(四)青の門と珠珠の子

 鮮やかな青で塗られた背の高いこの門は、いつもエルメに『鳥居』を思い起こさせる。理天東鹿寺院りてんとうかじいんの正門と鳥居とが異なる点はいくつかあるが、最たるものは上部に縄でくくりつけられた無数の鹿の角だ。


 なぜか東鹿寺院の名を掲げる看板の類はないが、その角を見れば寺院とわかる。理天学院りてんがくいんの正門にも、左右の柱部分に鹿の角がやや乱雑に取り付けられているが、寺院と異なり頭上には何も飾りがない。上部に角が付いていればその敷地が神の領域、つまり寺院であることを表わすが、学院の柱の角は単なる魔除けなのだ、と昔聞いたことがある。


 エルメは門の手前で立ち止まり、寺院へ向けて手の平を晒すようにあごの前で両手を重ねた。


「エルメハヤが参堂さんどうつかまつる」


 そう告げてから、青塗りの門をくぐる。必ずしも名乗らなくてよい、と言われたこともあるが、なにぶん東世とうぜの信仰はエルメにとって不可思議で、勝手がわからない。そのため寺院内での振る舞いはユノンを始め、身近な人間のやり方を律儀にならうことにしていた。


「エルメハヤ」

 広い庭を突っ切ろうと足を速めていると、後ろの方から聞き覚えのある声に呼び止められる。

「エルメハヤ、元気だったかい。来てくれてありがとう」

「ガレアハヤ、待ってたのか。遅くなってごめん」

「いやいや、ムウムウ」


 エルメに向かって両腕を広げた痩身の男性は、東鹿寺院の神僧しんそう、ガレアである。

 神僧とは、神である知狎ちこうと直接まみえて伝達などを請け負う僧尽そうじんを指す。寺院での仕事は数多あれど、この役職だけは志願してなることが叶わず、知狎が自ら選ぶことになっている。


 神僧も他の僧尽同様「法師」の敬称で呼ばれるが、理天ではガレアを指して「白髭先生」と呼ぶ人が多い。彼が寺院に所属しながら、理天学院の非常駐教師をも兼ねているためである。


「もう少し待っててくれる? お迎えのついでにって、少し用事を頼まれた」

「もちろん。ぼくも一緒に行こう。すっかりお遣い役が板についたね」

「うん。でもいいんだ。秋学生しゅうがくせいとはいえ衣食住世話になりっぱなしだから。頼まれごとがあると、かえって安心する」

「そんなふうに思うことはないのに。エルメハヤの元気な姿を見られるだけでぼくたちはとても嬉しくなるんだから。サンハヤもユノンニエもそう言うと思うよ、きっとね」


 寺院内では、名前に出身や所縁ゆかりを表す敬称のような言葉を付けて呼ぶことがある。「エルメハヤ」は、別の言葉で言い換えれば「青の国のエルメ」となる。敷地に入る際の口上と同様、必ずそうしなければならないわけではないが、このように名を呼ぶことで、神に対して「嘘や隠し事はない」という意を表明するのだそうだ。


 現在、東世の人々には家を守るという考えがなく、そのため姓もない。

 本来「ハヤ」は敬称ではなく、青の国で使われる呪号じゅごうである。呪号とは、大きな魔法、あるいは複雑で繊細な魔法を使う際の掛け声のようなものだ。東世四つ国よつくにではそれぞれ好まれる呪号が異なるが、青の国の人々は「ハヤ」を使うことが多い。


 呪号を名前につけるのは、かつてユノンから「昔の人が名に姓をつけて整えるようなもの」と説明されたが、エルメは姓よりも敬称のようだ、と思う。名乗るときは確かに姓のようなのだが、「エルメハヤ」と呼ばれるとき、愛着や敬愛のような温かみを微かに感じるのである。

ガレアが相手の場合は、祖父や親しい親戚に対して「おじいさま」と呼ぶような感覚に近いだろうか。

そこまで堅苦しくなくとも、エルメは「ガレアハヤ」と呼ぶことで、少しばかり自分の抱く敬意や親しみが伝えられるような気がしていた。が、あくまでエルメがそのように思うというだけで、東世の人々が同じように感じているかはわからない。


