2「曲がり角の出会い」(2)


 冷たく閉ざされた門には人の気配はない。だがそれはきっと、間違いだろう。目に見えぬ門の向こう側には、人の形をした“敵意”が蠢いている。

 エイトは生まれつき、生物の気配に敏感だった。それはスラムで生き抜くために自然に身につけたものでもあり、それでいてエイトが人よりも優れている点の一つでもあった。

 相手は人でも動物でも変わらない。どこに息を潜めているか。どんな悪意を持って接してきているのか。それがエイトにはわかるのだ。生き物がごく自然に発する微かな動きを、エイトは獣並みの感性で感じ取ることが出来る。

 学校生活において、このエイトの力は異常なものと周囲には評価されていた。『問題児』や『不良』というレッテルを張られていたエイトには、学内にも敵は多かった。しかしエイトには、どんな不意打ちもフェイントも通用しない。相手の呼吸や目の動き、果ては空気の流れから、それらに『反応』してから捌くのだ。

 超人的な感覚に、身体もちゃんと反応した。反応するだけの肉体を、エイトは自主的な練習と親からの教育によって手に入れていた。軍人顔負けの鍛え方をしてあるエイトの身体は、武器を持たなくても人を殺せる。さすがにまだ実際に人を殺したことはないが、おそらく一般人相手なら反撃なんてさせないだろう。

 殺しへの躊躇は多分、湧かない。道徳という勉強を学校でしても、あまりピンとこなかった人間だ。おそらくそういう大事な部分が、自分には少し足りないらしい。殺されるのは弱いからだと答えた時の、幼馴染の顔だけは忘れられない。忘れてはならない。その時エイトは、言葉は人を傷つけるのだと初めて知ったのだ。それ程までにエイトは、大事な部分が足りなかった。

 喧嘩相手の身体に躊躇なく拳を叩き込むエイトのことを、クラスの同級生達は「まるで獣のようだ」と言った。いつも服を返り血でまだら模様に汚して歩くその様に、ついたあだ名は『ハイエナ』だった。堂々とした体躯の獅子と呼ぶには低い身長に、鷹と呼ぶにはあまりに淀んだ赤い瞳がそう呼ばせたようだ。

 小柄な獣の名前で呼ばれようとも、その元の生物はれっきとした肉食獣である。恐怖を込められたその呼び名に、エイトは特に思うことはなかった。エイトには、周りの一般人等眼中にない。親の躾から脱するために、思う存分力を振るえるように、面倒な勉学から解放されるために、軍人を目指すだけで頭がいっぱいだったのだ。

――頭がいっぱい過ぎて、勉強も入らねえとか……ほんと、オレってバカ過ぎだろ……

 おそらく人生初の後悔と反省だ。身体能力だけなら軍学校入りは間違いなかったらしい。それは教師を問い詰めたので間違いない。だが軍人というお堅い職業には、決して身体能力だけではカバー出来ない『品性』というものも必要になるらしいのだ。

「くっそ……もう、会えないのかよ……」

 ぎりりと歯ぎしりを隠すこともなく呟く。思わず目を瞑ると眩しい太陽のような彼女の笑顔が、瞼の裏で輝いている。陽の光を体現したような彼女の姿が、遠くに走って消えていく。

――『エイトが迎えに来てくれるの、待ってるからね』

 彼女の言葉が何度も再生される。昨日から何度再生されても、決して色褪せることはない。一音一句間違いなく再生されるその声に、エイトは頷き目を開ける。己に言い聞かせるために、その答えを敢えて口に出す。

「……任せろ。オレがお前を、そこから連れ出してやるからな」

「それでしたらどうか、私≪ワタクシ≫と共に」

 いきなり背後からそう声を掛けられて、エイトは驚いて目を見開いた。振り返る動きと同時に飛び退り、声を発した対象から本能的に距離を置く。自らの姿が通りに出てしまったが、そんなことは言ってられない。

 門からエイトの姿が見えたところで、すぐさまどうということはない。だがこの声を発した対象は違う。その声はしわがれていた。

 エイトが先程までいた場所に、一人の老人が立っていた。白髪ばかりの髪を撫でつけたその老人は、その年齢には不釣り合いな程、隙なくそこに立っていた。

 声と同じく皺の刻まれた面長な顔には、高齢には感じさせない鋭い瞳が細められている。白のシャツにグレーのスラックス姿の老人は、薄い唇に笑みを湛え、もう一度先程の言葉を口にした。

「どうか……私と共に」

 エイトはその言葉には答えずに老人を睨み付ける。先程とは違う意味合いの歯ぎしりすらも垂れ流し、老人を威嚇する。

 エイトの動物的感覚が警鐘を鳴らしていた。この老人は、危険だと。

 老人からは強い血の匂いがした。決して血生臭い匂いがする、というわけではない。目には見えない、嗅覚では嗅ぎ取れないその感覚を、エイトの敏感なる獣の勘が“嗅ぎ取って”いた。

 六十代……程度だろうか。春を迎えた暖かい気候に合わせた半袖のシャツから、老人の鍛えられた腕が露出している。若い筋肉の束とはまた違う、言うならば『鍛えていた筋肉が加齢と共に少しだけ落ちてしまった』具合の腕だ。骨と皮だけの老人の腕ではない。機能性を残した“現役”の腕だ。

 陽に焼けてこそいるが元は白いであろう肌に、漆黒の闇を思わせる瞳。目の前の老人に、砂漠の民の血は感じられない。その事実もまた、エイトに警戒心を抱かせていた。

 砂漠の国には他国からの移民は少ない。国民のほとんどが明るい茶髪に褐色の肌。その平均に当て嵌まらない人間は、その大多数が他国からの旅人か、何かしらの命を受けた軍属である。

 軍属といってもそこで安心してはいけない。この砂漠の国は他国との関係性はすこぶる悪く、政府の目を欺いて暗躍するという輩の方が圧倒的に多いのが現状だ。だからこそこんな目立つ容姿を隠すこともせず普段着で出歩くこの老人のことを、エイトは危険な存在だと判断したのだ。人の生活に溶け込む命は、それこそ闇に堕ちた人間の所業だ。

「これはこれは、なんとも……警戒されているようですなぁ」

 ふぉっふぉと老人はそう言って笑うと、伸ばしてもいない白髭に軽く手をやる。まるで芝居がかったその動きが、逆に老人の年齢をわからなくさせる。必要以上に年齢を強調しているが、その動きは瞳と同じく老いを感じさせない。

「……てめえは何モンだ? オレに何をさせたい?」

 睨んでいるだけでは埒が明かない。さすがにエイトにもそれはわかったので、短くそう問い掛けた。通りに身を出している分、不利なのはエイトだ。先程から視界に入る門の奥から、人の視線を時折感じる。覗き窓でもあるに違いない。あまり姿を覚え込ませるのは、どんな状況でも良いことはない。

「私はエドワード。とある筋からの依頼でこの屋敷に使用人として潜り込もうとしている者です」

「使用人、だと?」

「ええ。どうやら貴方も同じ目的があるように思えたので、ご一緒にと声を掛けたのですが……」

 違いましたかな、と続けた老人の瞳を睨み付けながら、それでもエイトは頷いていた。

 強い血の匂いは感じるが、この老人は間違いなくこの邸宅に潜り込めるだろうと、エイトの勘が告げていたからだ。

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