第6話 子供のころからの謎が一つ解けた!

 当時の母校では、1年次の後期に人体発生学を履修した(ように記憶している)。人体解剖学の十分な理解なしに発生学を学ぶのは酷な気がするが、医学部のカリキュラムがギューギューに詰められていて、しかも解剖学の勉強は座学だけでなく実習も伴うので、その枠に発生学を置かざるを得なかったのであろうと今は思う。


 カリキュラムとしては、クラスを班分けし、各班ごとに教科書の抄で取り上げられている臓器の発生を勉強し、クラス全員に発表する、という形式をとっていた。私の所属した班は、心臓、大血管が課題であった。心臓、大血管の発生は非常に重要なのであるが、きわめてダイナミックに造られ、その発生過程の少しの異常が、心臓、大血管の先天奇形と関連する非常に大事な分野で、理解するのに大変苦労する。その章を担当し、勉強したはずの私も本当に理解できているのかどうか怪しいものである(おそらく小児の心臓血管外科医以外の医師に心臓の発生機序を尋ねても、多くの医師が概略しか答えられないのではないか、と勝手に思っている)。


 「個体発生は系統発生を繰り返す」と言われているが、一つの受精卵から赤ちゃんがつくられる過程は、実際に魚類→霊長類へと進化してきた過程を経ているよう見える。魚類の心臓は1心房1心室、わかりやすく言えば、途中に拍動するポンプがついている一本の大血管、というような体のつくりになっていて、心臓から出た血液は鰓で酸素をたくさん含んだ血液となり、そのまま体の細胞を還流して心臓に戻り、心臓からまた鰓の方に血液が流れていく、という流れをとっているようだ(Google先生、ありがとう)。正常とされる人間の心臓は2心房2心室で、血液の流れも右心房、右心室を通った静脈血は肺動脈から肺を通って酸素化し、肺静脈を通って左心房に戻る。左心房から左心室を経て全身に動脈血として送られ、毛細血管でガス交換、老廃物の交換をした後、静脈血として右心房に戻ってくる、という魚類と比べて複雑な血液の流れとなっている。先に述べた「個体発生は系統発生を繰り返す」の言葉通り、おなかの中のおチビちゃんの心臓は当初は魚類と同じ、一本の管(1心房1心室)が様々な過程を経て2心房2心室となる。その過程を思い切り簡単に言うと、この一本の管がねじれて塊のようになり(心球)そこから仕切りの壁ができた、と思ったらまた一部に穴が開いて、またそれをふさぐ壁ができる。管の出口側の血管にも、真ん中にねじれた形で壁ができて、うんたらかんたらと変化を遂げて2心房2心室の心臓と、胎児循環が完成する。おなかの中のbabyちゃんと、おぎゃーと生まれてからでは血液の流れが大きく変わるので、最終的に「いわゆる正常な」体循環が完成するのは生まれて数日たってからである。


 少しややこしい話をしてしまったが、人間の身体の仕組みについてはそれなりに義務教育で学習するので、世間で「成績優秀」とされている医学生は、人間の心臓は2心房2心室、程度の知識は修得しているはずである。しかし実際に解剖学を学習してから、あるいは臨床の授業を受けたり(例えば先ほど述べた心臓の先天奇形とその術式を学習したり)、医師として現場に出てからもう一度人体発生学の教科書を見直すと、

 「ああ、そういうことか」

 と得心したり、逆に発生学の知識から診断を想起する、という場面も経験している。


 初期研修医2年目のことだったと記憶しているが、ある日のERで、若い男性の方が

 「以前から、何度もへそから膿が出ることを繰り返していて、今日も膿が出てきた」

 という主訴で受診された。おへそを見せてもらうと、確かにおへそにつけていたバンドエイドとガーゼは膿で汚染されていたが、膿を拭きとると、へそに熱感や発赤はなく、臍炎という、臍そのものの炎症ではなさそうであった。

 「う~ん、なんやろなぁ?」

 とちょっと考えて、ふと発生学のことを思い出した。おなかの中のbabyちゃん、うんと小さいころはおへそには、胎盤とつながる臍動脈、臍静脈と、腸の一部、膀胱の一部が存在しているのである。もちろん胎児が「おぎゃー!」と生まれるころには腸とのつながり、膀胱とのつながりは瘢痕化しているが、しばしばその構造物が残っていることがある。そのことを思い出して「そうか!」と病態を理解した。

 おそらくその男性の診断は「尿膜管遺残」。先ほどの膀胱の一部が瘢痕化せず残存し、そこに感染を繰り返していたのだと考えた。患者さんに病態を説明し、泌尿器科の予約と紹介状を作成し、受診していただくこととした。泌尿器科からの返信では、画像検査の結果、やはり診断は「尿膜管遺残」、手術を予定しています、とのことであった。医学部1年生の時の知識が実臨床で役に立ったのである。


 タイトルにつけた「謎が解けた!」ということ、これは先に述べたこととは別のことである。自分自身の身体で、子供の時からすごく不思議に思っていたことがあった。男性の方は大きく同意してもらえると思うが、いわゆる男性の「急所」と呼ばれる股間にある臓器である。ここは医師らしく、「精巣」と表記することにしよう。この場所への強い外力は非常に強い疼痛を引き起こす(平たく言うと、めちゃめちゃ痛い)。家で子供とじゃれあっているときに、時に悪意なく、精巣に子供のパンチやキックが当たることがある。痛みを伝える神経線維は鋭い痛みを素早く伝えるAδ線維と、少し遅れてじんわりと鈍い痛みを伝えるC線維があるのだが、衝撃が加わるとAδ線維の鋭い痛みに「ウッ!」と動けなくなり、その後、C線維の伝える鈍い痛みに「ウ~ン」とうずくまったまま痛みに耐える、また強い痛みがあると、血管迷走神経反射で血圧が下がったりするので、本当に痛くて動けなくなる。このことは男性はほとんどの方が経験していることなので、あえてここで詳しく書くのは、女性の方にその痛みをお伝えしたかったからである。


 子供心に「不思議だ」、と思っていたことは、身体のほかの部分、例えば腕や足をぶつけると、当然ぶつけた場所が痛むのだが、精巣をぶつけるとなぜか痛みを股間に感じるのではなく、背部(より医学的に言うと、打撲した側の肋骨脊柱角付近)に強い痛みを感じることであった。野球を好きな方は、テレビなどで試合を観戦していると、ファールチップが股間に直撃しキャッチャーが悶絶して倒れこむ、という場面を目にしたことがあるであろう。その時に、チームメイトはキャッチャーの股間ではなく、背中をさすったり、腰を叩いているのである。股間をぶつけたときに背中を痛くなるのは、僕だけではないのだなぁ、と思っていたが、どうして背中が痛むのかは見当がつかなかった。すごく不思議に思っていた。


 人体発生学を学んで、精巣と卵巣がもともとは同じ細胞から腎臓の下あたりに発生し、精巣はおなかの中から鼠径管を通って陰嚢に降りてくることを学んだ。つまり精巣は神経支配も、血管支配も腎臓の下あたりに存在していることになっている器官であったのだ(骨盤腔内の臓器はほとんどが内腸骨動脈とその分枝から栄養されているが、精巣は大動脈から直接血管が伸びている)。だから、当然痛みも、最初にあったはずの腰背部に出現するのであった(このように、特定の臓器に痛みが生じたとき、その臓器の神経支配と同じ神経で支配されている皮膚の部位に痛みを感じることを「関連痛」という)。幼少期からの疑問は、人体発生学を学んで初めて解決した。謎が解けたのである。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る