一章 エルメの冬

(一)慈慈果と提灯

「メルのばか。なんでバレエのこと、みんなに言ったの」


 理天りてんに来て以来、エルメが弟のメルを叩いたのはたった一度きりである。怒りにられて勝手に手が飛び出したような奇妙な感覚は、エルメにとっていまだに忘れがたい。ばちんと額のあたりを叩かれたメルは、ぽかんとした顔で姉を見つめたあと、声をあげて派手に泣いた。


 一方、実はエルメのほうも、おそろしく凶暴で醜悪な一面が自らの内側に潜んでいたことに驚き、狼狽していた。涙を流す弟の姿を見て、少なからず自責の念に駆られたものの、すぐにはごめん、と言わなかった気がする。様々な感情が嵐のように吹き荒れて、言葉を忘れたように声が出ない。弟の泣き声を聞きながら、罪悪感や怒り、情けなさが大きな荒波となってエルメの心を次々にさらってゆく。


 エルメはそのときの息苦しさも未だ忘れてはいない。


「そんなことあった?」

放牧されている山羊の群れを横目に、のんびりと歩きながらシャートが尋ねる。

「あったよ。ずっとメルのこと抱っこして泣きやませようとしてたのはシャート先生だったじゃないか」

「メルは泣き虫だったから、よく抱っこしてたわね。もう十年前くらい?」

口を尖らせるエルメを抱きしめるような仕草をして、シャートは暢気に微笑んでいる。足場が悪くなければ、本当にきつく抱きしめていたかもしれない。


 青の国の西部に位置する理天区は平地が少なく、大規模な都市の開発や稲作などの農業には不向きである。谷合いの繁華街でさえ人は多くなく、どこを向いても田舎らしい。しかし、古くから青の国の人々が居を構える土地として、この地は少なからず人気があった。例えば、理天は土壌の質が非常に優れている。そのため野菜作りを生業としている者は、なかなか他の土地へ離れたがらない。


 エルメの朋人ゆうじんにライヒという名の少女がいる。彼女の両親も野菜を作っているが、子をもうける以前は理天東部、紫錦しきん区との境界付近に住んでいたという。彼らの話では、西へ行くほど土が扱いやすくなるのだそうだ。


 残念なことに、どんなに土の質が良くとも、西へ行くほど山は高く険しくなり、人は住みにくくなる。そのため、大きな家を建てたり広大な畑を作ることは叶わなかったが、一家は畑仕事を楽しみ、その地で満足のいく生活を送っている、と言った。


 少なからず人がいるからには、生活の二本柱である『寺院』と『学院』もなくてはならない。田舎ではよくあることだが、理天区最西の学院である理天学院は、教育機関でありながらほとんど医院と産院の役割も兼ねていた。不思議なことに、理天の人々にとって大変重要な施設であるにも関わらず、理天学院はやたらと辺鄙へんぴな山の中に建っている。学院や寺院の類を造るには広大な土地が必要であるから、なんとか充分な面積を切り拓けそうな場所がそこ以外になかったのかもしれない。


 エルメとシャートの二人はその理天学院の敷地内に住まいがある。二人は諸用のためライヒの両親が住まう家を訪ねた帰路だった。


「メルを叩いたあと、わたしとメルはしばらく離されることになって、わたしは寮館を出てライヒの家で寝泊まりしてた。だからあそこの母さんたちは、わたしに会うたび大きくなったとか立派になったとか言うんだ、今でも」

エルメはそう言うと、少し俯いた。当時、歳の近いライヒと遊ぶのは楽しかったし、彼女の家では親切にされた思い出しかないが、どうしても愉快ではない記憶が抱き合わせで蘇るので、この話は少々疲れる。

 シャートは「あぁ、そういうこと」と朗らかに笑った。ライヒの両親がエルメに対してやけに気安く親しげなことが、彼女には少しばかり不思議だったのである。


「なんとなく思い出したけど。あなたがいなかったのって、ほんの一、二日じゃなかったかしら」

「そうだったかな。小さい頃のことだから、あまり覚えてなくて」

「すぐに仲直りしたのよ、きっと。だいたい、それ以上長い間あなたたちを離していたら、メルがあなたに甘えたくて泣いて暴れるでしょうから、わたしももっと覚えていると思うわ」