「エルメハヤは……ああ、そういえば、もうすぐエルメ法師になっちゃうのか」

「まだちゃんと決まってないけど、そうかも。自分が法師だの大師だいしだの呼ばれるのは、なんだか変だな」

「すぐ慣れるよ……いや、最初の数年は、あまりそんなふうに呼ばれないかもしれないね。きみたちを小さな頃から知ってる人が多いから。ロッカハヤだって、ろくに法師と呼ばれないまま寺院でのお勤めを終えたそうだよ」

「おにいはいいんだ。ロッカ法師よりロッカ先生のほうが似合うもん」


 エルメとガレアは雑談をしながらゆったりと歩いたが、学院から預かった手紙や荷物を配り終えるのに、さほど時間はかからなかった。顔馴染みの僧尽が、いくつかまとめて預かってくれたのだ。エルメとガレアは彼女に礼を言い、貰った白湯を飲んでから、再び正門のほうへ歩き始める。


「少し風が強くなったかな。寄り道しないで早く学院へ帰らないとね。まだ寒いから」

 ガレアはそう言いながら杖を取り出すと、エルメの額の辺りにその先端をかざした。


移命運フーターニエ


 幸運、または不幸を願うまじないの呪文である。

 無害か否かは直感でわかるものの、ガレアが何を願ったのか、具体的なところは魔法をかけられたエルメ本人にもわからない。このまじないはシャートも好んで使うため、エルメが額に杖を当てられるのは学院を発つとき以来、本日二度目である。十六歳のエルメには少々過保護なように感じられたが、彼らにとっては、出掛けの挨拶のようなものなのかもしれない。


「さ、行こうか。一人で山を散歩するのってぼくには寂しいものでね。エルメハヤが来てくれて助かるよ」

「うん。ゆっくり行こう。みんなガレアハヤを待ってるんだ。わたしが無理させて、怪我なんかさせるわけにはいかない」

 ガレアは声を立てず、穏やかに笑う。二人の頭上では、青の門のそこかしこから垂れている縄が、湿気った風を受けて大きくたなびいていた。



  * * *



 第二月十日の朝、理天学院を訪れた二人の顔を見て、メルは馬の餌を放り投げながら叫んだ。


「ムウムウ!」


 メルの上げた歓喜の叫びに、メルより背の高い少年と、乳白色の長髪をなびかせた少女も同時に声をあげる。

「アヤアヤ、誰かと思った。背が伸びたね、メル」

「ムウムウ、メル! 元気そうだね」

 メルは嬉しくて、ついくるりくるりと身体を回転させながら二人のもとへ駆け寄った。身体を動かしたせいか興奮のせいか、顔や背中がいっきに熱を帯び、息が弾む。


「トキノもライヒも、学院まで来るのは久しぶりじゃないか?先生たち、今日は休みが多いんだけど、まだ中にいるからさ。きっと喜ぶよ」

 挨拶の言葉を何度も何度も繰り返しながら、三人は互いの頬を撫でた。


 乳白色の髪を腰まで伸ばした少女はライヒという。彼女は理天区の東側に隣接する紫錦しきん区に暮らしているが、十歳頃までは理天で家族とともに住まい、理天学院で学んでいた。彼女が兄のアサンとともに理天の親元を尋ねることはさほど珍しくないが、理天学院まで足を運ぶ回数は、兄ほど多くない。


 一方、濃炭色の髪をやや短めに切り揃えた長身の少年はトキノである。メルより二歳年上の彼も理天学院の出身であり、二年前の一月、十五歳になると同時に夏学程かがくていを修了し、勉学のため朱の国しゅのくにへ渡った。移動手段は数多あるものの、ライヒほど頻繁に理天を訪れることは難しく、メルが彼と顔を合わせるのはほとんど半年ぶりだった。


 メルが放り投げてしまった馬の餌を三人で拾い集め、馬小屋へ行く道すがらそれぞれの近況を報告し合う。ライヒは第四月に十五歳となるが、あと一年は紫錦の学院で夏学生かがくせいを続ける見込みであるという。


 二月生まれのメルは、先日ライヒより一足早く十五歳となったが、彼は昨年末、すでに夏学程を修了していた。

 夏学程は六、七歳頃から学び始め、十五歳頃に修める者が多い。しかしあくまで年齢は目安である。ライヒのように時間をかけて学びたければそれでよいし、逆に、教師の許可が得られれば駆け足で学ぶことも許された。


