第2話 思い出の切れ端

「広川、お前はこんなこともできないのか!」


 朝から怒声がオフィスに響いた。広川は取締役の高川に厳しく怒られていた。


「何度、言えばわかるんだ。お前は。全く。やり直してこい!」


 高川にそう言われると、広川は無表情にただ「申し訳ございませんでした。やり直してきます」と拳を握りしめながら答えると、その場から離れて自分の席に向かって行った。途中、周りの社員たちがこそこそ話をしているのが聞こえた。


「また怒られてるぜ。広川さん。はは」


「まあ、あの人がいるおかげで、俺たちに怒りに向かないから、感謝しないとな」


「ホント、ホント。はは」


 広川は、下を向きながら、早歩きで自分の席に座ると、パソコンに資料の修正部分を強く打ちこみ始めた。同じ部署の先輩や同僚たちは、広川のことを特別気にすることもなしに、普段通り仕事を進めていた。


 そして定時になると、広川は席を立ち、「お先に失礼します」と挨拶をして会社のドアを開けて出て行った。




「はぁ。今日も終わったな」


 ため息をつきながら、最寄りの駅へ歩き始めた。途中でスマホを取り出して見ると、LINEで藤江からメッセージが入っていた。


 “昨日は久しぶりに会えてうれしかったです。もしよかったら今日夜電話してもいいですか?”


 文章の最後に笑顔の顔文字が付いていた。まめな性格は変わっていないようだった。広川は、スマホをポケットに入れた。


 駅に着いて、定期を改札の機械に当て中に入ると、空いている待合室のベンチに座った。そしてまたスマホを取り出し、“いいよ。僕も久しぶりに話したいと思っていたんだ”とLINEでメッセージを打ちこむと送信した。電車が入ってくるアナウンスが流れると、スマホをまたポケットに仕舞いこんだ。電車のドアが開くと、広川は近くの空席に座った。そして目を閉じると昨日のことを思い出していた。


 台湾駐在をしていた英一が亡くなったのは、2015年8月25日だった。先輩の榎本啓太の電話から電話があって、最初は突然すぎて信じられないといった思いがあり、なんとなく実感が湧かなかった。様々な手続きをして、日本の実家に遺骨が戻ってきたのは9月5日で、通夜はその翌日、葬式は7日にあったようだった。


 英一と関係していた人たちは、当時の中国研究会の人たちも含めて、直に東京に行って葬式に参加したようだった。しかし広川は行く気になれなかった。同級生で仲の良かった外山博からは、なんで来なかったんだよと電話で聞かれたが、仕事で忙しいと言って誤魔化した。実際は忙しくもなかった。ただ誰にも会わないようにと、日をずらしてわざわざ平日に行こうと思っていた。しかし昨日あの時間で藤江にばったり出くわした。


 藤江は、大学時代の中国研究会というクラブの2学年下の後輩で、英一の同級生でもあった。当時から、後輩ながら先輩たちに意見をずけずけと言う目立った存在だった。広川が大学3年生の時に、大学祭のクラブの出し物の一つとして行った中国語劇の運営委員長をしていた時に、劇員として参加し、一緒に苦楽を共にした仲でもあった。


 卒業後は、SNSを通じて連絡は取り合っていたが、実際に一回も会ったことがなく、昨日が卒業以来の再会だった。広川は、藤江との久しぶりの再会を嬉しくは思ったものの、何とも言えない気持ちだった。一言で言うと、正直会いたくなかったと後悔の思いが先だった。藤江の立派な姿に、目を見張り、自分のみすぼらしさを感じた。


「次は、尼崎です」と駅員のアナウンスで広川は目を開けて、鞄を手に持ち席を立った。




「どうもお久しぶりです。昨日はどうもありがとうございます」


 広川が部屋でゆっくりしていると藤江から電話があった。広川が電話をとると元気な声が聞こえてきた。


「こちらこそ、久しぶりだったな」


 当時のクラブでの出来事や英一の思い出話を話していると、長い間連絡を取っていないのが不思議なぐらい話が弾んだ。広川は久々に心が晴れる気持ちに浸り、いつの間にか1時間が過ぎようとしていた。


