第12話 雨宮信生の独白(1)

 僕の人生は清美と出会うまでは地獄でした。

 人付き合いが苦手な性分で、友達と呼べる人はいたことがありませんでした。周囲は僕に無関心でしたし、僕自身も他人に興味が持てませんでした。

 そういう状態がずっと続けば良かったのですが、中一の時からイジメを受けるようになりました。ひたすら玩具にされて見下されていました。持っていた金銭は尽く毟り取られました。何も無くなれば、親の財布から金を盗めと脅されました。僕は従いました。

 気付かれないように必死に母の財布から盗みました。心の中で何度も謝りました。どれほど盗みをしても心は慣れることはなく、罪悪感は消えませんでした。中一の秋、最中に父に出くわしました。父は何も言わず、言い訳を並べ立てる僕を無視しました。この出来事で自分が家にも居場所が無いことを知りました。

 元々家族の仲は良好とは言えませんでした。両親も祖父母も家庭より会社を重視する人でした。歳の離れた兄は会社を継ぐ人間として十分な頭脳を持っていましたから、家族の皆から一番愛されていました。そのせいか、頭の良さで人をはかるきらいがありました。僕はずっと学年の下から数えた方が良い成績でした。その上、狡賢さもない愚図ですから、兄は小学校の時から僕をいない者として扱いました。一つ下の妹は頭の出来が良いだけでなく、愛嬌がありました。愛玩される者としての子や孫の意味は妹が全て果たしていました。スクールカーストでは自然と上位に属するような人間ですから、学校ではイジメの対象としてしか認識されない僕のことは嫌っていました。

 学校では虐げられ、家では盗みをする。中学三年間、嫌な日常を繰り返していました。

 底辺の高校に入っても変わりませんでした。イジメのリーダーは別の高校に行きましたが、放課後に僕を呼び出して中学と同じ遊びをしました。僕は相変わらず、ぼんやりと窃盗を続けました。

 一生この日常が続く運命だと思っていました。

 しかし、中一の初夏、二十二年五月十九日水曜日、運命が変わりました。

 その日の放課後、僕は空き地で三人から蹴り転がされていました。彼らが飽きるまでの辛抱だと我慢していました。今までの経験から後数分で終わると確信した時、何処からともなく知らない声が聞こえました。

「かっこわる」

 特別大きい声という訳ではありませんでしたが、やけに耳に残りました。軽く響く割に腹の奥に刺さるような不思議な声でした。声の主を確かめようと顔を上げると同時に、リーダーが鋭く言い返しました。

「お前にゃ関係ねえわい!」

 攻撃的な声に相手はまったく動じませんでした。軽蔑しきった視線を彼らに向けていました。その時はそういう表情が酷く似合う人だと思いました。驚くほどの長身も癖のない髪もへの字がくっきりと分かる大きな口も表情が分かりやすい大きな目も、全てが冷ややかに見せるために形成されたようでした。

「目に入って気分悪なったわ。文句ぐらい言ってもええじゃろ」

「はあ? 勝手に見んなよ。きめえぞ!」

 リーダーは顔を真っ赤にしていました。取り巻きの一人も苛々と体を揺らして睨みつけていました。一方で、もう一人は青くなって震えていました。

「目に入ったけん、仕方ないじゃろ。あんたらさあ、高校生にもなって恥ずかしないん?」

「説教すんじゃねえ。年上でも容赦しねえけん、西高のガリ勉は黙ってろよ!」

「あんたに何ができんの」

 リーダーは舌打ちし、相手の胸倉を掴みました。相手はまったく怯みません。じっとリーダーに目を向けていました。リーダーはますます顔を赤くし、空いている手を拳にしました。そして、その腕が上がった時、顔を真っ青にした取り巻きがリーダーの頭を叩きました。

「馬鹿! 橘清美や!」

 橘清美という名前は聞いたことがありました。同級生の会話からたまに聞こえる名前でした。だいたい、誰それを負かしただの誰それでも敵わないだのと言われていました。当時、よく言われていた悪い噂も耳に挟んだことがありました。恐ろしい人だと認識してしまっていたので、僕は彼の目につかないように地面に顔を向けました。

 リーダーと取り巻き二人の足は視界に入っていました。その六本の足は強張っていました。狼狽えた息遣いが聞こえました。過度の緊張状態により沈黙が生じかけていましたが、清美は許しませんでした。先程と何一つ変わらない調子で喋り出しました。

「呼び」

 捨てとは礼儀がなっとらんな、とでも続いたのでしょうか。清美の言葉は三人の声に掻き消されました。

「すみませんでした!」

 言い終えるや否や、三人は駆け出しました。舞い上がった土埃に鼻腔がざらつきました。

 足音が聞こえなくなると、清美は僕に対して手を差し伸べてくれました。

「立てるか?」

 逆らうと痛い目を見る気がして、自分の力で立ちました。清美と目を合わしたくなかったので、目は地面に向けていました。

「痛いとこない?」

 食い気味に頷くと、良かった、と返ってきました。胸の奥に沈み込むような温かな声でした。長年、誰からも向けられたことない優しい声音でした。

 ――接点のない人間に、気遣われている。

 その事実が突然理解でき、腹の底が上がる心地がしました。初めての事でした。涙腺が緩み、涙を溢すまいと顔を上げました。

 清美と目が合いました。僕に合わせて中腰になり、心配そうに眉を下げていました。

 そして、その双眸には僕しか映っていなかったのです。

 嗚咽がこみ上げてきて、我慢できませんでした。火傷しそうな熱い涙が頬を濡らしました。

 清美は驚いて瞬きました。それでも、僕から目を逸らしませんでした。

 大きな手が僕の背中を擦りました。まだ会社に有益かどうかの区別ができなかった幼少の頃、母にされた以来の事でした。

 家族という絆さえないのに、目の前の赤の他人は無償で僕を慈しむのです。道理が分からなくなって頭がパンクして清美に抱き着きました。そんな僕を清美は拒絶せずに、頭を撫でてくれました。

 知らない匂いが、知らない体温が僕を包んでいました。ずっとこれが欲しかったのだ、と思いました。自覚するや否や、もっとこれが欲しいと願いました。深い所まで温もりを届けてほしい。その為に、僕を理解してほしい。

 無意識に出る咆哮に似た嗚咽の間に必死に言葉を紡ぎました。自分の、雨宮信生の話をしました。自分がどういう人生を歩んできたか、自分の現状はどうか、自分を取り囲む環境はどのようなものか、それらに対してどういう感情を持っているのか。音にして、言葉にして、ラベリングしてぶつけました。

 そうですね。貴方の顔が引き攣るのに相応しい行動だと、今は思います。でも、当時の僕は客観的に、社会的になれなかった。

 雨宮信生という存在を認めてほしい。突然現れた目の前の彼に認めてほしい。関係のない他人に優しくできる、ある意味で非人間的な存在に認められ、更なる慈しみを与えられたい。

 その願いはすぐに叶えられました。

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