ふうん、と返事をしながら、エルメは隣を歩くシャートの横顔をそっと見上げる。


 シャートはもともと医師であったが、エルメとメルが理天に住まう以前から、すでに理天学院所属の教師としてその名を連ねていた。弟を叩いたときのエルメは七歳くらいだったろうか。ならば、その頃のシャートは二十六歳前後だった計算になる。当時からであった彼女が語る幼い弟の記憶は、エルメが感じていた弟の印象とは若干異なり、少し不思議な感じがした。


 不意に、シャートが訝しそうに空を見上げる。

「今日は日が短いわね。もう暗くなってきた」


 地形の問題上、理天学院の広大な敷地をぐるりと塀で囲ってしまうことは難しい。だから学院で学ぶ子どもらや土地勘のある者は、門でもなんでもないところから草木をかき分けて手っ取り早く学院内に侵入する。シャートとエルメも普段はその例外ではなかったが、今日は正門まで歩くことにした。明かりを灯すためである。


 エルメはシャートから荷物を預かりながら尋ねた。


「明かり点けるの、手伝おうか?」

「ゆっくりやるから大丈夫よ。エルメは先に調理場へ行っててちょうだい」

シャートがそういい終えるより先に、二人は背後を振り返る。そちらから幼い子どもたちの歌声が聞こえてきたのだ。耳をすますと、それはエルメもよく知っている理天の童歌であった。



朝から夜まで羊を見ているよ

羊を見る 空も見ている

みどり むらさき

だいだい しろ

南瓜を煮る匂いがする

今日はもうお休み

熊が出ないよう 鹿にお祈り

南瓜のスープ

南瓜の粥 最後は南瓜と鹿の煮付け

歌え 羊 歌え 羊飼い

歌え 山羊 歌え 山羊飼い

喜びの歌 歌え 二人が眠くなるまで

昼も夜も 踊れ

おいしい羊をあげよう きれいな山羊をあげよう

喜びの歌 食べて踊って歌え 寝ても歌え

おやすみ いい天気になりますように 鹿にお祈り

あか こん

あお こんじき



 呆れるほど暢気な歌詞だが、何百年も昔から伝わる伝統的な歌であるらしい。


 歌っているのは、寮館住まいの夏学生かがくせいたちだった。自宅から通うのではなく、学院の敷地内で生活している子どもらである。彼らは楽しげな様子で歌いながら、一人の背の高い男性を取り囲むようにして正門へ向かってきた。

「シャート先生!ライヒのおうちのロバまだいた?」

「エルメ、ムウムウして!」

突然歌うことを放り投げ、幼い子が二人こちらへ駆けてくる。他の子たちはまだ歌っているが、飛んだり跳ねたりしているせいで、先ほどまでなかなか美しく聞こえていた歌声は、もはやごちゃごちゃに乱れてしまった。


 シャートは地面に膝をつくと、両手で確かめるように彼らの頬を包む。

「ええ、ロバも元気そうだったわ。ノエ、お熱は下がった?」

「うん。お昼ごはん食べてからずっと遊んでたよ」

「ハックも?今日はゲロ吐かなかったか」

エルメに頬をぎゅうぎゅうと撫でられながら、子どもたちはうんうんと頷いた。


 エルメが片膝をついて彼らの頬を順番に撫でていると、上から大きな手が伸びてきた。

「エルメ、ムウムウ」

「ムウムウ、ユノン先生」

若干強めに頬を潰されたまま、エルメは自らもユノンへ向かって両手を伸ばした。彼はあまりに長身で、エルメがしゃがんだまま頬を包もうとしても指しか届かないが、必ず触れなければならないというわけではない。二人の挨拶はそれで完了となった。


「風邪の大流行は昨日でおしまいだったかも。今日はノエもハックも元気でしたよ。一緒に遊んでたらぼくのほうが疲れちゃいました」

「やあね。あなたわたしより若いんだから、あと十年はそんな情けないこと言わないでちょうだい」

少々きつめの口調でシャートにそうたしなめられたが、ユノンは笑った顔のまま「はーい」と、いかにも適当そうな声音で返事をした。


「暗くなってきたから明かりを付けようと思って来たの」

「シャート先生はお疲れでしょうから、ぼくと子どもたちでやりますよ。いいですよね、ぼくのほうが若いから」

「お願いね」

 シャートは指でユノンの鼻を強めに突いてから、すたすたと歩いていく。おそらく着替えのために自宅へ向かったのだろう。ユノンもシャートも教師のために用意されている敷地内の住宅を借りている。残されたエルメは野菜を置きに調理場へ向かおうとしたが、やめた。エルメは正門の明かりが灯るのを見るのが好きなのだ。


