4「潜入の目的」(1)
色々と思い悩んでいる間に、どうやら眠ってしまっていたらしい。
柔らかなまどろみに抱かれながら、目を開く前に漂う香りに嗅覚が反応する。仄かに香るこの香りは……何だ?
「……?」
「……おや、起きましたか。おはようございます、いや……こんばんわですかな」
何がおかしいのかふぉっふぉと笑うエドワードの姿を認め、何故だか無性に嬉しくなる。まるで捨てられたと怯える子犬のような反応に、エドワードはすぐに察して微笑むと、その手に持ったティーポットを備え付けの机に置いて、エイトが横になっているベッドに腰掛けてくれる。
そのまま優しい手つきで髪を撫でられ、「眠り姫は目覚めのキスが必要ですかな?」と悪戯を思いついたようなキラキラとした眼で問われた。
その問いに対する答えの前に唇を奪われて、その中にほろ苦い茶葉の味を認識する。部屋に漂う香りと同じその味は、まるでこの老人のような深い味わいを秘めていた。ほろ苦く、くすぐる味わい。
「にが、い……」
「それは失礼。この地方のものではないので流通価格で言えば高級茶葉になりますが、エイトさんには些か早かったようですな」
やはりふぉっふぉと笑われる。もういい加減慣れたその反応に、エイトはぐっと腹筋に力を入れて起き上がる。窓には相変わらずカーテンがひかれているが、どうやら今の時刻は夜らしい。カーテン越しの空が暗い。
机の上のティーポットへと、エドワードはベッドからそのまま手を伸ばしている。礼儀作法にうるさそうな見た目をしているくせに、随分と軽い態度でティータイムを楽しんでいるようだ。
「……呑気に紅茶を楽しんでるのかよ、やっぱクソジジイだな」
先程までの甘い空気など忘れたふりをして、エイトは起き抜けに悪態をついた。いかにも金持ちの趣味といったその行為が、エイトを卑屈にさせていた。
「……紅茶は、お嫌いですかな?」
老人の目が細められる。
――違うんだ。そんな目をして欲しいわけじゃなくて……
「……ち、ちが……」
「何が違うのですか? 私の問いに答えてください。紅茶はお嫌いですかな?」
「……好きも、嫌いも……飲んだこと、ねーよ」
日々の暮らしで精一杯のエイトの家では、紅茶なんて贅沢品は飲んだこともない未知なるものだ。そういったものがあるという知識はあるし、見たらわかるものではあるのだが、その味が好きか嫌いかなんて、おそらく同じ学校に通っていた人間も知らないのではないだろうか。
「それでしたら、試してみましょう。最初は苦いかもしれませんが、この苦みの中に微かな変化を感じ取るのがまた、乙というものですな」
慣れた手つきでカップに注ぎながら、エドワードはそう言ってエイトに向かって微笑んでくれる。子供の癇癪なんてどこ吹く風。まるで全てを見透かすように、丸裸なエイトの心を乾いた手で包んでくれるのだ。
「……いただき、ます……」
恐る恐るカップを受け取る。おそらく私物なのだろうか、豪華な装飾もなく、なんの変哲もないカップだ。口をつける前に香りを嗅ぐと、仄かに苦い香りが漂ってくる。
目を瞑ってぐいと飲む。手に持った感覚で火傷をする程の熱さではないと判断したのもあるが、とにかく目の前の老人に見られたままのこの状況が恥ずかしかったのが大きい。ごくりと動く喉仏を見られてるなんて……
先程のキスと同じ香りが口の中に広がる。香りと同じく少し苦いが、嫌な味ではない。むしろ好きだ。深くて、ほろ苦い。やっぱりくすぐられるような味わいがある。
「……美味しい」
直球過ぎる感想しか言えなかったが、それでもエドワードは満足してくれたようだ。にこやかな笑顔は、心からのものだろう。自分の趣味を共に楽しむのは、いくつになっても嬉しいものなのだろうか。
「楽しめそうですかな? 何事も、試してみないとわからないものでしょう?」
ふぉっふぉと笑いながらそう言って、頭を撫でてくる。笑顔のまま「何事も、ねぇ?」と意味ありげに言ってきたのは無視して、エイトは空になったカップを机に置いて、乱れたままだった服を直しながら立ち上がる。木製のベッドがギシリと軋んだが、エドワードはそのまま腰掛けたままだ。
「これからどうすんだよ?」
動きがない老人にそう問い掛けると、ようやくエドワードも立ち上がる。ベッドを挟んだ狭い室内で、老人の鋭すぎる瞳の漆黒が増した気がした。
「明日、スペンサー邸への潜入の手筈が整いました。私とエイトさんは貧しい祖父とその孫という設定で、なんとか使用人として働きたいと転がり込んで来たという形ですな」
「よくもまあ、そんな身元もわかんねえような二人を入れる気になったなぁ、スペンサーって野郎はよぉ」
「デザートローズの陸軍が偽造に関与しているのですから、問題はありません」
「そういや、ずっと気になってたんだけどよ……なんでデザートローズの軍人様が、こんな街の商人の家に用があるんだよ?」
すっと、部屋の温度が下がった気がした。瞳の中の真実の光はそのままに、老人から流れる空気の質が変わる。老人は嘘をついてはいない。そしてこれからもつくつもりはないだろう。しかし、その痩身から流れ出る気配には、明らかに人殺しの空気が孕んだ。
「……エイトさんは、フリン・スペンサーの黒い噂を聞いたことはございますかな?」
相変わらずの鋭い瞳でその名前を呼ぶ時、老人の表情がキッと引き締まった。その姿は正しく特命を受けた軍人そのもので。
「……働いている使用人が消える、とかは聞いた」
「なるほどなるほど。それならば話は早いですなぁ。どうやらその噂は真実のようでして……」
「なんだとっ!?」
老人の肯定にエイトは思わず叫んだ。極めて不自然なタイミングでなされた、極めて不自然な求人募集が、エイトの不安を更に増幅させる。
「落ち着いてくださいな。“まだ”デミさんは無事でしょうて。どうやらいなくなった人間は、ある“実験”に使われているようでして、その準備のために一週間程掛かるようなのです」
「ならデミが雇われたのは昨日からだから、あと……」
「長くて五日、いや、もう日付が変わるので四日ですな。助け出すことも考えるならば、早ければ早い方が良いでしょうが」
思いもよらなかったエドワードの言葉に、エイトの中で焦りが大きくなる。今すぐにでもスペンサー邸に殴り込みに行きたい。だが、さすがにそれが焦りからくる無謀な作戦だということは、今のエイトでも理解出来ていた。我慢をするということは苦手なことだが、デミの身の安全が掛かっているのだから仕方がない。
焦りをなんとか逃がすために、気になっていた疑問を目の前の老人にぶつけることにした。
「そんな内情、なんでデザートローズの軍が知ってるんだよ? それに実験って何?」
「おや……失礼。動物のように飛び出すかと思っておりました。順番にお話ししましょうか。まず、何故我々がスペンサー邸の内情を知っているかということですが、これには我々陸軍とは違う『特務部隊』が関係しています」
「……特務部隊って、“あの”?」
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