第5話

 気付けば三か月前、自殺を試みた廃ビル。その七階にたどり着いていた。

 どうやってここまで来たのかも、何故ここを逃げ場所に選んだのかも解らない。本当に気付いたらここにいたという感じだ。それは眼には見えない、不思議な力に引き寄せられているような、何とも形容し難い感覚だった。

 息を吸い込めば、肺がズキズキと痛んだ。露わになった肌を腕で覆い隠しながら、ヨロヨロと頼りない足取りで、月明りの下へと歩いていく。

 そこには以前、剥き出しのコンクリートタイルには不似合いな大きなグランドピアノが置かれていた。だが、其処にピアノはなく、朽ちて罅割れた窓ガラスの破片が散乱するだけの殺風景な光景が広がっていた。

 「‥‥‥‥やっぱりアレは夢、だったの?」

 フロアの真ん中で私はガクリと崩れ落ちた。

 さながら教会で懺悔するような恰好で、あの日と同じように夜空に浮かぶオリオン座を仰ぎ見る。

 すると、カツン、カツンと錆びだらけの非常階段を踏む足音が聞こえ、全身に緊張が走った。

 まさか、木村さんたちが追い付いてきたの⁉

 十分考えられることだ。木村さんたちは薬物所持の現場を目撃されている。目撃者である私の口をどんな手を使ってでも封じようとするに違いない。

 ドクン、ドクン、否応なく心臓の鼓動が加速していく。未だ厳しい寒さが続く夜だが、私の額には玉のような汗が浮かんでいた。

 そして―――、カツン。

 影の中に浮かび上がる黒いシルエット。体格は小柄。私とあまり変わらないくらいだろうか。木村さんと、その取巻きの二人とも異なる。

 じゃあ一体、誰? と、訝しむ気配が伝わったか、カツンと足音を響かせて立ち止った人影が、一瞬の間を開けた後に、銀凛の鈴の音のような柔らかく、ずっと聞いていたくなるような声で。

 「やっぱり、ここに戻ってきたね」

 やっぱり? 戻ってきた?

 「アナタなら、自力で花の力に目覚めると思ってた」

 カツン。人影はそのまま影の中を、反時計回りに歩き出す。

 「多分、アナタは今、私が何を言っているのか解らないでしょう? 三か月前の記憶だって、ほとんど残ってない‥‥‥違う?」

 「‥‥‥‥アナタは、あの時の?」

 「そう。花の力を半分アナタにも分け与えておいたの。時間がくれば自動的に覚醒したんだけど、アナタは自力で種を芽吹かせてしまった。これってすごいことよ。私だって、自力では覚醒できなかったもの」

 まるで要領を得ない話に、疑問符を浮かべていると。

 「三か月前のこと、ゆっくり思い出してみて。今なら思いだせるはずよ」

 私は、その声に従い、瞼を下ろし三か月前の記憶に意識を集中させた。

 月明りに照らされた白皙の少女。

 悲しいほどに美しい『月光』。

 差し出された手。

 そして――――。

 その瞬間、私の頭の中に広がっていた靄が蜘蛛の子を散らすように霧散してく。

 「アナタ‥‥‥もしかして‥‥‥」

 「フフッ、やっと私のこと思い出してくれた。この三か月ずっとアナタを見つめていたのに」

 クツクツと可笑しそうに笑いながら、影の中から月明りの下へと、白皙の少女―――黒条 凜は姿を現した。

 同じ楠女学院の制服のはずなのに、黒条さんが着ているだけで、どんな高級ブランドの服よりも高価な装いに見えてしまうから不思議だった。今日の授業の途中でも見せたような、年相応の笑みを浮かべながら、黒条さんは私の前まで歩み寄る。

 私が両膝をついているから、ちょうど見下ろされる格好だ。

 「孤独には温度があるの」

 「孤独の温度?」

 「そう。あくまでもアタシの主観だけど、自分から進んで孤独になるのと、自ら望まずに孤独になるのとでは、その温度は―――在り方が違うと思わない?」

 「‥‥‥‥それって」

 不意に今朝の記憶が思い起こされた。

 昇降口での会話。

 『アナタは、何のために生まれてきたの?』という黒条さんの問いに、私は何も返せなかった。いいや違う。勘違いしていたんだ。あの問いは、アナタは無価値な存在なのに何でまだ生きているのか? そんなネガティブな方向に捉えてしまっていたが、実際はニュアンスが違う。

