15「心の行方」(1)


 彼女の身体を抱き抱えて、エイトは地下への階段を駆け下りる。デミの身体を抱える役目を譲りたくなかったエイトは、この階段を駆け上がっていた時に決めた通りに、エドワードを先に行かせていた。

 デミを丁寧に抱き上げているエイトの隣を走り抜ける老人の姿は、正しく軍人のそれで。ここまでの道すがらはやはりエイトに速度を合わせていたらしい。これではきっと、イースも合わせてくれていたに違いない。

 二人の何も言わない優しさに今更ながらに涙が出そうになる。今日はやけに涙腺が緩い。これもきっと愛しいデミのせいだ。デミがこんなに柔らかくて甘い香りを腕の中で伝えてくるから、エイトの心が潤って、その雫がきっと、こんなにも……

「くそ……くそっ……」

 止まらない嗚咽だった。ここにはエイトの情けない声を聞く者は誰もいない。この邸宅にいる誰も、もう意識がないのだから。意識があるのは地下で戦う三人だけだ。それ以外の者達は、皆、廊下や部屋で倒れたまま眠りについている。

 エイトの暗黒の学生時代に、光を与えたのはデミだった。穏やかな、まるで陽だまりのような彼女の声に、差し伸べられたその小さな手に、エイトは救い出されたのだ。その声には決して獣のような声は似合わず、その手には他者を傷つける凶器等似合わない。

 自分を助けてくれた彼女を、エイトは助けることが出来なかった。その身体に幾度となく『躊躇い傷』を刻み付け、多大なる苦しみを与えながらその“命”を断ったのだ。許されるはずがない。

――命って、何なんだろうな。デミ……

 エイトは抱えたデミの身体に視線を落とす。血に汚れた顔面は拭き取り、彼女に似合わない爪は外した。腕や足は傷跡だらけになってしまったが、それは敢えてそのままにした。これは自分の罪だからだ。

 老人は言った。人という存在は、『果たしてその身体のことを言うのか、引き抜かれた心を言うのか』と。このデミの“身体の心臓”は尽きてしまったが、その“命”は合成によって混ぜ合わされた獣のうちの心臓<余りモノ>だ。デミの心臓はまだ、あの獣の中で生きている。

――デミっ! あの獣の中で、お前はまだ生きてるのか!?

 緑がかった液体に浮かんだ獣の姿を思い出す。水槽から出た姿ではなくそちらの姿を思い出すのは、きっとあの『瞳』のせいだろう。水槽の中で獣が見せていた、驚愕に大きくなった瞳。あれがもし、デミの心から来る反応だったとしたら。獣に心を移されたデミが、水槽越しに自らの姿を見て、その惨状を悟っての瞳だとしたら。

――絶対、助けるからな!

 その手に抱えた彼女の身体が、やけに重く感じられた。それはまるでエイトを責めるように、重く重くのしかかっていた。 










「エイト! 来てはいけません!!」

 エドワードの叫び声に、エイトは思わず後ろへ飛び退った。一瞬前までエイトがいたその空間に、巨大な爪痕が刻まれている。大型の獣のものであるそれは、先程までエイトを襲っていたデミの爪先とは、比べものにならない程に巨大だった。獅子の爪先から繰り出されたのだから当然だ。

 エイトは地面にデミの身体を寝かせると、“消失した魔力の源”の姿を探す。だが――

「あかんで。ここの主サンには逃げられてもた。特務部隊失格やわ。このままやと失うん、この目ぇだけで済まんかもしれん」

 ぶるりと震える素振りまで見せて、イースがエイトに微笑み掛けた。聞き捨てならない言葉が並んだが、イースからは悲壮感は感じられない。

「エイトの前では随分格好をつけるのですね。私が先に着いた時には、八つ当たりのようにあの獣へ攻撃を放っていたのに」

 そう言って薄く笑うエドワードのことを、イースは軽く睨んだが、やはりその表情には暗いものは感じられない。

 どうやらイースは獣との戦闘に苦戦しており、その隙をついてこの邸宅の主であるフリン・スペンサーには逃げられてしまったらしい。実験場も生み出したモノすらもあっけなく捨てて逃げたのは、この状況を己の身と共に押さえられることを嫌ったからだろう。

 フリンはイースの所属はわかっても、その目の秘密は知らないはずだ。彼は生きてこの場を脱しさえすれば、己の罪の記録が公になるとは夢にも思っていないだろう。だが、当の目を持つ本人としては、本部への『献上品』は完ぺきを求められる。状況の証拠だけでなく、その身を連行するために、彼は今、ここにいるのだから。

「あーあ、どないしよかなー。僕、ほんまに首飛ぶかもしれん。あの逃げっぷりやったら、ここから逃げ出した後の算段もつけてるやろしなぁ」

「この現場の記録があれば、それだけじゃ駄目なのか?」

「この映像記録だけやと、頑張れば誤魔化せるねんなぁ。元々僕ら特務部隊は南部の軍とは仲良ぉはないし、街の利益取るってんなら胡散臭い特務部隊の証拠よりも、自分らで疑惑の商人を監視しましょーってなるやろな。それこそ軍に戦力として合成獣を提供してもろて、警備は南部の軍が担当するとか、な」

「おそらくその線はないでしょうな。デザートローズの上層部では、既に『獣』を使役しての戦闘は時代遅れと言われております。まだ爬虫類型や軍用犬型はちらほら配属されていますが、違う形に取って変わるのも時間の問題でしょう」

「……へー? その『違う形』ってのが、どうか僕が思ってるモンと違ってることを願うわ」

 怪しく笑う二人の視線が歪に絡まる。そこに火花とも探り合いとも取れる独特の熱さを感じて、エイトは視線を真正面に戻した。

 エイトはもう、まんまと逃げることに成功したフリンのことは考えないようにする。この場にいない人間のことはもう、考えても仕方がない。一番痛手であろうイースすら、もう彼のことは意識の範疇から除外しているに違いない。彼は今、エイトの数歩前でエドワードと共に、巨大な獣――デミの心臓を宿した獣と対峙している。

「特務部隊とは恐ろしいものですね。エイトさん、あの獣から確かに、デミさんと同じ魔力の波長を感じます。さすがにあの巨体のままでは危険な生物ですが、その心臓とそこに直結した頭部程度なら、なんとか助けることが出来るかもしれません」

「はぁっ!? じいさん何言ってんねん!? 何が『助ける』や! せめてあの獣ぐらいは持って帰らんと、僕の首が吹き飛ぶんやぞ!?」

「目が引き摺り出されるのですから、今さら首から下なんてどうでも良いでしょう」

「良くないわ! 確かにこんな時代や。魔力と科学を駆使したら、生きたままって前提で首から上さえ残ってたらなんとか生活は出来るやろうけど……って、まさか! この獣の中の子を、それで『助ける』って言うんか?」

「それが『助ける』ことになると、エイトが許してくれるのならば、ですが……」

 そこまで言って、エドワードの鋭い瞳がこちらを振り返った。老人越しにこちらを見据える獣の瞳は、やはり優しい彼女そのもので。エイトが戻ってくるまでの間、相当暴れたのだろう。空間のあちこちに獣の爪痕が走り、そしてその強大なる獅子のところどころに、生々しい剣撃の痕が刻まれていた。じくりと赤黒い血が滴るのは、生物としての理を歪められた故だろうか。

 エドワードもイースも、そして獣も、エイトの答えを待っていた。しかし――

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