馬鹿

 ユアンの反応が無いことに気づいたフィーネは、彼の方を振り返った。ユアンは笑ってはおらず、ただ何を考えているかよくわからない表情で、フィーネをじっと見ていた。


「……どうしてニコラス様があなたを手放さないと、断言できるのですか」


「彼は優しい人ですもの。一度自分が手に入れたものは、最後まで面倒をみるんです。猫だって、犬だって、使用人だって」


 フィーネは目を閉じて、ぼろぼろの衣服をまとった哀れな少女を想い浮かべた。


「人形だって、大切にして下さる方です」


 フィーネが目を開けると、ユアンは口を真一文字に結んでいた。視線は、彼女ではないどこか遠くの方を見ていた。きっと呆れて言葉も出ないのだろう。


 フィーネは別に何と思われようが構わなかった。

 言いたいことも言えたし、もう帰ろうとかと思っていると、ふいにユアンが沈黙を破った。


「あなたは、馬鹿ですね」


 一度目は何の感情も浮かべていないような、淡々とした口調。


「ええ、本当に馬鹿ですね」


 そして今度は、思いっきり呆れた感情を込めて。笑顔と共にプレゼントした。それはもう今日一番のすがすがしい笑顔だった。


 フィーネが目を見開いて固まっているのをよそに、ユアンは立ち上がって何でもないように言った。


「それでは、そろそろ帰りましょうか」


 フィーネはその眩い表情に、思わず自分の頬がひくりとひきつるのを感じた。


 ここまで面と向かって馬鹿だという言葉を浴びせられたのは、さすがに初めての体験だった。何か無性に大声をあげたい気分になったのもついでに初めてだった。


 そうした感情をフィーネに抱かせたのは、ユアンが初めてであった。


「フィーネ?」


「ひ、人に面と向かって馬鹿とおっしゃるなんて、あなたはどこまで無礼者なんですか」


「馬鹿にすればいいとおっしゃったのは、あなたの方ではありませんか」


 ユアンはけろりと答える。それにますますフィーネは声を震わせた。


「そっ、それは、そうですが、いえ、私がそう言ったのは、あなたが心の中でどう思おうが自由ですという意味で、直接悪口を言う許可ではありませんっ!」


 どもりながらも、必死にフィーネはユアンにそう言った。言ってやった。一言言ってやると、もう一言だけ言ってやろうという気になるから困ったものである。


「だいたい、以前から何なんですか。私に何か恨みでもあるんですか。暇なんですか。レティシア様のことを放っておいて、やることですか? いったいどう……」


 お考えですか、という言葉は最後まで言えなかった。ユアンが目を丸くして、口を薄く開いたまま、フィーネを見ていたからだ。呆気にとられた顔。その姿にフィーネも我にかえった。


 いくらなんでも、はしたなかった。これではユアンのことをとやかく言う資格はない。


「あの、これはですね、」

「くっ……」

「……」


「す、すみません。あなたもそうやって誰かに怒ることがあるんですね。初めてお会いした時からずっと張り付けたような笑みを浮かべているので、つい」


「あなたと話すことはもうこれっきりにします」


 腹を抑えているユアンを置き去りにして、フィーネは背を向けた。慌てて追いかけてくる気配を感じても、フィーネは待ってやらなかった。どうせすぐに追いつくのだから。


「すみません。笑い過ぎました」


 隣にきた彼は、目尻にたまった涙を拭いながら、フィーネに謝罪した。彼女はちらりとユアンに目を向けただけで、何も答えない。

 ユアンは気にせず、頬を緩めたまま話し続けた。


「それに、あなたの言葉を聞いて、勇気が出ました」

「……勇気?」


 馬鹿にしているのだろうかと、思わずフィーネは聞き返してしまった。

 怪訝そうに眉を顰める彼女に、はいとユアンは頷く。


「あなたがそこまでしてニコラス様のことを諦めないというなら、俺も諦めるわけにはいかないと思ったんです」


 レティシアとユアンは、婚約者だと噂されていた。はっきりと本人たちの口から聞かされたわけではない。でも、今の言葉を考えると、ユアンはレティシアをニコラスに奪われないよう頑張るのだとフィーネには聞こえた。


「……あなたとレティシア様は、婚約者なんですよね」


 確かめるようにフィーネは聞いた。

 ユアンは一瞬言葉に詰まったが、ゆっくりと頷いた。


「……ええ。そうは、見えないでしょうが」


 彼の言葉に、フィーネはそんなことはないと自嘲気味に笑った。


「でしたら、私も同じです」


 ニコラスとレティシアの方が、ずっとお似合いだからだ。


「フィーネ」


 立ち止まったユアンに、フィーネも足をとめる。


「……何でしょうか」


 まだ、何か言うつもりだろうか。勘弁してほしいと思いながら身構えるフィーネに、ユアンはどこか挑むような目で言った。


「俺は、あなたが諦めない限り、諦めるつもりはありません」


 そう言ってユアンは、世の令嬢がうっとりするような笑みで二人の会話を締めくくった。わざわざ自分に宣言することに疑問を持ちながらも、フィーネは深く尋ねなかった。


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