「ところで、昨日英一のお父さんが当時の中国語劇の話をしていた時に、とても懐かしそうにしていましたよ。そういえば広恵さんも英一がよく話をしていたって……」


 藤江はふと昨日の話をし始めた。


「それで、英一の生前の記念に良かったら当時の映像を見たいと言っていたのですけど、何かデータで残っていますか?」


「いや。あの当時のデータはないんだ。実はあの時撮影をしていた祐輔が間違えて、ビデオカメラのレンズキャップを付けたまま、撮影してしまっていて……」


 広川がそこまでいうと、藤江は笑い出した。


「それは仕方ないですね」


「まあそういうことだから悪いな」


「いえいえ、こちらこそ。もう遅いので、それではここらへんで。今日はありがとうございます」


 広川も「ああ、それじゃ。おやすみ」と返事をすると、電話を切った。


 それから2週間が経とうとしていた。藤江からまたLINEでメッセージが入っていた。


 “お疲れ様です。また夜電話します”


 なんの用事だろうと広川は思った。その日仕事が終わり、駅に向かう途中で電話がかかってきた。


「実は、同期の奈須から連絡があって、広川さんに久しぶりに会ったと言ったら、とても喜んでいて。是非会いたいとか言っていました。」


「ははは……。そっか」


 少し嫌な予感がした。


「それで今度、奈須が出張で大阪に行くから、また連絡が来ると思いますよ」


「と、突然だな。電話番号知ってるのかな?」


「あ、大丈夫ですよ。俺、広川さんの電話番号伝えてますから」


 広川は、ははっと笑いながら、ありがとうと伝えた。


 「それじゃあよろしくお願いしますね。失礼します」


藤江は、そういうと電話をきった。


 奈須が来るのか…。広川は帰り道、少し頭を悩ました。



「どうも久しぶりですね。広川さん。奈須です。」


 JR大阪駅の南口の柱の前で待っていると、奈須恵子が声をかけてきた。あれから2日後に、恵子から電話があり、一通りの昔話をした後に今度大阪に出張なので、直接会って話をしたいということだったので、お互い仕事終わりに会うことになった。


 二人は軽く挨拶をし合うと、恵子が予約していた店に向かって行った。途中話をしていると、学生時代のままの変わらない元気の良さを彼女から感じた。それと社会生活の中で洗練された気品や女性っぽさも感じた。店に入ると恵子は丁寧にてきぱきと料理の注文をしてくれた。料理の話や近況を話していると、途中で恵子が話を変えて言った。


「実は、来年の2月14日に中国研究会の同窓会があって、私も今その幹事として関係者に連絡しています」


「へぇ。そんなのがあるんだね」


「それで、実はその時に出し物として何か考えていて、中国語劇をしようと思っているんです」


「ふーん」と広川は、手元にあるビールジョッキを取り寄せて興味深く聞くふりをした。


「それで、その中国語劇の題材として、広川さんが作ったシナリオを使いたいと思っているんです。」


 広川は持っているビールジョッキから手を外した。


「え……僕のシナリオじゃなくても、他の世代の方が作ったシナリオとかでもいいんじゃないの?」


 広川がそう言うと、恵子は声を励まして言った。


「それも良いと思いますけど、先輩や後輩にも一度当時のシナリオを見せたら、皆いいねって言ってくれました。」


 ちょうど一週間前に同窓会の打合せがあり、恵子は当時の事を熱っぽく語ったらしく、先輩たちもそれに賛成したようだった。確かに恵子が話せば、殆どの人たちは説き伏せられるな、と広川は思い溜息交じりの笑いが込み上げた。


「あのシナリオは22世紀に住んでいる主人公たちがタイムマシンに乗って21世紀に行くところで終りますよね。それが、今わたしたちが生きている今だと思うと、本当に感慨深くて。そんな風に話をしたら、先輩たちもぜひその語劇を見てみたいっていうことになったんですよ。」


 広川は少し俯いて、「それは光栄だね」とぼそっと呟いた。


「当然ですよ。それに英一の事もあったし、この時だからこそあのシナリオをあのメンバーの人たちでやってみたいんです。それで広川さんにまた監督をしてほしくて話に来たんです。」


 恵子には運営委員長のことを「監督」という癖が学生の頃からあった。広川は恵子の話を聞き終わると、息を軽く吐いて腕組みをして言った。


「でも実際にやるにしても難しいんじゃないかな。劇なんて一緒に舞台に立たないと雰囲気もわからないからね。離れ離れになっていてどうやってやるんだい。英一の為という気持ちは僕もわかるけど……。」


