遙かなる彼方の交響曲

@issei0496

第1話

 あの日も、雨が降っていた。

 病院の窓を執拗に叩く雨音を聞きながら、少女―――焔 天華は待合室で何をするわけでもなく時間を浪費していた。ブブッ、とスマホが震えポケットから取り出す。画面には親友からのメッセージが表示されていた。

 天華は思わず苦笑を洩らし、手短に返信をすませる。

 それが終わればまた手持無沙汰になってしまう。

 人もまばらな待合室の一人用ソファーに深く腰を沈め、ぼんやりと天井を仰ぎ見る。

 天上に埋め込まれた照明を凝視していると、光の周りが白くぼやけた。

 このまま焔 天華という一人の人間が消えていくのではないか? そんな形容しがたい感覚に微かな恐怖を抱いた。

 何を馬鹿なことを。

 自嘲気味に口端を歪め、顔を正面に戻す。

 その時、待合室のテレビから知った名前が聞こえて、弾かれるように振り向いた。

 「満月選手、優勝おめでとうございます!」

 テレビの画面。女性アナンサーからマイクを向けられるのは、一人の少年だった。

 すらりと背が高く、しかし骨格は細い。女性と云われても信じてしまいう程に中性的な顔立ちをしている。そのうえ肩甲骨あたりまで滑らかに流れる純銀を溶かしたような銀髪は、日本人の規格から大きく逸脱していた。渋谷や原宿の派手好きな若者のように脱色しているのではなく、それが生まれ持った髪色であることを天華は知っていた。眠たそうに細められた瞼の奥から覗く鋭い眼光は、画面越しにも見る者を威圧する。

 画面右上のテロップには、『満月(みつき) 玲(れい) (16) 、全日本剣道大会優勝!』と映し出されている。

 「あ、あの‥‥‥、満月選手‥‥‥?」

 応答のない玲に、女性アナウンサーが僅かに戸惑う。

 「え、えぇっと‥‥‥、満月選手は、高校一年生にして今年の夏のIH個人部門で優勝。その実力から今大会特例として全日本剣道大会への参加を認められ、見事優勝を果たしました。十代の優勝は史上初となります。満月選手、このことをどう思われますか?」

 気を取り直して、アナウンサーは問いを投げ掛けた。

 「‥‥‥特に、何も」 

 「ぁぁ‥‥‥」

 心底どうでもいい、という玲の態度に今度こそアナウンサーは言葉を失ってしまう。

 「‥‥‥ただ、一つだけ残念に思っています」

 ようやく玲の発した言葉に、アナウンサーは水を得た魚の如く、顔を上げ訊ねる。

 「残念、ですか?」

 「‥‥‥今日ここに立つべきはずの人が、この場にいないことが、残念で仕方ありません」

 「そ、それは、つまり満月選手の目標の人物ということでしょうか?」

 「目標? ‥‥‥いいえ、違いますよ」

 そこで初めて玲が薄く微笑んだ。

 「アイツは必ず、ここまでやってくる。俺の剣を越えられるのはアイツしかいない」

 そう言い残し、玲は生中継にも関わらず踵を返すとその場を後にした。困惑するアナウンサーと取材陣の喧噪が流れ、すぐに別の映像に切り替わった。

 映像が変わってからも、しばらくテレビから目が離せなかった。

 玲が最期に言い残した言葉の心意。それが何を意味するのか理解できた者はおそらく天華だけだろう。

―――だからこそ苦しかった。

 こんな場所で時間を無駄にしている自分の不甲斐なさが。もうアイツと剣を交えることのできない悲しさが。一人置いて行かれる孤独が。胸の内側を容赦なく締め付ける。

 おずおずと右手を持ち上げた。その掌を強く握ろうとするが、指が震えて拳は握れなかった。

 四年前―――神童と謳われた一人の天才少女は、死んだ。

 事故に巻き込まれ、一年以上もの間ベッドから真面に起き上がることも出来ず、血を吐くような思いでリハビリを続け、ようやく人並みの日常生活を送れるようになった。だがその後遺症として握力のほとんどを失った。

