第一章 人狩り その四

 眩しさに耐えかねて紬が瞼を開けると、森の枝葉の切れ間を縫って朝日が無遠慮に入りこんでくる。

 手の中には首から下げた遅れ米の入った巾着袋があった。郷愁故、無意識のうちに握り締めていたのだろう。

 蓆の上で目が眩むうっとうしさに身をよじっていると、聞き慣れない声が耳をくすぐった。


「おはよう」


 飛び起きて声の主を見れば、朽ちた杉の古株に腰かけたヒスイが紬を眺めていた。


「すまんな。驚かせたかね?」


 随分と人懐っこい表情をしている。昨日人を狩った時のヒスイと、別人だと言われたら信じてしまいそうだった。


「すいません……家にいるつもりで、つい」

「随分眠りが深かったみたいさね」

「……みたいです」


 人の死を目の当たりにしたのに、紬の寝つきはよかった。あの時の光景が目に焼き付いてはいたが、旅の疲労の方が勝っていたのだ。

 いざ目が覚めて頭がすっきりしてくると、心中を不安が苛んでいく。

 人狩りとしてのヒスイに慈悲は微塵もなかった。仕事であれば、相手が誰であろうと容赦しない。

 例えば紬が理に背いたとしたら、あの銃口がなんの躊躇もなく紬を狙い澄ますのだろうか?

 けれど今眼前にいるヒスイは、虫すら殺せぬ男に見える。

 相容れない性質を両立させているのが少し不気味だった。


「起こすのは、悪いと思ったんだが、腹が減ってね」


 言われて紬は気付いた。甘く香ばしい香りが鼻先を撫でてくる。

 ヒスイは取っ手付きの小ぶりな鉄鍋を焚火で炙っており、中では林檎の輪切りが二枚、くつくつと茶色く煮詰まった砂糖汁に包まれていた。


「おいしそう……」

「近くで採ってきたんだが、そのままじゃ酸っぱくて食えたもんじゃなかったさね」

「だから砂糖で煮付けているんですか?」

「こう食べるなら、むしろ酸味が強い方がうまいさね」


 ヒスイは背嚢から木皿を一枚と箸を二膳取り出し、煮付けた林檎を皿に一枚乗せ、箸と一緒に紬へ渡した。


「私も、食べてよろしいんですか?」

「もちろんさね」

「……頂きます!」


 箸を入れると林檎はほろりと崩れて、甘い香りの湯気が細く立ち上ってくる。

 一口大にした林檎を頬張ると、まず甘味が舌を楽しませた。続いて新鮮な酸味、後味に微かな苦味が残り、ますます食欲をあおってくる。

 一口また一口と食べ進め、気付けば数分も立たない内に林檎を平らげてしまった。


「おいしかった!」

「それはよかった」


 食べ終えてから紬は、はたと気付いた。

 砂糖は安い調味料ではない。島国である大和は四方を海に囲まれており、塩は安価で手に入る。しかし砂糖の原料となる砂糖黍(サトウキビ)は、大樹の加護をもってしても大和の南の地方でしか栽培できず、不作年には塩の百倍の価格で取引されることも珍しくない。

 紬が村にいた頃、砂糖菓子や砂糖を使う料理を口にできたのは年に数度である。


 昨夜ヒスイが受け取った報酬は小さな黄金の粒を一つ。小銃の弾一発で男一人が三ヶ月飯を食えるというのだから収支はとんとんであろう。

 旅の身で持ち歩けるものに限りのあるヒスイにとって砂糖は貴重品のはず。

 惜しみなく砂糖を振舞ったのは、彼なりの気遣いなのだろう。精霊成りとして故郷を離れ、人狩りと旅をする少女への小さな慰みになるようにと。

 ヒスイに抱いていた恐れがなくなったわけではないが、空腹と共に幾ばくかは薄らいでいた。


「ありがとうございます。ヒスイ様」

「お粗末様」


 ヒスイが鉄鍋に乗っている甘露煮を口に運ぼうとすると、地面からくぐもった声が響いた。


『いい匂い。甘い匂い。好もしい』

「鼻が利く奴さね」


 苦笑を浮かべたヒスイが鉄鍋を地面に置くと、土が盛り上がり、小さな獣が顔を覗かせた。

 土竜もぐらである。


『甘露煮か甘露煮か。僥倖僥倖』


 ヒスイは箸で林檎を小さく切って土竜の口元に運んでやる。

 土竜は林檎を齧り、豆粒のような目をしょぼしょぼと瞬かせた。


『うんまい!』

「で、大将。何か用かい?」

『連絡が取れんと、秋雨(あきさめ)に頼まれたぞ』

「そうか。そういや、しとらんさね」


 どうやらヒスイと土竜は既知の間柄らしい。

 詳しく尋ねてもいいのか分からず、まごついているとヒスイの方から話題を切り出した。


「土竜は、人狩りや薬売りみたいに旅歩いている連中に連絡を取る手段でね」

『そちらのお嬢さんは、精霊成りか?』


 土竜は、紬を一瞥してからヒスイに向き直り、


『過酷な』


 心底から声を絞り出すように言った。

 巨狼も同じような言い方をしていたことを紬は思い出す。

 今のところヒスイの気遣いのおかげで苦労は感じていないが、旅はまだ始まったばかりだし、先行きは紬の想像以上に過酷なのかもしれない。

 だがどれほど過酷であろうと、歩き出した以上、止まることはできない。

 どの道、故郷の村に帰ることは叶わないのだから、この旅をやめる選択肢は最初から与えられていない。


「それで大将。秋雨は?」

『塔の上で待つと』

「秋雨め。相変わらず面倒な」


 悪態とは裏腹に、ヒスイは楽しげだ。


「お知り合いで?」

「腐れ縁さね」

『伝えたぞ、人狩り殿。甘露煮は?』

「持って行けよ」


 ヒスイの許しを得た途端、土竜は目にも止まらぬ手さばきで鉄鍋から林檎をさらい、土の中に引っ込んでしまった。


「相変わらずの手癖さね」


 ヒスイは鉄鍋に残った煮汁を指ですくい、舐め取った。


「食器を片づけたら行こう。近くに川があるんだが、手伝ってもらえるかね?」

「はい。もちろんです」


 二人で食器を片づけてから荷物をまとめると、ヒスイを先頭に朝日で青く照らされた森の獣道を進んだ。

 時に花の慈愛を見せ、時に鉛の冷徹さが覗く。矛盾を同居させたヒスイとの旅路は、霞で閉ざされたように先の見えないものであると紬に予感させた。

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