第 十六話 狐と虚と草木妖(一)

 まれに見る混乱具合だな、と、白髭のやつれた男が思った。


 議場は、もはや誰も止めようのないほどの泥くさい殴り合いになっていた。一部の若い文官が制止に入るものの、冠つきの中年同士が、お互いの顔面を掴みながら体力のない殴り合いをしていた。


 兵部尚書しょうしょと書かれた重厚な装飾の席、真っ白な髭をさする初老の男が眉をひそめながら場を見ていた。


 大虚が都に出てより今までにも揉める内容はあったが、これほどまでに見苦しい状況になったことは一度たりともなかった。

 きっかけは、明らかに先ほどの欽天監きんてんかん監正かんせいの発言のせいだ。


 ——大虚への根本的対策は、現状なし。都に残る人間は、皆等しく死を覚悟すべし。


 あの女狐――。

 ここで行う報告の内容は、もっと包み込んで伝えると言っていたではないか。先んじて報告を受けていた兵部の長である自分ですら、この内容を再度聞くのはこたえるのに何を考えてのことだったのか。


 皆、おびえているのだ。目の前の問題が何一つ進展しない中、予想を悪い意味で裏切る報告を受け入れきれないのだ。知りもしない他人の生き死になど一切どうでもよいが、いざ自分にその順番が回ってくる可能性があるのならそんなもの到底正気ではいられないのだ。


 当たり前の話だ。監正に発言を許すのではなかった。


「兵部尚書!」


 遠く席を離れた場所から、冠をむしりとられた中年の男が、髪を振り乱し白髭の男を見て叫んだ。


「お前は! 外敵から天子をお守りするのが役目でありながら! この状況に対して何一つ打開策がないのか!」


 豚のようだった。

 汗にまみれた顔面を真っ赤にさせながら、手にもった棒を叩きつけるように突き出している。


 白髭の男が、大きくゆっくりと、ため息を漏らした。


 どうでもよかった。

 この男が天子のことなど気にしているはずがない。怒張したように見える中でもその発言が出るのなら、まだ体面を保つだけの余裕があるという印だ。そもそも、大虚から真っ先に都を捨て逃げ去った天子をお守りするなど、どれだけの人間が真剣に思っているのか。

 素直にどうにかしろと言えばいいだけなのに、この期に及んで体面を気にして算盤をはじく連中ばかりだ。


 好きでもない口を開くしかなかった。


「先ほど申し上げたように、結論から言うと、現状はない」

「ないで済むわけがあるか!」


 掴みかかろうとする中年の男を、脇から飛び出した数人の若い文官が抑え込むように掴み止めた。


「術師が何人いようが! ただの時間稼ぎにしかならず、結局は虚の腹が膨れるまでひたすらに人間が食われるのを待つしかないなんぞ、こんなものどうやって報告ができるのか言ってみろ!」


 紅潮した顔で、中年の男がただひたすらに自分に食らいつく目を送っていた。


 どうでもよかった。この男は、私に矛を向けたいだけだ。子供の駄々と同じだ。


 一直線に中年の男を見据え、言葉を発した。


「残念ながら、先程の監正からの報告がすべてだ。この、すべてにおいて最も恵まれた条件にある都においても、今ここに、さらなる大虚を打ち込まれたなら、我々が取れる手は二つしかない」

「二つ?」


 白髭の男が、自分の前に手のひらを出した。

 ゆっくりと、指を一本折り曲げた。


「一つは、十二年前に都に発生した大虚の際と同様。覚悟を持った術師が虚と共に自爆する」


 もう一本、指を折った。

 ゆっくりと、言葉を吐いた。


「か。民草丸ごと、虚の腹が膨れるまで食わせるか、だ」


 掴みかかろうとしていた中年の男が、口を開けたまま動きを止めた。


「貴様、正気で言っているのか」

「正気だ」


 白髭の男が、目を閉じ目頭に指をあて言葉を発した。


「現実的な手段としては、この二つだけだ」


 首を鳴らすように回した後、白髭の男が席を立った。


「仕事に戻らせてもらう。我々は、あなた方のように即日都を捨て逃げ去った方々と違い忙しいのだ。今この会議ができるのも、我々がこの宮中の真上、のしかかった大虚が動かぬよう足止めを行っているからに過ぎない。そのことをその頭に入れて頂きたい」


