第9話 間接ちゅー

 目を覚ますと、時計の針は、まだ午前五時を示していた。昨日、ようやく寝つけたのが午前二時頃だったから、三時間しか寝ていないことになる。それなのになぜだか目が冴えてしまって、二度寝ができそうな気配はなかった。


 ここ最近は、あまり寝つきがよろしくない。寝ても、すぐに目が覚めてしまう。『恋を教えて』とアメリアに言われてからもう一週間が経つが、その間ずっとこんな調子だった。


 眠ろうと思ってベッドに入っても、すぐにアメリアの言葉を思い出してしまう。「言い訳ばかり」と耳元で言われたような気がして、跳ね起きてしまう。心臓が、嫌な感じにドキドキする。彼女の一挙一動に対して、やたら敏感になっている自分を日常生活ですら感じて、無駄に気疲れしてしまう。


 そうやって精神的には参っているくせに、眠れないから疲労感はたまる一方だ。最近は、頭の奥が常に重たい感じすらしている。


「やばいな、俺」


 口に出して呟いてみる。答える声はない。当然だ。自室に一人きりなのだから、文則の呟きなど誰の耳にも届かない。


「っていうか、こんな時間に自分のことをやばいとか言っちゃってる方がやばいか」


 そんな客観的な自己分析を下して、ため息をついた。なんだか、すごく虚しい気分だ。これもすべて、ろくに眠れていないからに違いない。


 仕方なく部屋を出て、着替えを持ってラウンジへ向かう。ゆっくり湯舟に浸かろうと思ったのだ。


 ちなみに、自室にも一応備え付けのシャワーはある。しかし、三点ユニットバスのため、あんまりお湯を張る気にはなれない。そのため、このアパートの住民は、お湯に浸かりたい時はラウンジの風呂を利用するのが常となっている。


 十五分ほどかけて湯舟にお湯を張り、肩までゆっくりと浸かる。疲労感がお湯に溶けだしていく感覚と共に、少しだけ頭がしゃっきりとしたように感じた。


 だけど、そうやって少しでも頭がマシな状態になると、すぐにアメリアのことを考えてしまう。


 この一週間、アメリアの方の態度は変わらない。『恋を教えて』と言ってきたことに関して、追加でなにを言ってくるわけでもない。文則の方はこんなにもドギマギとしていて、事あるごとにそのことばかり考えてしまっているというのに、だ。


 ここまで何も言われないと、アメリアが何か言葉を我慢しているのではないかとすら思う。一方で、この件に関して特に何も思っていないのかもしれないとも思う。どちらでもあるような気がして、そのことが文則の気持ちをなおさらモヤっとしたものにしていた。


「あー、もうっ」


 うだうだ考えていても埒が明かないのは承知の上で、思考はぐるぐると堂々巡りを繰り返している。そんな自分をどうにかしたくて、ばしゃっとお湯で顔を洗った。


 風呂から上がって時計を見ると、時間はまだ六時にもなっていなかった。冷蔵庫の中身を確認してみれば、ストックしていた煮物が切れていたので、今のうちに作っておくことにする。ついでに、自分とアメリアの分の朝食と弁当も用意してしまうことにした。


 作り置きしておく煮物は、大抵の場合、肉じゃがか筑前煮だ。どちらもかつおだしで作れるのが良い。一人暮らしを始めてから、文則は自炊にかかる手間の大きさと、かつおだしの偉大さを知った。それを知ることができただけでも、地元を離れたことの意味はあったのだと思っている。今ではすっかりかつおだしに心臓を捧げている、かつおだし信者だ。


 切った具材を鍋に入れて、水と酒、かつおだしで煮込んでいる間に、弁当の用意に取り掛かる。スマホで弁当のレシピを検索していると、全身から女物の香水の香りを放っている雄星がラウンジに入ってきた。


「お。やけに早いな、文則」


 左手で耳のピアスをいじりながら、雄星がそんなことを言ってくる。


「最近、色々あって、あんま眠れないんですよ」

「へえ。そりゃもしかして女絡みか?」

「……別に、んなこたないですけど」

「その割にゃ、アメリアちゃんと最近ぎくしゃくしてるみたいだけどな?」

「下半身が元気だと、やっぱそういうのにも敏感になるもんなんですかね」


 文則の皮肉を、雄星は肩を竦めて軽くかわす。その態度に、恋愛に対する余裕の差を感じさせられてしまった。


「告白でもされたか?」

「……告白なら、まだ、良かったんですけど」

「人の好奇心を煽るような言い方すんなよ。詮索したくなるだろ」

「からかいたくなる、の間違いでしょ。……そっちこそ、朝帰りですか?」

「おう。加奈ちゃんがなかなか帰してくれなくてな。だからこれからシャワー浴びて寝るとこ」


 あくび交じりに言いながら、雄星が風呂場へと消えていく。


 その背中を見送ったあと、文則は「はあ」とため息を漏らした。


「あと何十年かかったら、俺は雄星さんみたいな余裕を手に入れられるんだろうな」


 十年後の自分がああいう風に振る舞えている気がしない。いつまで経っても自分はガキのままなんじゃないだろうかとすら思う。


 そんなことを考えながら、豚バラで巻いて串で刺したベーコンを大きいサイズのフライパンに並べていく。その横の余ったスペースで、ほうれん草とコーンをバターで炒めているうちに、筑前煮の方もぐつぐつと煮えてきたので火を止める。


