第4話 少年の弱さ


 カートは激しく咳き込んで、目を覚ます。


 小屋の屋根に当たる雨の音は未だやまず、雨どいを伝った水がリズミカルな音を部屋に響かせている。


 日の出は迎えておらず、枕元のランプは一番小さな火に調節されている。隣にダグラスの姿はなく、身体を起こそうとしたが重くて動かない。頭痛がし、思考はもやがかかったようにぼんやりと、そしてかすかに息苦しい。



「けほっけほっ」


 大きく息を吸おうとすると咳が出る。涙目になるほどしばし激しく咳き込んでシーツをぎゅっと掴んで息苦しさにしばし耐える。


「はぁ、はぁ」


――なんだろう、呼吸が辛い……。


 動けずにいると、扉が開き男が入って来て枕元に座る。それをぼんやりと眺める事しかカートはできない。


 手に持っていた洗面器には水が張られ、中にはタオルが一枚入っていて、ダグラスは手慣れた様子でぎゅっと絞ると少年の額に置いた。

 濡れタオルは冷たくて気持ちがよく、カートは自分が発熱している事に気が付く。


「肺炎だな」


 ぽそりと男は呟いて、続けて溜息をつく。


「ヴィットリオもお前ぐらいの年頃は体が弱くて、よく熱を出していたが、ここまでひどくはなかったのにな」

「あなたは、けほっけほっ」


 喋ろうとすると咳が止まらなくなり、肩で激しく息をするカートの胸元を男は心配そうにさする。


「親友の事は何でも知ってる」


 それだけを言うと、少年の額のあっという間にぬるくなったタオルを再度、水に浸す。

 雨の音に混じる水の音に、カートはうつらうつらとする。


――この人は医師だったはず……。


 まさか、身体の弱かった親友のために医師を志したのであろうかと思い至るが、それなら何故暗殺団なんかにいたのだろうと。熱に浮かされる思考ではそれ以上の事は考えられない。


「残念ながら俺の治癒魔法では、外傷ならともかく体内の炎症は癒せない。夜が明けたら、宮廷魔導士の屋敷に使いを出す。迎えに来てもらえ」

「もう、帰れ、ないか、ら」


 涙がぶわっと瞳に溜まる事を、もう抑え込む事は出来なかった。


「出て行けって、言われ、た、から」


 この男にそんな事を言えばどうなるか、想像できないわけではなかったが、どうしてもピアの元に帰り難く。再び拒絶されたらと思うと怖くて仕方がないのだ。後先考えずに飛び出した事も、叱られるかもしれない。


 ダグラスは絞ったタオルで少年の頬に零れ落ちた涙と、続けて汗ばんだ首筋を拭きながら溜息を再びついた。


「出て行けなんて台詞は、売り言葉に買い言葉ってやつだ。語彙が尽きて言っただけで、本当に出て行くとは欠片も思っていないさ。今頃慌ててお前を探しているだろうな。やれやれ、いい隠れ家が見つかったと思ったのに、こっちはまた探しなおしだ」


 あまりしゃべれない状態のカートに無理をさせないためか、カートの疑問を判断し、自発的にダグラスは言葉を継ぐ。


烏羽根からすばねの旅団を抜けたんだ俺は。一度死んだ身だし、せっかく取り返した命をまた金で繋がれるのはたまったものじゃない。安心しろ、お前達の考えるような悪さはもうしない。約束しよう」


 王都のような人混みに紛れるのが姿を隠すには最適だったし、ヴィットリオの眠る地を離れがたくあったから。


 その言葉は飲み込む。


 己の心を知り、改めて自分が道を誤った事実を突き付けられては、もはや生きる事も辛い。


 カートが予想した通り、ダグラスが医師を志したのは体の弱い親友のためだった。しかし親友の傍にいると形容しがたい気持ちに苦しむようになり、逃げ出したい衝動に負けて国を飛び出して、せっかく学んだ知識も技術も暗殺団での地位を高める事に使ってしまった。


