1「ライラ・ティッカと不思議な旅人」

第1話

 

 木々の隙間を潜り抜けて来た風が頬を撫でる。爽やかなそれに五感を刺激されると、見えていたものがより鮮明に映り始め、


「ここが、『常若の国ティル・ナ・ノーグ』ですか」


 羽白の漏らした言葉が、より一層この世界に来たということをはっきりとさせた。

 もはや癖になっているのは、自分は今どこにいるのかということ。いや、癖と言うか、同じ境遇になった者なら、それが困惑からなのか冷静さからなのかは分からないが、必ず取る行動だろう。それは大事なことだ。


 そしてどうやら、俺と羽白は奇妙な場所にいるらしい。足場は地面ではなく、それと勘違いするほど太い木の枝。それに伴って背後は壁のような幹だし、数メートル先で切り落とされている枝の先に地面と呼べる場所が見えない。要するに、俺たちは木の上にいた。それも、地面が目に入らないほどの高さの。しかしそれにしては見晴らしがいいとは言えない。周囲を見渡しても茂った色の濃い葉や、やはり折れることなど想像も出来ない太い枝や幹が占めるばかりだ。


「森、だな」

「そのようですが、人の声は聞こえますね」


 声なんてしているだろうか。

 そう思ってしまうが、羽白がそう言うならそうなのだろう。こいつの五感が優れているからな。


「それは一人か?」

「いえ、どちらかというと喧騒のような感じで……」


 だとしたら、どうして俺に聞こえないのか。そんなに鈍いのだろうか俺。十代の現在でこれだと将来が少々心配になるのだが。


「あ、今人影が見えました」

「どこだ?」


 あっちです、と枝から身を乗り出して見上げる羽白に倣う。木々の隙間、重なり合った葉の天井が目に付くが、それ以上に意識を割かれたのがその下を行き交う存在。羽白から事前に聞いていたはずなのに、いざ目の当たりにすると驚きを隠せない。


「飛んで、ますね」


 その声に孕んだ感情は明らかに好奇心だった。それも仕方ない。スタート地点の場所からして普通でなかった。そんな状況で先ほどまで冷静を保っていたことのほうが俺としては驚きなのだ。だからこうして不思議に囲まれた状況となれば、好奇心の権化であるこの女が、その心の揺らめきを抑えられるわけがないのだ。


 翅も翼もなく、加速・減速に停止などなど、空中での自由性に恵まれたのがこの世界の住人である妖精らしい。木々を行き交う者がいれば、空中で停止してほんの立ち話なんてことをする者もいた。この空を飛ぶことが前提となっている光景は、本来は飛べない俺たちからすると呆けるようなものだったのだ。


「これ、本当に俺たちにも飛べるのか?」

「それは、はい。そのはずです。私たちも妖精になっているはずですから」

「でも、飛べるって感じしないんだよなぁ」


 そもそも、今も頭上を飛んでいった妖精たちは、どうやって飛んでいるのだろか。なんの動力も見当たらないし、それではそもそも重力が弱いのかと言えばそうでもなさそうで。


「そうですか?」

「え、なに、お前飛べそうなの?」

「はい」


 こいつは、何を言っているんだ? 俺と同じ世界出身だよな。空を飛ぶには乗り物に乗るか、高いところから落ちるか、あるいは外部動力を用いるしかないと思うのだが。もしかして俺が知らないだけで、自力で飛ぶ方法があったのだろうか。


「ふふ、だって考えていてください。私たちは今、妖精になっているんですよ?」

「まあ、そうだな」


 そう、俺たち司書はその世界の住人と同じ種族になることができる、というかなることになっている。俺たちはあくまでも他所者で、郷に入っては郷に従えと言うように、存在すらも物語に従属することになる。


 今回のケースだと羽白の言う通り妖精になっている。ただ、俺自身の感覚としても、また羽白を見た感じでも、身体的な変化がある感じはしない。強いて言うなら服装が変わっているということくらいだろうか。

 優れた収縮性のあった肌触りのいい服から、少しチクチクとする粗い服にチェンジだ。ただまあ、羽白はそれであっても着こなしている風に見えた。スタイルはいい羽白は、基本的に何を着てもよく似合うのだ。いつものことだった。腰のあたりで絞られている、ゆったりとしたスカートは腰の細さと足の長さを強調するし、しっかりと閉じられた胸元は、だからこそ形の良さを如実に示していた。


 羽白に違和感などはなく、いたって自然体だ。だからいつも通り普通に言ってのけた。


「妖精は飛べるものです!」

「まあ、そうだな」


 この世界の妖精は空を飛ぶことができる設定だな、と。

 あまりにも自信たっぷりな語気に思わず納得しかけてしまうが、そういう問題ではないだろう。


「どうやってだよ……」

「こうやって、です!」


 ふわっ。スカートが柔らかく揺れ、足が徐々に地面からはがれていく。俺よりも低いはずの視線は高くなっていき見下ろす形に。背景も相まって、空中に張り付いたかのように見えた羽白は、一枚の絵のようだった。

 何も言えずにいると、浮いたままの羽白がおとなし気な見た目には似合わずはしゃいだ。


「すごいっ、本当に飛べましたよ倉見さん! 不思議な感覚です。体がどこにも触れていないのって変な感じです。でも、やっぱり楽しいです! 倉見さんも早く飛んでみてください」


 楽しい、なのか。俺としては怖いが勝りそうなのだけどな。

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