 そして広川は残っているジョッキを飲み干すと、続けざまに言った。


「それに悪いけど、今の僕にはとてもみんなと一緒にやっていく自信はないよ。だからそのシナリオを使うのは構わないけど、僕はその役目は受けられないよ。」


 恵子は驚いた顔をして広川を見て悲しそうに言った。


「え……。そんなこと言わないで下さいよ」


「だから、僕には今そんな大役を受ける余裕も時間もないんだよ」


「でもあの時、広川さんが中国語劇をやろうと思わなかったら、みんなは集まらなかったと思うし、皆の心の中に残る思い出もなかったと思います。だから広川さんが一緒にやらないと意味がないと思います」


 くいさがる恵子を嘲笑うかのように広川は軽く笑った。


「奈須さん。そう言ってくれるのは嬉しいけど、それは言い過ぎだよ。僕は特別に演劇を勉強したわけでもないし、あの時は一生懸命に勉強したけどそれもたった半年ぐらいだよ。僕がいなくたって、あの時僕と一緒に運営スタッフをしていた智恵たちに頼んだらいいんじゃないか。実際に彼女たちが、細目に運営をしてくれたから、あの時も成功したわけだし。」


 お酒が入っていて興奮気味に話しをしている広川を、周囲のお客さんがちらちら見ているのが目に映った。恵子は、広川の一言一言に、悲しそうな顔を一瞬見せたが、食い下がるように、力のある声で言った。


「確かにみんながいてくれたから、あの感動も成功もあったと思いますけど、そして今も心に残っていると思います。でも、やっぱりそれは広川さんが……」


 恵子がそこまで言うと、浩司は話を打ち切る様にやや力を入れて言った。


「あの時と今では違うんだよ」


 その言葉のトーンの重さに、恵子もびっくりしたように顔を強張らせて、黙り込んだ。重苦しい時間の沈黙が流れた。広川はため息をついて、言葉を探すように言った。


「ごめん……でも今の僕はみんなと一緒にいるのがつらいし、とても胸を張って皆の前にでることなんてできないよ。詳しいことは言えないけど、その話はなかったことにしてくれないかな」


 そんな押し問答が何回か続いた。その度に、恵子が悲しそうな顔をした。広川は恵子の顔から目線をずらし、少し上を向いて目をつぶった。


 店員が広川たちに声をかけてきた。いつのまにか、閉店時間になっていたようだった。広川たちは店を出ていき、駅に向かった。途中少し話をしたが、あえて同窓会の話には触れなかった。そして別々の電車でお互い帰って行った。帰り際の恵子の足取りが少し寂しそうに見えた。


 広川は帰宅すると、当時の写真やあの頃毎日の活動内容を記していたノートを探し出し、開いてみた。久しぶりに見ながら、懐かしさと共にもう二度とあの時間と場所には戻れないという空虚な思いに満たされた。


 恵子が言ったように、中国語劇をしようと言う当時の広川がいなかったら、あの感動はなかった。それは、普段広川に厳しく接し、事あるたびに挫けそうになっていた時に、奮い立たせてくれた同級生の運営スタッフだった智恵たちが中国語劇の公演後に、広川へ語った言葉でもあった。


 広川が中国語劇をしたときはちょうど、新しい世紀を迎えた2001年だった。新しい世紀の初めに、何かを感じるのは人それぞれで、創部開始からそれまで続いていた中国語劇を続けるべきだと受け止める人もいれば、古いものは壊し、新しい事を始めるべきだと考える人もいた。その当時の研究会の広川の同級生たちは、後者として受け止める人が多かった。


 その中で広川は、一人運営することを決意した。一年生の頃に劇員として経験した感動が忘れられなかったからだった。そして紆余曲折はあったが、一人で寂しそうにしている広川に同情した同期の智恵や和史たちも参加してくれて、なんとかみんなで劇の内容の構想を練り始めた。そして後輩たちも交じって2か月と言う短い間だったが、一緒に時間を共にしていった。最終日には講堂一杯のお客さんが見に来てくれて、皆で感動を分かち合えた。大学生活の中でも、この思い出がとても印象に残っていて、一番懐かしい出来事でもあった。


 ただ、その懐かしい思い出が輝いているからこそ、今の広川には辛かった。広川は、思い出をまた箱に直すように、ノートを閉じてそのまま眠りについた。

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