 また、夏学程を修了後、大学進学や就労の準備、あるいは年齢制限による待機など、何かしらの理由で引き続き学院の世話になる者は秋学生しゅうがくせいと呼ばれる。現在、理天学院に滞在する秋学生はエルメとメルの二人だけだった。


「ぼくたちさっき……、おはよう、久しぶり!」

 話の途中、トキノが突然両腕を広げて叫んだ。メルが彼の目線の先を見ると、少し遠くで教師用の制服を土まみれにしたロッカが両腕を広げていた。小さな子どもたちとともに薬草か何かを採集している最中のように見える。あるいは、草花を使って彼らに数を教えているのかもしれない。

 トキノとライヒは懐かしむような表情を浮かべてロッカを見つめたが、それ以上は声をかけず、彼らの様子を遠くから眺めるにとどめた。



  * * *



「二人とも、せっかく早起きして来たのに、ちょうどエルメと入れ違いじゃないの」

 笑いながらシャートにそう言われて、ライヒとトキノはぎょっとした。

 エルメは秋学生となって以来、勉強と称して研究士とともに青の国内外へ出かけることがあったからだ。そういうときは一日や二日では戻ってこないこともある。

「寺院にガレア先生を迎えに行っただけだよ。すぐ帰って来る」

 念を押すように、わざと大きな声でメルがそう言うと、二人は心底安堵したようにため息をついた。


 夏学生の勉強は四日刻みでおこなわれることが多い。三日学院へ通い、一日休む。すべての子どもがこの形をとっているわけではないが、風が強くて外へ出るのが億劫なのか、たまたま今日は休みの学生が多かった。ロッカが連れていたのも、メルが見た限りでは寮館を住まいとする子らである。


 学生がまばらな学舎は静かだが、医療館や養生館ようじょうかんには多少人がいるし、新生児や乳幼児を預かる冬児舎とうじしゃになる日は月に数日で、一年を通して学院が無人になることはほとんどない。


 しかしながら、シャートは今日は休みと決めていたようで、西世風の立ち襟の服に鮮やかな青色の着物を重ねた私服姿である。


 サンは私服と制服を半分ずつ合わせたような格好だった。彼は休みの日でも新生児たちの様子を見ずにはいられない性分で、外出時以外はこのようなどっちつかずの出で立ちになってしまう。


 ユノンはあまり休みを取らないのか、休みたいのかどうかさえ皆よくわからない。休むと言った日でも制服姿で学院内外をうろついているためである。しかし朝食の際に春学生らの世話を焼いていたことから、今日はまるっきり休日のつもりではないようだ。なにしろユノンは、休日と決めた日は本当に何もしないのである。


 学院に常駐する教師はロッカを含め四名のみであるが、この他にガレアのように、学院外から交代で通う非常駐教師が七、八人ほどいる。今日はシャートとサンに代わり、ロッカを中心として彼らが学院内の仕事を仕切ってくれている。


「こんなに賑やかになるとは思わなかったわね。外に出なくて良かったわ」

 食堂の長卓に座りながら、シャートは機嫌良さそうに微笑んだ。ふかふかと湯気の立つ淡紅色の煎花茶せんかちゃをシャートへ手渡しながら、ユノンもその向かいの長卓に腰かけた。二人とも長身のため、座高の低い椅子よりもこちらに座る方が楽なのである。


 大皿にごそっと茶菓子を盛って適当なところへ置き、サンもようやく椅子に座って一息ついた。

「帰ってきたら、ガレアもエルメもびっくりするだろうね」

「ぼく、ガレア先生に会うの久しぶり。ぼくのこと、ちゃんとわかるかな?」

「そりゃあ、わからないわけないじゃない。これだけ大きくなっても、トキノのお顔はずーっとトキノのままだもの」

 サンにそう言われて、トキノは頬を紅くしながらも、どこか嬉しそうに笑った。


「ライヒも来るのは久しぶりね。だけど無理することはありませんからね」

「ありがとう、シャート先生。でもあたし今ね、魔法に慣れる練習してるの。まだ悩んでることも多いけど……そう、今回はね、またエルメに話を聞いて欲しいなと思って来たんだ」