 発言を終えた後、白髭の男が退出する扉へ足を進めた。

 敵意の詰まった視線の中、歩を進めた。立ち並ぶ文官たちの人波が、無言の視線とともに男の進行を避け割れていった。


 あけたばかりの扉の前で、白髭の男が思い出したように口を開いた。


「早ければ本日、遅くとも明日。先に退出した監正から、大虚に関する追加報告を受けることになっている。我々の命が繋がるかどうか、貴重な話が混じる可能性があるそうだ。

 こんな場所で粗末な殴り合いをする元気があるなら、この状況を打開する案のひとつでも出していただきたいものだ」





 完全に夜になっていた。


 望天ぼうてんに案内された建物の中、入ってすぐの開けた部屋で、明星めいせいがつまらなそうな顔をしながら、簡素な食事用の机に突っ伏していた。


 やることがなかった。あまりにだだっ広い部屋の中、「適当に、ゆっくりしといて」という望天の言葉の後、ただひたすらにここで待たされていた。


 あまりにもやることがなさ過ぎて、部屋の外、広場を駆け抜けていった人間が何人いるのかを数え始めるほどに何もやることがなかった。通された部屋が、明かりも何もなくただただ広すぎるのだ。天井も高ければ部屋自体もだだっ広い。何かしら人が集まる場所なのだろうが、装飾も何もなかった。とにかく外がよく見えるぶち抜きの構造になっていたのは救いだった。逆に言うと、それしかやることはなかった。


 かがり火が煌々とたかれる中、見たことのない服装の人間が、門の入り口から出てきては、一直線にどこかへ駆けて消えていった。


 よくまあ、こんな日が落ちた後も走り回る人間が後から後から来るもんだ。空腹に耐えかね、背負い袋から取り出した干し肉を噛みちぎりながら明星が思った。


「なあ」


 机に張り付くように突っ伏した明星が口を開いた。


「俺ら、忘れられてんじゃないかこれ」


 机の下で、丸くなり目を閉じていた昴宿ぼうしゅくが、顔を合わせるわけでもなくただただ面倒そうに口を開いた。


「お前ももう、そのまま寝てろ」

「腹が減ってんだよ!」


 机に突っ伏し干し肉を噛みながら、明星が誰に言うでもなく文句をたれた。


「大体ここどこなんだよ! 連れてきてちょっと待ってろって、ちょっとじゃねえだろ! 手洗いもわかんねえしよ!」


「うるさいな……」


 昴宿が起き上がり、首で方向を示した。


「手洗いはあっちだ」


 昴宿の視線の先を見た。だだっ広く薄暗いこの部屋の出口の奥に、ろうそくで灯された別の部屋へ続く廊下が続いていた。


 明星が、無表情な顔で昴宿を見た。


「なんで、知ってんの?」

「昔ここにいた時期もあったからな」

「ここに?」


 明星の期待を込めた言葉を無視するかのように、昴宿が再度机の下に座り体を丸くした。


「なあ~」


 足元で丸くなった昴宿を小突くように、明星が足で体を揺さぶった


「暇なんだよ。なんか話してくれよ」

「本当にめんどくさいやつだな……!」


 あくび交じりの、あきれたような声が昴宿から出た。


太白たいはくが、昔ここで働いてたんだよ」

「師匠が?」


 昴宿の次の言葉を待ったまま、時間が過ぎた。


「いやちょっと、止まんなよ」

「うるさいな……」


 昴宿が体を起こした。

 不機嫌さを隠す気のない表情で、明星の突っ伏す机の上に無音で飛び乗った。机の上に広げられた干し肉を口で拾い、明星の隣で同じように噛み始めた。


 干し肉を口に含んだ昴宿の表情が、一瞬で何かえぐいものを口に含んだかのように垂れ下がった。


「この肉、ちょっと固すぎないか」

「固い。しかも水がないから、のどが渇いてつらい」

「私の口だと、歯に挟まったまま二度と取れなくなりそうだな……」

「たまに見るなぁ、そういうイノシシ。牙に何かの肉がくっついて、取れなくて地面をひたすら掘り続けてるやつ」


 黙々と、二人とも干し肉を食い始めた。


「なあ」

「なんだ」

「お前って、何なの」


 突発的に出た明星の質問に、何の返事もしないまま、黙々と干し肉を噛み続けた。


「なあ。なんでお前しゃべれんの。それに虚って何。この左手の石は————」

「質問が多い……!」


 割って入るように昴宿の声が出た。


「質問をするなら順番をつけてから聞け」


 昴宿の言にふてくされたような表情をした明星が、隣にある丸々とした昴宿の尻尾を掴み、適当に回し始めた。

 座ったままの昴宿が、つかまれた尻尾を振りほどくように無理やり外した。


「そうは言うけどさぁ。わけわかんなくてさぁ。一気に、なんでもかんでもドバっと来て、頭もうごっちゃごちゃでさ。もうほんと、何から聞けばいいのかも全然わかんねえしさぁ」


 机に突っ伏した明星が、再度散らばった干し肉を掴み、つまらなそうに口に放り投げた。


「師匠って、何だったんだろうな」


 ぽつりと、明星が言葉をこぼした。


 昴宿が、噛んでいた干し肉を飲み込んだ。

 ちらと明星を見たかと思うと、全くの違った場所を見たまま、ゆっくりと昴宿が口を開いた。


「太白がここに来たのは、もう二十年近くも昔になる。虚の元の来る風穴を閉じた後、宮中にいた草木妖そうもくようが軒並み消えた後だった。はじめ、ただの地方の星見ほしみだった太白は、ここに来る予定は何もなかった」

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