 この先二度と、かつてのように剣を握れないと気づいた時、私の心は折れてしまった。

こみ上げてくる嗚咽を必死に堪える。

 すると、不意に、背中越しに柔らかな温もりに包まれた。

 抱きしめられている。そして、それが誰なのか顔を見るより先に判っていた。

 「よーしよし、痛いのいたいの飛んでいけー」

 幼子をあやすような優しい声音。

 普段の天華なら、ガキ扱いするなと噛み付いていただろう。でも今は、何も聞かずにただ抱きしめてくれる彼女の優しさが嬉しかった。

 「もう大丈夫だよ、凪」

 ぽんぽん、と首に回された腕を叩く。すると更に力が強くなった。

 「まだでーす。今度は私が天ちゃんからパワーを充電するばんでーす」

 「‥‥‥ああ、解ったよ。好きにしな」

 ようやく抱擁を解いた親友 風祭 凪は天華の隣に腰を下ろした。

口元をだらしなく垂れ下げ、飼い主に甘える子犬のように栗色の頭を摺り寄せてくる。普段、電車や駅で同じようなことをしているカップルを見る度に冷めた目を向ける天華だが、今の自分たちの姿は周囲からそれ以上に奇異の眼差しを向けられているだろう。同い年の、しかも女子高生同士が肩をくっつけ合いっている姿など、当時者である天華自身も間抜けな姿だと認めていた。時折廊下を通り過ぎる看護婦からは、またか、と呆れ交じりの眼差しが向けられてくる。これは私が望んでやっているわけじゃなくて、凪が勝手に‥‥‥、という言い訳も、先程慰められた手前憚られた。

 「にへへ~」と恍惚とした笑みを浮かべながら甘えてくる凪を見ていると、ひょっとしてコイツ、そういう周囲からの視線やコチラの心情など諸々計算してやっているのではないかと思えてくる。

 そろそろ止めないと永遠に甘えてくるな。そう思い、声を掛けようとしたタイミングで、

 「ねぇ、天ちゃん、さっきはどうしたの?」

 コチラの意表を突く凪の問いに、思わず声を詰まらせた。

 そんな天華の様子を上目遣いに眺めた凪は、くしゃりと相好を崩し。 

 「ううん、ごめん。やっぱり無理に答えなくていいよ。でももし、本当に辛くなって吐き出したくなったら、私いつでも相談に乗るからね」

 「…‥‥ったく、お前って奴は」

 親友の何気ない心遣いに、先程まで胸の内に蟠っていた痛みが引いて行くような気がした。

 「でも――――ありがとう、凪」

 栗色の頭を優しく撫でる。

 凪はくすぐったそうに笑うと、スッと体を起こした。

 皺の寄ったスカートを直し、居住まいを正した彼女がパッと向日葵のような笑みを浮かべ。

 「ねぇ、この後どうする?」

 「あー、特に用事はないな。定期健診も終わったから、あとは帰るつもりだけど」

「じゃあさ、駅前に新しくできたカフェに行かない? 私ずっと行ってみたかったんだよね~」

 「私はいいけど‥‥‥、その‥‥‥大丈夫なのか?」

 わずかに言葉を濁しながら訊ねる。

「へーき、へーき! それにたまには外に出るのも大事だって、パパも言ってるし」

 ハハハ、と明朗快活に笑う。その笑みの裏側に、どれほどの苦悩が秘められているのかを知っているからこそ、天華は出来る限り彼女の力になりたかった。


 凪との出会いは、事故に遭ってから一年後のことだった。

 当時ようやくベッドから起き上がり、リハビリを始めたばかりでそれまでのように動かせない自分の体に深く絶望した。

 もう二度と剣を持てないのではないか?

 もう二度とアイツと闘えないのではないか?

