第14話 解剖学実習の日々

 「ここでは死者が、生者に教えることを喜んでいる」、とドアにラテン語と日本語で書かれた紙が張られているのは、解剖実習室の入り口である。解剖学の授業の開始から少し遅れて、解剖学実習が始まった。120人程度の学生(入学時の100人から増えているのは、上の学年から降りてこられた(つまり留年された)人が含まれるからである)を4人ずつの班に分け、各班のテーブルに1名、ご遺体が安置されていた。保存液の染み込んだ布に包まれ、その上からビニール製の袋で包まれたご遺体の方は、かつて、自分たちと同じように子供時代を過ごし、成人し、ご飯を食べ、日常生活を過ごしながら年老いていき、病を得てお亡くなりになられた方である。ご自身の人生を全うされ、横たわっているご遺体の方と、私たちと、いったい何が違うのか、と何とも言えない気持ちになっていた。ふと、私が若いころに傾倒した中原 中也の詩を思い出した。


ホラホラ、これが僕の骨だ、

生きていた時の苦労にみちた

あのけがらわしい肉を破って、

しらじらと雨に洗われ、

ヌックと出た、骨の尖(さき)。

それは光沢もない、

ただいたずらにしらじらと、

雨を吸収する、

風に吹かれる、

幾分(いくぶん)空を反映する。

生きていた時に、

これが食堂の雑踏(ざっとう)の中に、

坐(すわ)っていたこともある、

みつばのおしたしを食ったこともある、

と思えばなんとも可笑(おか)しい。

ホラホラ、これが僕の骨―― 

見ているのは僕? 可笑しなことだ。

霊魂はあとに残って、

また骨の処(ところ)にやって来て、

見ているのかしら?

故郷(ふるさと)の小川のへりに、

半(なか)ばは枯れた草に立って、

見ているのは、――僕?

恰度(ちょうど)立札ほどの高さに、

骨はしらじらととんがっている。


 医療は人を癒す術であり、医学は科学である。医学と医療の間で、僕たち医師はふらふらと揺れながら仕事をしているのではないか、と今の私は思っている。時には科学的でない答えが、医療では正解(少なくとも、最もみんなが納得される結論)となることは多々である。


 ご遺体の方と向かい合い、教官の指示でご遺体にナイフを入れた瞬間から、そのお身体は、観察と確認の対象物として、生命科学の色彩を帯びる。午前中に講義を聞き、その日の実習のゴールを確認し、午後から深夜まで、実習室でご遺体と向かい合い、剖出に努力する、そこにはセンチメンタリズムの入る隙間はない。


与えられる課題は私たち2年生にはハードルは高く、俯瞰して構造を理解し、頭に刻み込む、なんて余裕はなく、剖出に必死でどんどん身体も心も疲れてくる。そんなときに助けになるのは、同じ班の友人である。もちろん友人たちも同じように疲れているのだが、互いに声を掛け合い、雑談をしながら剖出を進めていく。私たちの班は全員男性だったので、このような班のモットーを掲げた。

 「愚痴を言わずにギャグをいう。下ネタ大歓迎!」

 と。このような話をすると「不謹慎だ!」と叱られるかもしれない。

 しかし考えてほしい。あのホロコーストの舞台となったアウシュビッツでも、シベリアで抑留され、強制労働に従事させられた私たちの先人たちも、生き残った人たちの多くが厳しい状況の中でもユーモアと笑いを忘れず、前向きにふるまっていた人たちであったことを。


 やがて、実習もすべての課題を終え、ご遺体の方とのお別れの時が来た。実習でバラバラになったお身体をビニール袋に、可能な限りあるべきものをあるべき場所に戻し、納棺し、胸元に感謝の思いを込めて花を置く。お棺のふたを閉じたとき、ご遺体の方はこれまでの観察と確認の対象物ではなく、初めてお会いした時と同じ人間として、私たちと向かい合う。


 「ここでは死者が 生者に教えることを喜んでいる」

 の言葉。私は教えを十分に身につけたのであろうか? 学んだことは解剖学だけではなく、医を志す者の本質であったのかもしれない。私が学んだ解剖学の知識によって、困っている誰かを助けられたら、その時にはご遺体の方は喜んでくださっているのかもしれない。


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