 ……親友のためには、一度も使えなかった。


 今は後悔し、再び逃げ出したい。

 だが行先のアテもなく、死出の旅も躊躇して細々と生きている。そんな生は随分と疲れるものだった。これが己に課された罰なのかもしれない。


 苦し気に喘ぐ少年の姿が、かつての自分の大罪の一つを思い起こさせ、ダグラスの胸を罪悪感で締め付ける。



「カート君」


 名前を呼ばれて、カートは閉じかけた目を再び開き、ダグラスを見る。


「ここで俺と会った事を、秘密にできるだろうか。生きている事を組織に知られたくない。騎士団にバレると他にも漏れるからな」


――騎士団に、間諜スパイがいる……?


 団長に、報告しなければ。


 理性はそう言っているのに、心は彼を庇わなければならないような、そんな気持ちになってしまい、頷く事も首を横に振る事もできずにいる。


 だがかつて同じ事をピアも望んだ事があり、カートはその時には正確な報告をヘイグにしなかった。嘘をつくのは苦手だが、黙っているという事はできそうで。


「まあいいさ、どのみちここは引き払う」


 男は立ち上がるとぬるくなった洗面器の水を交換しに、部屋を出る。それを見送っていたカートだったが、瞼が重くなり、ダグラスが再び戻って来る時には寝息を立て始めていていた。


「眠ったか?」


 額に手をやり、汗で貼りつく前髪を軽く横にはらって冷たいタオルを再び乗せると、少年の瞼は再びかすかに上がる。何かを見てるという様子ではないまま、唇が動く。


「……おとうさん……?」


 か細い声でダグラスにそう呼びかけ、再び目を閉じて苦し気な寝息を継いだ。




◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆




「目が覚めたか」


 カートはぼんやりと目に映る光景を見る。見慣れた天井、聞き慣れた声。天井を隠すように青年がカートを真上から覗き込んだ。


 暖かな金色の瞳とボサボサの黒髪。


 数度のまばたきをしても、夢うつつ。何処から現実で、何処からが夢だったのかがわからない。


――あの男は死んだはず。


 自分はきっと教会の長椅子に横たわって眠り、夢を見たのだと思う事にした。


「……」


 何をどう言えばいいのかわからないせいか、唇は開いたが言葉は何も出てこない。


――ピアさん……。


「カート、具合はどうだ」

「……」


 青い瞳は金色の瞳を無感情にぼんやりと見つめるだけで、少年は何も言わない。額に手をあてて熱を確認すると、今も微熱が続いていた。


 カートが飛び出した日の翌朝、屋敷の玄関に教会の名前の書いたメモだけが挟み込まれており、もしやと思って行ってみれば。


 壊れかけた建物の中で彼を見つけたが、肺炎を起こしていたカートは家に連れ帰ってからそのまま丸一日眠っていた。状態が悪くて治癒魔法だけでは完治せず、まだ炎症が残っている。


 冷たい雨に打たれた事が原因なのは明らかで、濡れたままそこで眠っていたとしたら低体温で死んでいてもおかしくなかったのだが、カートは毛布にくるまって教会の長椅子に大人しく横たわっていた。


 着ていたシャツは、家の物ではなく少年の物でもない大人の男物。一度は誰かに保護されたのかもしれない。名乗り出てくれればそれ相応の礼をしたいところではあるが。


「カート」


 何度も名前を呼び掛けてみるが、少年はピアの顔を見返すだけで返事をしない。何か言いたそうにはしているのに。


「カートの目が覚めたの!?」


 ノックもせずに部屋に入って来たフィーネが、水差しを持ったままベッドの傍に駆け寄って来た。


「まだ起きたばかりで、ぼんやりしてるみたいだ」

「カート、大丈夫?」

「……」

「カートどうしちゃったの?」


――フィーネ……。


 唇は動いたが、声が出なかった。


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