6・To the Zero

 紀久君がボタンを押すと、カチッという音と共に、コビトカエルの背後から濃い煙が噴出しました。演劇で使われるような軽い煙とは違い、むせかえりそうな発煙弾の如き濃い煙です。


 「良い決断ダ、紀久君。そレでハマた、ドこかノ階で会オう!」


 コビトカエルは、煙に巻かれながら、最初に現れた時のような不思議な抑揚で別れを告げ、消えていきます。


 「ま、待って!」


 私は何とかコビトカエルを捉えようとしますが、なんせ煙が濃く、目と口を塞がずにはいられませんでした。煙を喉に詰まらせてむせていると、煙の中にうっすりと見えていた小さな影は、すっかりいなくなってしまいました。


 煙が段々と薄まり、恐る恐るまぶたを開けると、そこにコビトカエルの姿はありませんでした。


 しかし、一番驚くべきはそこではありません。


 私たちがいたはずの、そこそこ大きめのエレベーターホールは、そこにありませんでした。私たちは2畳ほどの窮屈な空間に立ち尽くし、目のまえには、もう見慣れた旧式のエレベーターが一機、佇んでいるだけです。


 「な、なんなんでしょう……。僕の選択は、正解だったのでしょうか?それとも……。それに、このエレベーターは?」


 紀久君は、まだ落ち着かない様子です。私も私で、先ほどから連続する不可解な現象に、驚き疲れていました。


 「と、とりあえず、エレベーターに乗ってみましょう。また別の階に行けば、何か分かるかも知れないし。」


 今ここで立ち止まっていても何も事は進まないでしょうから、とにかく目の前のエレベーターに乗ってみることを紀久君に勧めました。紀久君は「そうしましょう」と呟くと、ふたりでエレベーターに乗り込みました。


 エレベーターの真ん中には、ひとつ前に載ってきたエレベーターと同じように、立て看板がありました。そこには


 〈このエレベーターは0階までです〉


 と書かれています。今私たちがいるのが22階のはずですから、このエレベーターは下り専用ということになりそうです。せっかく1階から22階まで上がってきたのに、これでは振り出しどころかマイナスです。


 「ボタンも、ここより下の階のものしかないですね。しかも、そのうち押せるのは0階のボタンだけのようです。」


 紀久君は眼鏡を手でかけ直しながら、エレベーターのボタンをまじまじと見、そう言いました。確かに、そこにあるボタンは全て21階以下のものですし、0階以外のボタンは壁面との切れ目が無く、ボタンというよりも、壁にただボタンのような四角と数字が書かれているだけといった様子でした。


 「とりあえず、0階にいきましょう。それでいいですかね。屋上は遠ざかってしまいますが。」


 私が紀久君の問いかけに頷くと、彼は0階のボタンを押しました。ボタンが押されると、エレベーターは、鉄格子が閉まるキュルキュルという音と、どこか遠くでガコガコ歯車が鳴る音を響かせて、ゆっくりと下がっていきます。


 エレベーターの中では、私たちは言葉を交わしませんでした。それは驚きと不思議に疲れていたのかもしれませんし、先ほど、紀久君がした選択が、強く私たちの胸に響いているからかもしれません。


 しばらくしてからエレベーターが下降を止め、重力が頭から押し乗って来るのを全身で感じると、鉄格子が老体に鞭打って、キリキリと開きました。


 そして、私たちは0階に降り立ちました。


 そこは先ほどの22階のホールの半分ほどの空間――6,7畳といったところでしょうか――で、床には深い赤のカーペットが敷かれ、周りは鉄格子でぐるりと囲まれています。鉄格子の先は深く澱んだ闇が広がり、その先にどれほどの空間が続いているのかは、全く見えません。しかし、音があまり反響しないところをみると、少なくとも小さな空間ではなさそうです。


 私たちは、その異様な空間にたじろぎながらも、ゆっくりと0階に踏み出しました。足元を朧げに照らす明かりは、鉄格子の四隅に取り付けられている古風な灯油ランプのみで、目が慣れるのに少し時間がかかりそうです。


 「ここが0階……さっきと違って、他のエレベーターは無いようですね。」


 紀久君が、四方の鉄格子をぐるりと眺めて言いました。


 「そうね……今乗ってきたエレベーターは0階行き専用のようだし、ここからどこに行けばいいのかしら。」


 「そうですね……。とりあえず、鉄格子とか、今乗ってきたエレベーターとかを調べてみましょう。何か分かることがあるかも。」


 「そうしましょう。じゃあ、私は鉄格子を見てみるわ。」


 「分かりました。じゃあ、僕はエレベーターを。」


 私は、鉄格子を調べ始めました。調べると言っても明かりは格子の四隅にあるぼんやりとしたランプだけですから、なんとも視にくく、目が自然と細まってしまいます。端から端に、鉄格子をいっぽんいっぽん撫でたり、ゆすったりしてみます。


 そうして半分ほどの鉄格子を調べ終わり、ようやく折り返しだと思いながら次の格子に触れた時、カターンという甲高い音を立てて、その一本の格子が外れました。


 「おおっ、なんの音ですか!?大丈夫ですか?」


 突然のことにびっくりして固まった私のもとに、紀久君が走り寄ってきます。


 「これは……格子が外れたんですね。でも、これでとりあえずこの鉄格子から脱出できますね。エレベーターの方は特に何もありませんでしたし、出てみませんか?」


 一本の格子が外れたその跡には、体を横向きにすればなんとか私たちが通り抜けられるほどの隙間が空いていました。


 「そ、そうねここで立ち止まってはいられないから、そとに出てみましょう。」


 私と紀久君は、それぞれ鉄格子の四隅にあった灯油ランプを手に持って、格子の外の闇へと歩き出しました。

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