「なんでおれじゃなくてエルメなんだよ」


 メルがいかにも不服そうに顔をしかめたので、ライヒは思わず笑ってしまった。

「べつにメルやトキノに内緒の話をしたいわけじゃないったら。あとでみんなで話そう」


 その後もトキノが住む朱雀すざくの都の話や、ライヒの兄アサンの話などの話題が続いたが、ふとユノンが背後を仰ぎ見ると、いやに風が強いことに気づいた。早朝からずっと風はあったが、おそらくその比ではない。

 兄や両親のことを語るライヒの声に耳を傾けながら、ユノンはそっと立ち上がり、窓をまたいで外へ出た。


 耳孔じこうを風が掠める音はするものの、それ以外は妙に静かだった。子どもが少ないせいかもしれない。風は二月にしては冷たくないが、細かい雨が混じっており、呼吸をするのが不快なほどじっとりとしている。空は紺と黄が混じり合った色をしていて、分厚そうな雲は少し暗い。


『怖がらないで、ほら、雲をちゃんと見て』


『黒色になってる。こうなるともう、あとは早い』


 昔聞いた兄たちの声が、警鐘のようにユノンの脳裏に響いた。彼らはこうなると早い、と言ったが、確かにその通りだった。海のほうから奇妙に伸びてきた分厚い雲が、すすけがれるように黒色に染まり切ると、瞬く間に、それは人も大地も壊してしまう。


 人を殺す『悪霊』が、すぐそこまで迫っている。


「ロッカ! ロッカ、どこ! 『幽霊雲ゆうれいぐも』だ! みんなを早く中に入れて!」


 ユノンの叫び声を聞き、食堂にいた全員が押し黙った。

 ユノンは闇雲に走り出そうとしたが、ロッカの方が早く異変に気づいたらしい。食堂の方へ駆けてきたロッカは、髪も制服もすでに少し濡れていたが、学院内にいる子どもはすべて冬児舎へ押し込んできたという。

「医療館にも冬児館にも先生方がいらっしゃったので、任せてきました。シャート先生やライヒたちを呼びに行かないとと思って来たんですが、みんな揃っていてよかった」


 食堂の上は、チーズや乾物を作ったり保管するための倉庫のようになっており、外からも調理場からも上がることができる。ユノンとロッカはその場にいた全員を二階へ上がるよう促したが、メルはしきりに外を気にして、なかなか上がろうとしない。


「メル、窓に近づかないで。雨に呼ばれるから」

 ユノンに肩を掴まれても、メルは動かなかった。


「でも、エルメが」


 ロッカはぎくりと肩を震わせる。メルの声はとても小さかったが、なぜか大鐘を鳴らしたかのように大きく響いて聞こえた。


 ロッカももちろん、エルメが出かけていることは知っていた。だからずっと、頭の隅で妹分の顔を思い浮かべてはいたのだ。思うことはしたが、目の前の幼い子どもたちや、シャートや、ライヒやトキノのために、何度も何度もエルメを後回しにしてしまった。

 もしかするとまだ寺院を出たばかりで、引き返して寺院に避難したかもしれない、と自らに言い聞かせもした。それはあまりに都合が良すぎる考えで、単なる甘ったるい妄想にすぎないと承知の上で。


 あの嫌な風にも、雲にも、もっと早く気づくべきだった。あるいは最初にロッカが幽霊雲に気付いたとき、すぐに学院を出ていれば、エルメたちと合流し、なんとか難を逃れることができたかもしれない。

 しかし、もはや無惨な雨が降り始めてしまっている。おそらく、この雨が滝のように凶悪な勢いで降り注ぐのに、さほど時間はかからない。そうなれば前方の景色はおろか、自分の足元すら見えなくなるだろう。今からロッカが山道を走ったとして、無事にエルメたちと合流することはできないように思えた。


「メルもロッカも、ひとまず二階に上がろう。この雨は魂を惑わすからね」

 ユノンに背中を叩かれ、ロッカは「はい」と頷いてからメルの手を引いて階段へ促した。目線は外へ向けたままだったが、今度はメルもそれに従う。


 階段を上がる際、二階からトキノの歌声が聞こえた。トキノは昔から楽器や歌が好きな少年だった。それが高じて、現在は音楽や歌劇について学んでいる。これは祈りの歌だ。


 子どもの頃より低くなったトキノの声は、以前にも増して美しく優しい。目に見えずとも、慈愛を含んで豊かに色づいているとわかる。ロッカは無性に泣きたくなった。無力な自分が、ほとほといやになる。トキノにエルメを助けてくれと縋って喚きたい気もしたが、そんなことをしても意味がないことはわかっていた。


