第5話 広川の過去

 そうして中国で5年の月日が過ぎた頃、ある日本への出張時にSKゴム株式会社の本社に訪問する時があり、思いもかけずに、広川は社長室に呼ばれることがあった。広川は、社長自ら何の用事なのかと、緊張しながらドアを開けると、ドアの前に朝田社長が立って出迎えてくれていた。社員数約5万人いうグループ会社のトップの社長がドアの前で態々立って待っているとは思っていなかった広川はびっくりして、のけぞりそうになるのを我慢した。


「し、失礼いたします。」


 緊張のあまり、言葉にならず詰まりながら挨拶をするのが精一杯だった。


「お疲れ様です。そちらに座ってください」


 広川は案内されるがまま、大きなソファの前に移動した。周りの豪華な花瓶や絵画が目の前に入った。


「そこにお座り下さい」


 社長は丁寧に手を添えるように案内した。広川は震える声を抑えて「はい。ありがとうございます」と答えて、ソファに座った。社長もそれを見るとゆっくりと腰を下ろした。


「単刀直入に話をしたいのだが」


 社長はゆっくりと話し始めた。話が進むにつれて、社長は興奮した様相で広川に詰めるように話しかけた。


「是非日本の本社で中国とのパイプラインになってほしい。君にならこの仕事をやり遂げられると信じている」


 広川はビックリして、少し理解するのに時間がかかった。そして、朝田社長が、にこっとして「どうかな」ともう一度聞いた。広川は、社長がそこまで期待されていると思うと嬉しくなり、直に元気よく答えた。


 「ありがとうございます。宜しくお願いします。」


 こうして、広川は中国での業務引継を終えると、日本に赴任した。まだ紅葉が綺麗な麗らかな季節だった。これから、日本の生活が始まる。あれだけ期待してくれているのだから、日本でも大丈夫だ。と広川は自分に言い聞かせた。広川には自負があった。中国での長い生活で培った人脈。そして何よりそこから生まれた信頼。また中国の厳しいビジネスで鍛えられた精神力と忍耐強さ。日本でもきっとこの経験を活かして活躍できる。あの頃は真剣にそう思っていた。


 広川は、日本に帰国してからの初出社日の事を少し思い出した。日本の本社では同じフロアの約100人位の社員が朝礼時に集合する。そこで、普段はその朝礼に参加しない朝田社長が態々その場に立ち会い、広川のことを紹介した。皆驚きの眼で見ていた。ただ広川には当時それがどういうことなのか分かっていなかった。社長自身が広川を紹介すると、皆拍手で迎えてくれた。広川も緊張しながらも挨拶をした。


「今日から中国企画室で働くことになりました。広川浩司です。日本の職場は初めてなので、慣れない点もありますが、頑張りますのでどうぞよろしくお願いします。」


 なんとか詰まらずに話し終えると、みんなが拍手をしてくれた。それを聞くと広川は、やっと周りが見え始めた。皆が社長に遠慮しながら、笑みを浮かべていた。これから、こんなところで働くのかと思うと緊張を感じた。ただあの時は、本当に何もかもが期待で胸が膨らんでいた。


 部署の先輩の及川雄太を始め、部署の人たちも丁寧に仕事を教えてくれるいい方ばかりだった。広川はそんな環境の中で、必死に仕事を覚えていった。時には、夜遅くまで仕事をすることもあり、中国にいた時を恋しく感じることもあった。それでも、今いる場所で精一杯頑張ろうと思い直し、日々踏ん張りながら努力を続けて行った。そして日本に赴任後の3年目には部署の係長に任命されて、同年代の中では一番早い出世コースを進んでいた。当時30歳だった。ここまでは順調に上手く進んでいた。あの事件が起こるまでは……。


 広川は、また目を開けてベッドから起き上がった。そしてパソコンを立ち上げて、東京行きの格安バスサイトを確認していった。そして一番安かった週末の金曜日の夜行バスを予約した。昔の事を思い出していたら、無性に東京にいる和史に会いたくなった。


 そしてスマホの電源を付けてLINEでメールをしてその週の土曜日に会えるかどうか連絡してみた。最初は突然どうしたという返事があったが、話をしているうちに、時間を空けておくと返事があった。


 広川は期待を膨らませて、またベッドに横たわった。スマホを見ると、グループのメッセージが一杯になっていた。その中には各パートで後輩たちが練習している動画が早速アップされて、それに対して同じシーンに所属している人たちが、意見を繰り広げられていた。


 広川はまた体を起こして、動画を見ながら目元をこすった。練習している姿が画面には、映し出されていた。練習しているその傍で子供の声がしていた。広川はそれを確認すると、和史にもう一度メッセージを送った。


「和史もグループLINEに入れば」


 暫く経っても、全く返事がなかった。広川は手にあるスマホを何度も触りながら、何時の間にか眠りについていた。

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