 色んな不安が脳裡を過るたびに、天華は身の回りの世話をしてくれていた両親や看護婦たちにつらく当たるようになった。こんなことになったのは全部あの人が悪い、あれさえなければ、ああしていれば、そんなどうしようもない事を泣き喚き、周囲の大人たちを散々困らせた。次第にリハビリすることにも疲れ、真面目に取り組もうとしなくなったある日のこと。

 同じようにリハビリする同年代の少女を見つけた。

 その少女は、怪我で一年以上寝たきりだった天華よりも尚、体の線も細く、すぐに転んでは、動けなくなっていた。だが何度転んでも、必ず起き上がり、歩こうとする。

 ある時、天華は少女に、『そんなに必死に頑張っても意味なんってない!』と言い放った。単なる八つ当たりだと認めながらも、言わずにはいられなかった。諦めない彼女を見ていると、諦めてしまった自分が余りにも情けなく思えるからだ。

 しかし少女は、憤るわけでも、悲嘆にくれるわけでもなく、ただ頬に紅葉を散らしながら笑うのだ。そして恥ずかしそうに、『友達になってくれませんか』と口にした。

 天華はその言動に困惑した。つい今しがた嫌味を言われた相手と友達になろうなどと、何をどう感じ、考えれば、そのような答えに行き着くのだろうか。故に天華は更なる侮蔑の言葉を残し、その場を後にした。もう一秒だってこの場に留まりたくない。彼女の在り方が天華には、ひどく近寄りがたい物のように思えた。

 その日を境に、彼女の姿を見なくなった。やっと諦めたのだと思い、少しだけ胸がスッとした。そんな時、偶然にも看護婦たちの噂話を耳にした。

 「本当に不憫な子よねぇー。あの子、生まれてからほとんどを病院で過ごしてるんでしょ?」

 「辛いリハビリにも泣き言ひとつ言わないで、どうしてあんな子が‥‥‥」

 「二十歳まで生きられないなんって、本当に神様って惨酷よね」

 脳天を鈍器で殴られたような衝撃に襲われる。

 逸る思いでリハビリ室へ向かうと、そこには彼女の姿があって。

 「おい、何でだよ!」

 キョトンとする彼女に、私は更に続けた。

 「何で、そんなに‥‥‥」

 強いんだ、という言葉を寸前で呑み込んだ。口にすれば、自分自身の弱さを認めるようで怖かった。突然視界が歪んだ。頬に、暑い感覚があった。自分の眼に涙が溢れ、滴っていることにすぐには気付かなかった。

 しばらくして、少女がケタケタと笑い声を上げた。

 泣いていることを馬鹿にされてのだと思い、勢いよく顔を持ち上げた。

しかし、彼女の頬を伝う涙を視界に捉えるや、それまでの意気が霧散した。

 「何で、お前が泣くんだよ?」

 「何でだろーね。私にも解んないや」 

 少女は泣きながら笑っていた。

 「やっぱり私、アナタと友達になりたい」

 「‥‥‥あんなに酷いこと言ったのに、それでもアンタは私と友達になりたいのか?」

 「うん! だって友達になれば仲直り出来るもん。だから、友達になろうよ!」

 「‥‥‥私、すっごく我儘だけど、それでもいい?」

 「うん。その分、私もすっごく迷惑かけると思うからそれでアイコだよ」

 おずおずと私は上手く力の入らない手を持ち上げる。

 「私、焔 天華」

 「私は風祭 凪。それじゃあ、私、天ちゃんって呼ぶね!」

 「ちゃん付けはやめろ、恥ずいだろ」

 「ええー、何で⁉ 天ちゃん可愛いよ!」

 「可愛くなくていいんだよ!」

 

 

 「ねぇー、『赤い招待状』って知ってる?」

 凪に連れられ駅前にある喫茶店で名物のパンケーキを待つ間、凪がスマホ片手に訊ねてきた。私は運ばれてきたメロンソーダを口に含みながら、「さぁ、知らない」とだけ答えた。日頃からゴシップや噂話、もっというなら他人に興味がないせいか流行に疎く、学校では凪以外と碌な会話をしたことがない。男所帯の剣道道場で育ったせいか現在通っている女子高は、ひどく居心地が悪く、馴染めなかった。

 しかし凪は気にした様子もなく、笑顔で話しを続ける。

 「最近、SNSですっごく流行っているの!」

 そう言うと、徐に自身のスマホを天華の眼前に突き出してくる。どうやら見ろ、ということらしい。あまりその手の噂話に興味はなかったが、注文した料理が届くまで手持無沙汰であることも確かなので渋々、画面を見やる。