「ユノン先生、わたしもやる」

「ほんと?それは心強いね」

 ノエたちはエルメを中心に横並びになると、少し緊張の混じった、期待の眼差しでユノンの合図を待った。ユノンは首の後ろへ手を伸ばし、一本の骨のようなものを取り出す。骨のような、というよりほとんど骨と断言して差し支えないのだが、これこそが『魔法の杖』なのである。エルメが初めて杖を見たときは、なんとなく不気味に感じたが、自分も杖を取り出せる頃にはもう慣れてしまい、恐ろしいと思う気持ちはとっくに失せていた。


 ユノンは右手に杖を持つと、そこにいる全員の顔を見渡して、準備が整っていることを確認する。

「ニエ、ニエ」

ユノンの声と杖が上げられたのを合図に、全員で一斉に歌い始めた。



朝から夜まで羊を見ているよ

羊を見るふりをして空を見ている

みどり むらさき

だいだい しろ

南瓜を煮る匂いがする

今日はもうお休み ……



「南瓜を煮る匂い」という部分は、こだわりの強い子が勝手に違う料理に変えてしまうこともあるのだが、今日は元の歌詞のまま全員が声を揃えて歌いあげた。


 ユノンの指揮は実に大雑把である。ほとんど左手を左右に振って全員のを揃えるだけで、細かい指示をよこすことはまずない。


 指揮者にとって重要なのは、右手に持った杖の方だ。エルメは指揮に沿って歌いながら、ユノンの杖の動きにも注視する。魔法の杖が振られると、どこからともなく大きな提灯ランタンが現れ、エルメたちの頭上に浮かんだ。今日の提灯は様々な色をしている。歌に出てくる色の名に、ユノンが影響されているのだろう。提灯はエルメが両手でやっと抱えられるほどの大きさをしている。



喜びの歌 歌え 二人が眠くなるまで

昼も夜も 踊れ ……



 花火が打ち上げられたときのように、突然周囲が明るくなった。それまでただ浮いていた提灯に、一斉に明かりが灯されたのだ。大量の提灯は空高く上昇しながら、次第に巨大な葡萄の房ような形になった。真下にいると眩しいほどの光量だ。

 この明かりは学院内だけでなく、山道を行く旅人や、迷い人の足元も照らすのである。


 提灯がすべて上がったのを見届けて、歌うのをやめてしまう子も何人かいたが、エルメは最後まで歌った。


「ムウ!」

エルメが歌い終えるとユノンがそう言いながら両手を広げる。他の子たちはすでに別の遊びを思いついたのか、あちこちに駆け出していなくなっていた。

「またお土産に野菜をたくさんもらってきたんじゃない?」

ユノンはそう言いながら、首の後ろに手をやる仕草をして杖を仕舞う。エルメもそれに倣うように同じ仕草をして、大量の野菜が入った籠を出して見せた。

「わあ、たくさんだね。これ、今日は食べられないかなぁ。ねえ、今すぐ調理場に持って行ったら晩ごはんに間に合うと思う?」

ユノンとエルメはしばし顔を見合わせたが、すぐに籠を抱え並んで走り出した。


「おにい、もういる?」

エルメが走ってきた勢いのまま調理場の窓から身を乗り出すと、椅子に腰かけながら針仕事をしていた男性が振り向いた。

「エルメ、おかえり。良かったなぁ、真っ暗になる前に帰ってこれて」


 現在、理天学院の調理場の主は、近隣の住人たちから「若先生」と呼ばれるこのロッカである。

 エルメと四歳しか変わらないロッカは、数年前まで理天学院で暮らす夏学生だった。彼は夏学程を修了すると、すぐに調理の魔法を学ぶため紫錦区に居を移したが、近年再び教師として理天学院へ戻ってきたのである。そのため理天学院には、エルメのように古くから彼を知る者が数多い。

「ロッカ、これエルメが持ってきてくれた」

エルメの後ろから窓を覗き込んだユノンは、籠いっぱいの野菜を持ち上げてロッカに見せた。ロッカは歯を見せてニッと笑う。

「そうじゃないかと思って待ってましたよ」


 窓越しに野菜を受け取り、調理台の上に一つ一つそれらを並べていくロッカは実に手際良い。籠の中に何が入っているのか、まるで開ける前からわかっていたかのようだ。季節のものだからおおよその見当はつくにしても、それらで何を作るかまであらかじめ決めていたらしい。