「おいっすぅ~! へぇーい、ぐっもーにんべいべー!」


 そう言ってハイテンションな絵麻が突入してきたのは、アスパラ巻きとほうれん草がちょうど仕上がったタイミングだった。


 この時間まで作業をしていたのだろう。手にはペンタブ用のペンを持っていて、作業しやすいように髪は頭のてっぺんで噴水みたいに結ばれている。服装はジャージで顔には眼鏡。普段、絵麻はコンタクトなのだ。


「できたね仕上がったねー。こいつは傑作だよ。自信作だよ。おっ、今夜の獲物発見だべぇ~」


 そう言いながらボクサーみたいに上体を揺らしながら近づいてきた絵麻が、フライパンの上にあるアスパラ巻きへと文則の脇から手を伸ばす。


「あ、こら! 今日の弁当のおかずを……ああ~」


 その魔の手から弁当を死守しようと両腕を開くが、奮闘虚しくアスパラ巻きが二つ、絵麻の口の中へと消えていく。


「うんっ、また腕を上げたねノリフミ君! 今宵のおかずは君に決めた!」

「勝手に決めないでください! これは俺とアメリアの……」

「堅いこと言いっこなしだよ! 世の中ギブ&テイク&テイク! 最後にもひとつテイクだよ!」

「ほとんど奪いっぱなしじゃないですか! ふざっけんじゃないですよ!?」

「しかし、本当にノリフミ君も料理が上達したよね~。これもアメりんのおかげかな? これならいつでも人妻になれちゃうね~」

「俺は男なんだから、人妻になんて逆立ちしたってなれないですから」

「いや~、じゅうぶん女っぽいよノリフミ君は。ばっちり女々しいとこあるもん。初々しいね。穴掘りしたいね」

「すんな! いや、ほんと、そういう趣味ないんで勘弁してください猛烈に」

「と、お話している間に~……隙あり!」

「させるか!」


 再びアスパラ巻きを奪おうと伸ばした絵麻の腕を文則が掴む。


 そのまま台所の前で、がっぷり四つに組み合っていると、雄星が風呂から上がってきた。どこか不機嫌そうな顔つきで、文則と絵麻に視線を向けてくる。


「あ、おはよー、雄星! 今帰ったところなの?」

「ああ、まあな。つーか絵麻、あんまここで暴れると、沙苗ちゃんがまた怒るぞ」


 そう言いながら雄星が絵麻の肩を掴んで文則から引き離す。絵麻はおとなしくそれに従っていた。


「まったく……ほんと、野生なんすから絵麻センパイは。勘弁してくださいよ」

「ま、そこは絵麻だから仕方ねえよ。そういう生き物なんだって」

「それで毎回苦労すんのは、毎回こっちなんすけどね。……ああ、絵麻センパイ。これならちょっとぐらい食ってもいいっすよ。まだ、味染み込む前ですけど」


 言いながら文則は、筑前煮を別のお椀によそって絵麻に差し出す。


「おお、肉だ! 野菜だ! 汁物だ!」


 そんなことを言いながら、絵麻がばくばくと箸で中身を口に運んだ。


 それをなんとなく眺めていると、そのことに気づいた絵麻は首を傾げながら、ごぼうを挟んだ箸をこちらに突き出してくる。


「なに、ノリフミ君も食べる?」

「あ、じゃあ……」


 突き出された箸に反応して反射的に口を開けると、割って入った雄星が横からごぼうを奪い取っていく。


「ああ、うん。確かにまだ味染みてねえな。けど悪くない」


 もぐもぐと口を動かしながら、そんなコメントを残した雄星は、「んじゃ、寝るから」と告げてラウンジから去っていった。


「あの人も、よく分からん人だな」


 その背中を見送ってから絵麻に視線を戻したところで、彼女の様子がおかしいことに気づく。顔が真っ赤で、目の焦点が合ってない。ぽわわ~、とした感じになってしまっている。