 『アナタは叶えたい願いがありますか?』、画面にはそう映し出されていた。

 「フン、叶えたい願いとか陳腐だな」

 くだらない、と一笑に付す天華とは反対に、凪は「えーそうかなー」と不満げに唇を尖らせる。

 「最近、すっごく話題になってるんだよ。差出人不明で『赤い招待状』って名前のメッセージが送られてきてね、そこに願い事を書き込むと、本当に願いが叶うんだって」

 「なんだそりゃ、親父たちの時代に流行った不幸の手紙みたいなもんか? 願いを叶えて欲しかったらこれを他の人にも回してください的な」

 情緒の欠片もない天華の発言に凪が激しく頭を振る。

 「違うよ。そんなんじゃなくてね、本当に願い事が叶って人がいるらしいんだよ。たとえばC組の工藤さんなんか、喧嘩した彼氏と仲直りしたいってお願いしたら、数日後に本当に仲直りできたんだって、それにそれにE組の牧田さんは‥‥‥」

 それから幾つかの事例を凪が語っているところに、注文していた大量のクリームにラズベリーソースがかけられた甘ったるそうなパンケーキが運ばれてきた。天華の正面には、チョコレートソースがかけられたパンケーキが置かれる。それを見た凪は感嘆の声を上げ、パシャパシャとスマホで撮影していく。基本的に甘い物は嫌いだが、楽しそうな凪の姿を見るだけでも来た価値はある。撮影を終え、ようやく実食に移る。ナイフで切り取ったパンケーキをチョコレートソースがたっぷりと掛けられたクリームに付けて口に運ぶ。思った以上の甘味に、軽く胸やけするが、正面の凪は恍惚とした表情で、頬を栗鼠のように膨らませて嚥下する。

 「ね、天ちゃんのも少しちょーだい!」 

 「あ、ああ、いいよ。別に全部食べてくれても‥‥‥」 

 それからお互いに半分ずつパンケーキを平らげ、どうにか完食した。

テーブルに置かれたお冷で口中に張りつく甘みを無理やり胃の中に流し込む。

 「はー、お腹いっぱい、もう食べきれないよー」

 「‥‥‥うっ‥‥‥、私もだ。当分、生クリームとパンケーキは見たくない」

 「ほんとだね、もし今『赤い招待状』が届いたら生クリームを世界から消して下さいってお願いしちゃうかも」

 とそこで、先程の会話が中断していたことを思い出し、何気なく凪に訊ねてみる。

 「凪はさ、もし『赤い招待状』ってのが届いたら、何をお願いしたい?」

 「ん? どうしたの急に?」

 「いや、何となく、凪なら何って願い事するのかなって。ちょっと気になってさ」

 「そうだねー、天ちゃんが教えてくれたら私も教えるよー」

 「私? ‥‥‥私は別に願い事なんって‥‥‥」 

 「嘘。天ちゃん、嘘つくときいっつも眼を逸らすもん」

 さすが親友。僅かな感情の機微を見逃さない凪の眼力に降参、という風に肩をすくめる。

叶えたい願いなら―――ある。

でもそれは、決して叶うことのない願いだ。

故に願わない。願う=期待する、だからこそ絶望するのだ。

だったら初めから願いなど持つだけ無意味。

大切なことは口にせず、そっと胸の奥底にしまうことが利口な生き方というものだ。

 小さく嘆息しながら、私には似合わない作り笑いを浮かべてみせる。

 「ほんとうに、願いなんってないよ。あるとするなら八十の婆さんになるまで凪と一緒にいたい、ってことくらいかな」

 「フフッ、嬉しい。でも大丈夫だよ。私たちはずっと友達だよ。それこそどっちかが先にいなくなっちゃっても、ずっと‥‥‥ずっと‥‥‥」

 重い心臓の病気を抱えている凪は、二十歳まで生きられない。

以前に本人からもそれとなく聞かされている。だから私たちが一緒にいられるのは、あと三年か四年、もしかしたらもっと短いかもしれない。そう考えると、今こうしてテーブルを挟んでパンケーキを食べていることすら、かけがえのない思い出だ。

