噛みをしてくる方の犬が、「こっちも撫でて」と言わんばかりに手を伸ばして軽く引っ搔いてくるから、どうすればいいのかわからなくなってしまった。

「よかったねぇ、撫でてもらえたの」

 そんなタイミングで、女の人が二個のコップを両手に持って現れた。カランカランと音を立てるコップには冷たいお茶が注がれていた。

 女の人が現れると甘噛みをしていた方の犬はぴょんと床へ降りてしまった。あまりにも軽やかなジャンプは室内犬というよりカモシカのような野生動物を彷彿とさせる。

 女の人がローテーブルに置いたコップに興味を示したようだったが、女の人がさりげなくコップを机の中心の方へ置いたので、身を乗り出さないと飲めないのだろう。机の端に顔を乗っけてふんふんと鼻を動かして、すぐに女の人の傍へまで行き、そのままおすわりをした。

 ソファの上にいた犬はそのまま伏せをしたと思ったら、ふぅとまるで人間のように息を吐くものだから、思わずまじまじと見てしまった。

 ソファに相対する位置で座布団の上に座った女の人に倣い、ソファから座布団へ座る場所を変えた。

 なんとなく力が抜けて、自然と足を崩した体勢になった。女の人は机の真ん中に置いたコップの一つを手に取り、口につけた。それに倣うようにお茶をいただく。飲んだことのある市販の味だった。

 ちびちびと飲みながら、目の前の女の人を盗み見る。どう見ても若い。未成年じゃないだろうか。もしかしたら、自分よりも年下かもしれない。いや、背が低いからそう見えてしまうだけだろうか。

 もんもんと考えを巡らせながら、お茶を飲んでいるとすでに半分近く量が減っていた。これでは、よほど喉が渇いていたように思われてしまう。

「お茶は口に合った?」

「え、まあ……市販のですよね。飲みやすいです」

「うん、よかった。私はこのお茶が好きなんだけど、他のとこのお茶じゃなきゃ飲めない人もいてね。その口だったら、申し訳ないなって」

「そんなに独特ですか?」

「お茶って一口に言っても、味は違うでしょう?」

 確かにそうだと頷くと、女の人は満足そうに笑った。コンビニで買えるお茶だけでも、何派とかはあるものだ。自分がそういうものに頓着していなくてよかったと思った。

 目の前の人の申し訳なさそうな顔は出来れば見たくない。

「それと慣れたら敬語を使わなくても全然大丈夫だからね。家族なんだから」

「はい」

 年の差がそこまでなさそうなこの人が、祖母らしい。



 正直、こんな荒唐無稽な話があるのかと思う。それでも、ここに来る前に母はとても真剣な雰囲気で「家に入って初めに会う人があなたのおばあちゃんよ」と言っていたし、あの女の人に妙な安心感を感じ取ったので、嘘ではないのだと思う。

 だからと言って、今までの平凡な人生を過ごしてきた身としては母親よりも確実に若い女の人が祖母だなんて信じろと言う方がおかしいだろう。

 お茶をいただいてからしばらく、ソファに座って目の前に映るテレビを眺めていた。いつの間にか女の人はどこかに行ってしまっていたし、ソファの両脇には二匹の犬が囲むように陣取っていた。甘嚙みをしていた方の犬は完全に寝てしまっていて、大人しくしていた犬はなんとテレビを一緒に見ていた。

 ワイドショーでニュースを好き勝手に話しているキャスターたちをじっと見ている。本当に犬か?と首をかしげたくなる。

 チャンネルを変えようと手に取ったリモコンも、自分以外に真剣にテレビを見ているものの存在に気付いた途端に役割を失ってしまった。

 お世辞にも綺麗だとは言えない生活感にあふれたリビングにはローテーブルともう一つのテーブルがある。白く正方形のテーブルの上は物で溢れかえっている。手帳だったり、漫画だったり、または専門書のようなものだったり。ソファから立ち上がると二匹の犬は何処に行くの、と言わんばかりに顔を上げたが「すぐに戻るよ」と伝えると、なーんだと先ほどまでと同じ位置に顔を戻した。

 テーブルの上にある一冊の本を手に取り、そのまま先ほどの位置に座りなおす。パラと一ページめくって、並ぶ文字を読んでいく。

 テレビをBGM代わりにすっかり本の世界に浸かってしまった。

 読み終わって顔を上げた時には、すっかり日が傾いていたし、番組も変わっていた。そして何より女の人が正面でこちらを見るように座っていた。

「面白かった?」

「はい。……僕に似てますね」

「ふふっ、そうだね。でも、ここはその物語ほど自然にあふれた田舎じゃないけどね。外に行けば、すぐに人にだって会えちゃう」

「僕は虫が苦手なので、これでよかったです」

「あはは、そっか」

「それに、これはおばあちゃんと孫の話でした。……僕らも、そうですよね」

 確かめるように、不安になりながら尋ねると女の人はきょとんとしてから、ふふふと嬉しそうに笑った。

「そんな関係になれたら、素敵だね」

 そう笑う女の人の顔を見たら、一抹の不安など吹き飛んでいた。

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