「『珠珠じゅじゅ』の幸運がガレアに届きますように。エルメを守りますように」

 サンはトキノの方へ両膝をつき、俯きながら両手を重ねている。身体を縮めてしゃがみこんでいるライヒも、顔を覆うようにしてやはり両手を重ねていた。少し震えているライヒの身体を、シャートはしっかりと両腕で支えている。ロッカとメルは下を向いたまま、やる瀬なく立ち尽くしていた。


 トキノへ泣き縋りたいような気持ちになったのと同時に、ロッカはなぜか、幼い頃に抱えていた嫌な気持ちも思い出していた。

 昔、ロッカはトキノをひどく妬んでいたことがある。トキノもロッカも、そしてロッカの妹も孤児だったが、神に導かれた優しい人たちが、トキノと妹の元へ迎えに現れた。神が采配したえにしによって養子となった子どもは珠珠じゅじゅという。珠珠は神の子、縁起の良い子だと大切にされる。


 待てど暮らせど迎えが来なかったロッカは、自分がトキノや妹よりも劣っている子どもなのだと思った。きっと大人になってもずっとトキノには『敵わない』ままなのだろう、と漠然と信じていたし、悔しさと不安を溜め込みすぎて、長い間トキノに話しかけることができなかったほどである。


 忘れていたはずの劣等感と失望は、突如として強烈に蘇り、みるみるうちにロッカの魂をむしばんだ。


 結局、ロッカは子どもの頃から何も変わっていない。

 相変わらず自慢できるようなところはひとつもないし、役立たずの上、妹分のエルメをむざむざと見殺しにするような、醜い魂の持ち主だ。どれほど努力したつもりになろうと、この先もずっと自分はそうなのだろう。


 ロッカがどんなに非力で惨めでも、せめて、自分を兄のように慕ってくれたエルメとメルの二人だけは、何があっても自分が救わねばならない、と、あれだけ思っていたはずなのに。

 エルメは今頃、濡れそぼった手足がてついて動けずにいるだろうか。前が見えずに道を踏み外し、どこかへ落ちてしまっただろうか。エルメがどこでどれだけ泣こうが喚こうが、ロッカはここで立ち尽くす以外に何もできない。


「それ以上はいけないよ。さあ落ち着いて。この際だから、ガレア先生のことはともかく、。助けようなんて思わなくていいって、前から言っているよね」


 ユノンの声は囁きのように小さかったが、明らかに叱咤の響きがあった。ロッカはおずおずと顔を上げる。


「トキノは珠珠の子だ。知狎に愛されている子、強運の持ち主、特別な子。きっとおまえたちもそう思っているね。もちろんぼくもそう」


 こんどはどこか少しとぼけたような、けれど明瞭な声音で、ユノンはロッカとメルにそう言う。そういえば子どもの頃に大切な話を切り出すとき、ユノンはこのような口調だった、とロッカは思い返す。


 トキノにもユノンの声は聞こえていたはずだが、トキノは祈りの歌を止めようとしない。彼もまた、歌いながら何かを考えているのかもしれない。


「だけど、ぼくは珠珠の強運がどんなものか、今まであまり感じたことがなかったし、正直ずっとよくわからなかった。それでも今、ガレア先生を助けに行くには、トキノにしかできないと思っていることがある」


 普段ロッカが使う作業台の上に目を向けたまま、ユノンはまるで独り言のように囁いた。やがて、壁に掛けられた肉切り包丁や小刀ナイフがずらりと並ぶ中から、二丁を選んで手に取り、それをロッカとメルへ向けて差し出す。


 しかし、ロッカにはユノンが何を考えているのかわからなかった。これで何をしろと言われているのか、まるで検討がつかない。

 包丁を握ったまま、ロッカはメルの方を振り返る。彼はこくこくと、小さく頷いていた。


 ユノンと目を合わせた瞬間、メルは自分が何をすべきかを理解したのである。





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