 「私の願いは―――一度でいいから、天ちゃんが剣を振るってるところを観てみたい」

 「‥‥‥凪‥‥‥」

 「それが、私の願いごと」

 無邪気な笑みとともに彼女は告げる。

焔 天華が剣士として再起することこそが彼女の望みであると。

それはあまりにも残酷な願いだ。

願いって言うのは、叶う可能性があるからこそ願いなのだ。

叶わない願いなど、唯の妄想、劇毒に過ぎない。

そしてそれは先程、私が口にした願いもまた風祭 凪にとっては同じことなのだろう。

二十歳まで生きられない彼女に、それ以上先の未来の話などあまりにも残酷過ぎる。

 「そうだな、そうなれたら、いいな」

 そんな思ってもいない空虚な台詞しか私は言えなかった。

 


 店先で凪と別れ、遅めの帰路につく。

 まばらに降る雨の中、私は考えていた。

 凪が望む、焔 天華がもう一度剣を握る姿について。

 その姿を彼女がいなくなる前に見せてやれることなら見せてやりたい。

 でも、出来ない。

 単に道着を着て、竹刀を構えるくらいならいつでも出来る。

 しかし凪が望んでいるのは、そんな上っ面なものじゃない。焔 天華という一人の剣士が戦う姿を望んでいる。とすれば、その望みはあまりにも非現実的だ。彼女がいなくなるその時まで、彼女が望むことは何でも叶えてやりたい。でもその願いだけは叶えてやれそうにない。

 何より私自身が、それを許せないだろう。

 剣士としての焔 天華は死んだのだ。

 四年前のあの日に、幼馴染の命を救った代償として。

 その事を悔いてはいない。あの時、彼を救っていなければ、自分で自分のことを許せなかっただろう。事故に遭い怪我をしていなければ凪とは出会わなかった。だがしかし、最後はやはり剣士としての焔 天華へと帰結する。自らが望まずとも、かつての私を知る誰もが、かつての焔 天華を望んでいる。

 今の―――欠陥品の焔 天華ではなく。

 気が付くと、家の門扉の前に辿り着いていた。

 曾祖父の代から続く古色蒼然とした武家屋敷。屋敷の周囲を長屋門が取り囲み、庭先からは父が運営する道場から門下生たちの猿叫が聞こえてくる。怪我する以前は、天華も男衆に混ざり技の研鑽に励んでいた。だが、怪我をしてからは疎遠になり、それと並行するように父親との関係も冷え切っていった。元々、仲が良かったわけじゃない。母親を早くに亡くした天華と父にとって、唯一の絆が『剣』であり、それを失くしたことで父との間に溝が生まれるのは自明の理であった。

誰もいない屋敷に独り暮らすことが寂しくないといえば嘘になる。怪我をして、やさぐれていた頃なら間違いなく耐えられなかったはずだ。それでもこうして耐えていられるのも凪が側にいてくれるからこそだろう。そんな彼女がいなくなったら、と想像するだけでも恐ろしい。

