第2話 何かおかしい・・・。

 何かおかしい……。


 それは、引っ越した次の朝から始まった。冷蔵庫に入れていた牛乳の位置が違っているように思えた。僕は昨夜、ショップ柴田に再度出向き、夕食用のお惣菜や朝食用のパン、バター、牛乳などを買っていたのだ。確か牛乳は、ドリンク棚の一番右に置いたと思っていたのだが……。食パンをほおばりながら考えるもはっきりとしない。


「まっ、いいか。あっ、時間やばい」


 僕は、慌てて鍵を締め、小走りに駅に向かった。ホームに滑り込んできた八両編成の電車に飛び乗り、吊り革を掴むと朝起こった小さなことなんかすっかり忘れてしまっていた。




「神谷君、引っ越したんやって?」


 二歳年上の先輩、七尾さんが聞いてきた。

僕が勤めるCADプロジェクトは、小規模だが近年大きな仕事をまかされはじめ、めきめき頭角を現してきた広告代理店だ。僕は、そこでデザイン課のスタッフとして働いている。主な仕事は、パッケージデザインやそこで使われる色やフォントを決めることだ。


「はい。そうなんですよ。思い切って奈良へ移住しました」

「移住って、大げさな。でもまぁ、奈良ってええとこやし、いいんちゃう。大阪からもすぐやしなぁ。何より鹿も大仏もおるし。また落ち着いたら招待して」


と言いながらミーティングルームに入って行く。


 七尾先輩は仕事でもプライベートでもみんなに頼られているとても魅力的な女性だ。僕も、飲み会の席で偶然隣り合わせになった七尾先輩に、瑠依子が何も言わずに部屋を出て行ったことについて、一度だけ相談をしたことがあった。


「これって、神谷君の人生の中で、次のステージに移る為のチャンスと捉えることはできひん?」


 少しは慰めてくれることを期待していた僕は、全く予期せぬ言葉に逆にすっきりしたのだ。そういうこともあってか、多くの男性社員同様に僕も七尾先輩のファンの一人になっている。


 この日は、午前中から新プロジェクト関係のミーティングが目白押しだったこともあり、あっという間に十七時になった。


「神谷君、今日はもうこれで上がってええよ。まだやること色々あるんやろ?」


 実は、昨日、全て片付けたので、特にやることはないのだが、折角七尾先輩がみんなの前で促してくれたので、お言葉に甘えて定時で帰ることにしよう。


「お先に失礼します」


僕は、まだまだ仕事モードのスタッフをよそに会社を後にした。



「ただいま」


 誰もいない部屋に向かってつい声を出してしまう…。

まだ、瑠依子がいた時の癖が抜けきれない。部屋も変わったのに、いい加減にしないと情けなさすぎる。


 スニーカーの紐をほどく。薄手のジャケットを脱ぎながら部屋へ入るとテーブルの上にあるガラスコップに目が釘付けになった。


 今朝は確かに慌てていたが、使った皿とコップは流し台に置いたはずだ。なのに何故コップがテーブルの上にあるのだ? 


 念の為に流し台を覗くと皿だけが水の中に浸かっている。う〜ん、分からない。やっぱり単なる勘違いか……。そのコップを手に取り、流し台へと歩く。

その時気づいた。今朝、僕は牛乳を飲んだはずなのに、コップには水が残っているではないか……。


 誰かがこの家に空き巣に入ったのかもしれない。


 恐る恐る風呂場やトイレをチェックするが誰もいない。そして、足音を立てないよう静かに階段を登っていく。部屋の灯りを付けた僕は、押し入れや人が入れそうな棚の扉を順に開けていった。が、特に問題はなかった。

ふと気づいた僕は、慌てて観音開きの扉を開け、正方形の引き出しを一つずつ開いていく。この中で最も値が張るのは祖父の形見分けでもらったロレックスの腕時計だ。「ふぅ。あった。良かった」思わず声が漏れてしまう。とても気さくで僕に色々と教えてくれた祖父が大事にしていたこの時計を形見分けの際、「お前がもらっておけばいい」と父から言われた時は本当に嬉しかった。この時計だけは絶対に失くせない。これからは、引き出しにしまわずに毎日使うようにすればいいんだ。早速左手に時計を付けた僕は、他の引き出しもチェックしていく。


 特に問題はないようだ。そして、最後に、昨日、何も入れなかった左下の引き出しも念のために開けてみる。

すると、そこには、全く見覚えが無い銀縁の眼鏡が蛍光灯の光を反射させ煌めいてた。


「なんだこれは……。」


 僕の眼鏡はごく普通の黒縁タイプのものなので、これとは全く違う。

昨日は何もなかったのに。なぜ? それとも見落としたのか? だとすれば、これは誰のものなんだ? 色んな思いが交差する中、その眼鏡を手に取ってみる。フレームは指紋も無くとても艶やかだ。レンズにもチリ一つない状態で、まるで今買ってきたばかりの新品のようだ。思わず自分の眼鏡を外し、その銀縁眼鏡をかけてみる。するとどうだ。まるで、自分用に作ったかのように完璧に焦点が合うではないか。仕事柄、PCの画面を常に見ている僕は、最近一気に度が進んでいたのだが、忙しかったこともあり、眼鏡を買い換えてなかった。一体なぜ、この銀縁眼鏡は、現在の自分の視力に見事に合致しているのだ?


 付けたまま部屋を見渡してみる。昨日はわからなかった天井の木目やフローリングの小さな傷までしっかりと見えている。


 前の住人の忘れ物だ、きっとそうに違いない。僕は、この不思議な眼鏡をかけたまま一階に降りていき、念のために再度部屋中を見渡したが変わったところは見あたらなかった。しかし、それでも気持ちはざわざわと落ち着かない。今日は、さっさと風呂に入って早く寝るとしよう。


「起きて。ほら、起きて。会社間に合わないよ」

「うん、ありがとう。もう少しだけ……」


 はっとして目が覚める。

誰かの声が聞こえたような気がした。それとも、また瑠依子の夢をみていたのだろうか? 


 僕は寝癖が付いた髪のまま、ベッド横に置いていた銀縁眼鏡を掛け、1階に駆け降りる。そして、買っていた菓子パンを食べようとして手が止まった。何故なら昨夜片付けたはずのコップがまたテーブルの上に置かれていたのだ。そのコップの中にもほんの少しだけ水が残っていた。

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