「絵麻センパイ? どうしたんすか」

「雄星と……」


 上ずった声で絵麻が呟く。


「雄星と……その、あれ、しちゃった……」

「あれ? っていうと?」

「ちゅぅ……」

「……?」

「間接チュー……」


 ぷしゅう、と今にも頭から湯気でも吹き出しそうな様子で、彼女はへなへなと椅子に腰を下ろす。


 その手つきが危うかったので、とっさに文則はお椀と箸を取り上げた。フリーになった両手で、顔を覆い隠す絵麻。あまりに初心な反応に、文則は目をぱちくりとさせる。


 それはまるで、恋する乙女のようですらあって……。


「え、絵麻センパイ……まさか……」

「……」

「雄星さんのこと、好――」

「うううううう~っ」


 言いかけた文則の言葉を遮るようにして、唸り声を上げる絵麻。自分の中に発生した感情と、戦っているようですらあった。


 その様子を見る限り、つまりはそういうこと・・・・・・らしかった。


 絵麻は、どうやら……幼馴染の雄星に対して好意を抱いているらしい。それも、恋愛的な意味で。


「マジすか……全然気づかなかった」


 一年間、同じアパートで暮らしていたにも関わらず、絵麻が雄星のことをそんな風に思っているなんて考えたこともなかった。


 仲の良い幼馴染同士、互いに兄妹的なものだとばかり思っていたからだ。


「雄星さんには、その……言ったんですか?」


 つい気になって、問いかけてしまう。


 絵麻は両手に顔を埋めたまま、ふりふりと首を横に振った。


「そうですか……」

「もう、十年ぐらいになるんだぁ。雄星のこと好きになってから」


 十年。一途といえばあまりにも一途すぎる、片想い。


「でもね。なかなか、言えないよね。きっと雄星はわたしのこと、妹ぐらいにしか思ってないしさ。間接チューなんかで舞い上がってるのも、わたしの方だけだと思うんだぁ……」

「それは……」

「きっと雄星はこういうの、わたしよりずっと慣れてるんだと思う。たくさん、色んな女の子と付き合ってるし。……毎回、タイプも全然違うし」


 はぁ、と絵麻がため息をついた。


「どうしたら、わたし、雄星好みの女の子になれるんだろうなぁ……」


 雄星が連れている女の子は、毎回タイプがそれぞれ違う。年上も、年下もいる。背が高い女性もいれば、小さい女の子もいる。スレンダー系の子もいれば、グラマーなタイプだっている。


 共通しているのは、それぞれタイプは違えど、みんな可愛い系か美人系の女性だということぐらいだ。その恋愛の仕方からは、好みの女性像が見えてこない。


「絵麻センパイだって……」


 十分可愛いですよ、と言おうとして、文則はやめた。


 絵麻がその言葉を言ってほしい相手は、自分ではないことに気づいたからだ。文則がどんなに絵麻を可愛いと言ったところで、それは雄星の言葉ではない。なんの慰めにもなりはしない。


 さっきまでは浮かれた様子で、でも今はしょんぼり落ち込んでしまっている絵麻を見ていると、ままならない気持ちになってくる自分がいた。


 才能、があって。


 描いた漫画も評価されて、メジャーな漫画誌での連載も始まって、プロ漫画家として誰もが羨むような華々しいデビューも飾って。


 それでも、欲しいものがすべて手に入るとは限らない。そんな当たり前のことに、この時初めて文則は気づいた。


「雄星さんが、絵麻センパイのことを好きかどうかとかは、俺、分かんないですけど」


 いつもは明るい絵麻がしょんぼりしているのを見ていられなくて、文則は少しでも彼女が元気になれそうな言葉を探した。


「でも、雄星さんに対しては、絵麻センパイはセンパイらしくしてればいいんじゃないかって思います」

「わたし、らしく?」

「はい。その、そうすればきっと……」


 それ以上先の言葉は、責任を持てる気がしなくて口にすることはできなかった。


 でも、そんな文則の言葉でも、少しぐらいは絵麻の気持ちも慰められてくれたらしい。彼女はちょっと微笑むと、「よしっ」と言ってパァンと両手で頬を張った。


「そうだねっ。うん、まあ凹んでいても仕方ないしな~。漫画描くぞー!」

「……は?」

「気づいちゃったんだよノリフミ君! 雄星がどんな女の子が好きかとか、そんなの関係ないぐらいにね、わたしがもっとすごくなって、雄星が無視できなくなるぐらいすごい漫画を描けるようになったらいいんだって!」


 どういう理屈でそうなったのだろう。文則の目が点になる。


「っていうかわたし、漫画描くしかできないしな~。うん、なんだか燃えてきた。漫画で雄星を落とすぞ~!」


 えいえいおー、と言いながら、途端に元気になった絵麻がラウンジを出ていく。部屋に戻って、これからまた作業だろうか? 相変わらず、物凄いバイタリティであった。


「……まあ、前向きになってたみたいだし、いいのか?」


 なんてことを思いながら時計を見上げると、もう七時を過ぎるところだった。


「やっべ、アメリア起こさないと」

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