 母屋へと続く門を潜ろうとしたその時、丁度同じタイミングで一人の門下生と鉢合わせた。

 女の中では十分に大きい部類に入る天華ですら、小柄に思えるほど、正面に佇む詰襟の学ラン姿の少年は大きかった。

 長い銀髪を頭の後ろで縛り、竹刀の入った布袋を肩にかける少年―――満月 玲もまた、目を丸くしながら石のように固まっていた。

 「「‥‥‥‥‥‥‥」」

 両者の間に降りた沈黙を最初に破ったのは、意外にも天華の方だった。

 「テレビ見たぞ。選手権優勝おめでと」

 「‥‥‥‥‥‥」玲は何も言わず、ただジッと天華を見据えていた。

 そして玲とは反対に、天華は饒舌だった。

 「それにしても、すげぇよな。高一で選手権取っちまうなんって、剣道始めたばっかりのお前からは想像できねぇよ。‥‥‥頑張ったんだな」

 普段なら嫌悪する歯の浮くような世辞が玲を前にした途端、とめどなく溢れ出た。

 正直なところ、あの事故以来、玲との接触は意識的に避けてきた。

 理由は幾つかあるが、その最大の理由こそ、かつて天華のことを目標と慕っていた玲に、今の―――剣士でなくなった焔 天華を見せたくなかったからだ。

 何も成さず、何も残さない。唯、無為に日々を消化していることに、酷い自己嫌悪を覚えた。

 今や、満月 玲はこの国で限りなく『最強』に近い存在だった。

 たかが四年。されど四年。

 四年がという歳月が、二人の間に落とした溝はあまりにも深い。

 そして、沈黙を続ける玲の眼差しの中に憐憫が混じっていることに気付く。

 途端、堰き止めていた感情が少しずつ溢れ出してくる。

 「止めろ‥‥‥、そんな眼で見るな」

 「…‥‥‥‥‥」玲は何も答えない。沈黙を以て、天華を見据えている。

 「仕方ないじゃんか。もう私は‥‥‥、剣士じゃないんだ」

 一体誰に言い訳しているのだろう?

 「だから‥‥‥、私は―――」

 それ以上は何も言えなかった。

 これ以上言葉を重ねれば、それこそ永遠にこの暗闇から抜け出せなくなるような気がする。

 絶句する天華の姿が見るに堪えなかったのか、玲は短い瞑目の末、無言で門扉を潜った。

 一瞥をくれることもなく天華の側を横切っていく。

 玲の足音が遠ざかる。それはまるで永遠の別離を告げられているようで。

 堪らず、天華は体ごと遠ざかりつつある玲に向き直るや叫んだ。

 「玲―――待って!」

 ピタリ、玲の足が止まった。

 結った長い銀髪が揺れ、肩越しにコチラへ振り返る。

 色素の薄い唇が震え、

 「天華、俺は先に行く」それだけを言い残し、再び歩き始める。

 それ以上、少年の歩みが止まることはなかった。

 

 どれくらい、そうしていただろうか。

 雨脚はしだいに激しさを増していき、雨を吸収した制服はズシリと重かった。

 「‥‥‥フフッ‥‥‥」

 自虐気味な笑みがこぼれる。

 何と、なんと愚かなのか。

 一体何を呆けたことを考えていたのか。

 誰もが進み続けている。

 ある者は旅の終わりへ。

 ある者は遥かな高みへ。

 誰一人として、立ち止まっていない。

 否―――焔 天華だけが、四年前から一歩も前に進めていない。

 「でも‥‥‥、どうしたらいい? ‥‥‥私に、どうしろっていうんだよ‼」

 その時だった。制服のポケットのスマホが震えたのは。

 雨に濡れるのも構わずスマホを取り出す。画面には差出人不明のメッセージが届いていた。

 スマホを開き、メッセージを確認する。

 「――――ッ‼」

 『あなたの願いは何ですか?』メッセージはそう綴られていた。 

 「『赤い招待状』? ‥‥‥ったく、こんな時に冗談きついぜ」

 これが本当に凪の言っていた『赤い招待状』だとして、願いが叶うとは思えない。

質の悪い悪戯。望みを示したところで碌なことにはならない。

 それでも今は、縋るより他に道はなかった。

 ここから―――この先の見えない暗闇から抜け出す切っ掛けさえ見つかれば。

 「私は、変われる」

 バカなことをしていると自覚しながらも、私は願いを書き込んだ。

 「もう一度だけ戦う機会をくれ! その為なら何でもやってやる。だから、どうか‥‥‥私に力を―――‼」

 ブブッ、スマホが震えた。

 『焔 天華 様 その願い確かに承りました』

 「なんで、私の名前を‥‥‥?」

 怪訝に思ったのも束の間、突如スマホの画面が暗転する。そして目まぐるしい勢いで謎の文字が画面を埋め尽くした。やはり何らかのウイルスだったのか、そう思った矢先。

 画面を埋め尽くしていた文字が消え、変わりに短いメッセージが映し出される。

 『Welcome to new world』

 「何だ、これ?」

 『Let me guide you』

 「‥‥‥ッ⁉」

 『Your name is Musashi Miyamoto』

 途端、スマホから直視していられないほどの光が溢れた。

 「な、何だ、これ‥‥‥ッ⁉」

 その叫びも光の中に呑み込まれていき―――。

 直後、世界は白く染まった。

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