 先ほどまで繕っていた上着のようなものを棚の上へ放り上げると、足元の桶を器用に足で引き寄せて、ロッカは早速葉物を洗い始めた。

 エルメとユノンはロッカが次々に野菜を捌いていく姿を、窓枠に頬杖をつきながらほう、と眺める。彼の魔法を混じえた働きぶりは、見ていて大変に心地良いのである。


「エルメ、おまえが留守の間にハイデが来たぞ」

 ロッカは動きを止めないまま話を続けた。


「おまえが留守だったから明日また来るって言って、慈慈果じじかだけ置いていった」

「あぁ、そうそう。それはぼくがハイデから預かって部屋に置いてある」

 ユノンは思い出したように服の袖や腹の両脇をさすったが、どうやらそこにはなかったらしい。

 ハイデはロッカと同じ年の女性で、彼女もかつて理天学院で学んでいた。現在は学院からそう遠くない理天東鹿寺院りてんとうかじいんに勤めている。ハイデが用事を携えて学院と寺院を行き来するのは、さほど珍しい事ではない。


「きっとエルメにとっては大事なものだと思って部屋に置いてきたんだった。エルメ、今から取りに行こうか」

 まるでとっておきの内緒話をするように、ユノンは悪戯っぽくエルメの目を覗き込んだ。



  * * *



 慈慈果じじかとは、無花果いちじく柘榴ざくろなどの柔らかい果物に魔法をかけたものをいう。


 手頃な果物に包丁などで十字の切れ目を入れ、自らの声を吹き込む。その後宛名を書いた紙で果物を縛れば、それは慈慈果となり、任意の相手に伝言や祝い、労いの言葉などを聞かせることができるのだ。


 ユノンから受け取った慈慈果は蜜柑みかんを使ったもので、そこには確かにエルメの名が記してあった。紙を解いて手の上に乗せると、慈慈果はまるで人の口のように縦横に開いたり、口を突き出してすぼめるような動きをする。しばらくパクパクと動いてから、慈慈果はエルメに向かって流暢に語り始めた。


「よう、エルメ。しばらく会ってねえな。元気か」


 エルメは驚きのあまり蜜柑を手から落としそうになったが、ユノンがとっさに手を添えたおかげで、蜜柑を無残に潰してしまわずに済んだ。エルメの予想に反し、それはハイデの声ではなかった。慈慈果はゆったりと話を続ける。


 「向こうで欲しいものがあるんだが、誰も手に入れる方法がわからねえ。おれが探すよりおまえを頼ったほうが間違いねえだろうから、任せたい。急ぎじゃねえが、おまえらを向こうに連れていく口実になりそうだから、寺院のやつらには適当に色々言っておいた。

 もし小うるせえことを言われたら、ジュゼに聞けと言ってビビらせとけ」


 そこで慈慈果は、ふっふと小さく笑った。

「あっちに行ったらあのバカみてえな本の続きを読んでくれよ。それとこの蜜柑、腐らせるんじゃねえぞ。わざわざ朱の国の市場で買ったんだ。うまいぜ」


 慈慈果はまた少し、クスクスとひそかに笑い「またな」と囁くと、それきり動かなくなった。

 少し掠れた低い声は、久しぶりに聞いたが間違いなくジュゼのものだ。エルメは顔が火照るのを感じていた。


 天上武王てんじょうぶおうジュゼは、この地で最も有名な魔法使いの一人である。ことに青の国では、多くの人々が『青の国の誇り』と言ってはばからない。

 当初エルメは、天上武王という称号こそ知らなかった。が、初めて会ったその日からジュゼに激しく憧れたのである。憧憬に胸を焦がすのは、エルメにとって生まれて初めての経験だった。その晩は興奮したせいか、とても食事が喉を通らず、誰からもたいそう驚かれた。

 想いを吐露することは苦手な性質たちであるから、そうと口に出すことはなかったが、誰がどう見てもエルメはジュゼに恋をしていた。


 エルメがまだ十三歳のとき、一度だけ、覚えたてのでジュゼに思慕の念を伝えたことがある。教わったはいいが、エルメにはそれがあまりにも遠回しな言い方のように感じた。おかげで気恥ずかしさは和らいだものの、それでも一世一代の告白であることに変わりない。

 ジュゼは顔の中央に走る傷痕に指を当て、眉間にしわが寄るほどまじまじとエルメを見つめたが、やがて重々しく口を開いた。


「四年……いや、あと三年経ったら、今の言葉はいくらでも受けとってやる」


 それから約三年の時が経ち、現在に至る。年が明けた冬の終わり頃、エルメは十六歳、ジュゼは二十四歳になっていた。

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