 あの問い掛けが、孤独の温度に対する問いだったのだ。

 そして、その問いの真意を知った今なら―――答えを出せるような気がする。

 「あらためて、答えを訊かせてもらえる?」

 「‥‥‥‥‥幸せに、なるため」

 その答えに、黒条さんは満足気に頷く。

 「すばらしい回答だわ。ありがとう、白柳さん」

 「‥‥‥‥黒条さんは、どうなの?」 

 学院では話しかけることも出来ないのに、何故か今はスラリと言葉が出た。

 「あっ、ご、ごめんなさい。いきなり‥‥‥」

 「フフッ、何を謝る必要があるの? アナタがアタシに謝る必要があるのなら、アタシはアナタに一体何度誤れば許してもらえるのかしら? この三か月、いいえ、それ以前よりずっと前から、アナタがいじめられている事を見て見ぬふりをしていたことについて? それともあの日の夜の出来事の記憶をもっと早く解いてあげなかったことについて? フフッ、ほらね、キリがない。だからこれから私に対してそんな委縮する必要なんってないの」

 「そ、そうだよね、ごめんな‥‥‥あっ」

 指摘されて早々に委縮してしまい、黒条さんがクツクツと忍び笑いを洩らす。

 「フフッ、大丈夫よ。落ち着いて」

 同い年だというのに、黒条さんの物腰は私とは違ってずいぶん大人びて見える。

 「う、うん‥‥‥」

 「私はね、この世界に問い掛けたい」

 「問い掛ける?」

 「そう」と小さく銀色の頭が首肯し、

 「世界の在り方を、そこに生きる人々に、本物の孤独とは何なのか―――」

 その答えが果たして正しいのか、それとも間違っているのか、それは私には解らない。だけど、黒条さんの表情にわずかな翳りのようなモノを感じて、それ以上は深く追求しなかった。

 「ねぇ、その恰好寒くない?」

 「え? ‥‥‥あっ、そうだった」

 制服は先程の高架線の下で剥ぎ取られてしまい、ブラウスは胸元を覆っていないと恥ずかしい有り様だ。その下の肌を先ほどまで見知らぬ男たちが触っていたのかと思うと、落ち着いていた恐怖が再燃して、私はガタガタと体を細かく震わせた。

 それを見て、黒条さんは私が寒いと思ったのか、自分が着ていた制服の上着を私の肩に優しくかけてくれた。

 「あ、ありがとう‥‥‥だけど、黒条さんは大丈夫なの‥‥‥?」

 白いブラウス一枚だけになった黒条さんは、「大丈夫だよ」とスカートの裾を摘まみながら、その場でクルリと舞ってみせる。

 「今、自分の周りを『殻』で覆っているから寒さは感じないの」

 「から?」

 何かの隠語? とここ数分間の言葉の中から答えを探ろうと思考を巡らせかけた所で、黒条さんがクツリと微笑み、「違うわ。簡単に言うと魔法の力で、寒さを凌いでいるのよ」

 魔法? それは、漫画や小説、ファンタジー作品などに度々登場する、超能力のことを言っているのか? それとも、これも何かの隠語、ないしは略語の類なのだろうか?

 「まぁ、魔法については後で詳しく説明してあげる。まずはその前に‥‥‥」

 と黒条さんが言いかけた所で、ガンガンと乱暴な声と足音が非常階段の方から聞こえてきた。

 「見つけたよ、白柳~!」

 幾つもの足音が部屋に駆け込んでくる。

 「き、木村さん‥‥‥っ‼」

 思わず声が裏返った。木村さんを先頭に、数名の男たち。遅れてリーダー格が非常階段の方から姿を現した。ゾロゾロと現れたガラの悪い大人たちを前にしても、一人黒条さんだけは余裕の表情を崩すことなく、むしろ口元には不敵な笑みさえ浮かべていた。

 と、そこで先頭の木村さんが、黒条さんの存在に気付いた。

 「はぁ~? 何で、黒条がこんな所にいるわけ? ‥‥‥ああ、そういうこと」

 一人納得した様子の木村さんが、からからと哄笑を上げ、ズカズカと影から月明りの方へと歩み寄ろうとした所で、

 「止まりなさい」

 静かだが、有無を言わせぬ言葉が黒条さんから発せられる。

すると――――

 『――――――ッ‼』

 その場に居合わせた私と黒条さんを除く全員の動きがピタリと止まった。

 木村さんも片足を踏み出しかけた奇妙な恰好で止まり、その後ろのガラの悪い大人たちも皆一様に動きを止めていた。

 「な‥‥‥ッ! 何が、体‥‥‥が」

 リーダー格の男が低く呻いた。その周りの取り巻き立ちの反応も似たり寄ったりで、木村さんに関しては、口を開けたまま声にならない呻き声を洩らしている。

 誰もが状況を呑み込めず呆然とする中、黒条さんが静かに歩を進めた。

 カツン。革靴の乾いた音だけがこだまする静寂の世界。

 光と影の境界線。その寸前で立ち止まった黒条さんは、身動きが取れずに固まる木村さんへ、憐れむような眼差しを向けながら、静かに口を開いた。

 「アナタたちは孤独を知らない。ええっと、アナタたしか名前は‥‥‥」

 白磁のような指先でおとがいを撫で、やがて思い出したように口を開いた。

 「あぁ、アナタも楠女学院の生徒なのね? ごめんなさい気が付かなかったわ」

 全く悪びれる様子もない黒条さんに、木村さんの面貌がみるみる赤く染まり、ギリッと歯を鳴らす。

 「ざっけんな、黒条! アンタ、アタシらに一体何したんだよ!」

 「それを今ここでアナタが知ることに、一体何の意味があるのかしら?」

 「‥‥‥っ! いや、それよりも‥‥‥アンタ、アタシの事を本気で覚えてないの?」

 「ええ、全く」

 間髪入れずに返され、数瞬、唖然となった木村さんは更に表情を険しくさせていく。

 「アンタさえ、アンタさえいなければ‥‥‥アタシが全て一番に成れたはずなのに!」

 目を血走らせながら、木村さんは叫び続ける。

 「成績だって、アンタさえいなきゃ、アタシがずっと一番だったのに! ‥‥‥そのせいで、アタシが家で、一体どんな目に遭ってきたと思って‥‥‥」

 木村さんは、学年でも常に成績上位に入る秀才だ。でもその上には、黒条 凜という孤高の天才が君臨し続け、彼女は常に二番手という位置に甘んじてきた。

 そして、木村さんの両親はどちらも有名大学を卒業していると以前聞いた事がある。娘への教育は厳しく、そこで貯まった鬱憤を、何の抵抗もできない私のような弱者を攻撃することで晴らしていたのだろう。

 これまで木村さんにされてきたことを思えば、同情する余地なんって何一つもないのかもしれない。だけど私はどうしても、木村さんの生い立ちを想えば彼女ばかりが悪い訳ではないのではないか、と考えずにはいられなかった。

 ぜぇぜぇ、と荒い息を吐く木村さんの頬へ、スウッと白い掌が添えられる。

 「アナタも、孤独を知る一人だったのね?」

 「は? 何わけわかんないことを‥‥‥っ!」

 「でもね、アナタの孤独は生ぬるい。それじゃあ、私たちの孤独には遠く及ばない」

 困惑する木村さんを無視して、黒条さんは言葉を続ける。

 「いつか気付いてくれると嬉しいのだけれど、多分、ここにいる全員にその機会は永遠に訪れないわね」

 そう黒条さんは呟き、影の中の大人たちをひとりひとり順番に眺め回す。途端にその表情が一変した。さっきまでの憐れむような表情から、何の感情も読み取れない、視線が重なった者を心胆から凍り付かせるような、絶対零度の眼差しが向けられた。

 「さようなら――――哀れな幸福者たち」

 パチン。黒条さんが指を鳴らす。

途端、木村さんを含めた大人たちが皆、一斉に糸の切れた人形のように足元に崩れ落ちた。 

 まるで理解の及ばぬ現象に、私は唖然と立ち尽くすことしか出来なかった。

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