第9章 西行 4

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 シャリムの冬は夏と同じくらい厳しいが、旅を急ぐ者には少しばかり恩恵もある。


 ひとつには気温が低く湿度も高くないので食料が腐りにくく、野宿の時に、夜、寝込みを蚊や蝿にたかられる事がない。それだけでも、旅路を急ぐ者に無用な病気などで足止めを食らわせる心配が減る。


 もうひとつ挙げるなら、生命の存在を感じさせない静けさであろう。雪山には豹や狐などが棲むが、鳥や虫に至るまで、まるで時を止めたかのように気配を消すのである。つまりは、旅人の道行きを阻むものは、刺すような寒気と険しい山々だけになるという事である。また、夏には雨がほとんど降らないが、冬であれば雪として降水するので、干からびてしまうという事も少ない。


 ホシュウル山中の山小屋より発って7日、ファルシールらメギイトへ向かう一行は人目を避けて、岩と雪だらけの山地を眼下の平野に沿って西へと進んでいた。


 途中、いくつか遊牧民の集落に行き当たる事があって、そこで馬と食糧を交換したりした。大麦粉にチーズ、干し肉、塩や胡椒、そして野菜。こと、冬の季節に手に入りにくい野菜には特段、高値が付く。旅の中ではどうしても偏った食事になるが、長く旅をするにあたって、栄養を欠いて倒れる事は避けなければならない。


 連れていた馬は最初、500頭ほど居たが、怪我や病で倒れたり、体力を使い果たして落伍したり、山野に自生するひょうや狼などの肉食の獣に襲われて喰われたり、交換したりして、半数を切る数にまで減っていた。


 もともと冬の野山に十分な草が無いことと、ファルシールたちが羊飼いではないことも相まったので、ごく当然の経過である。


 加えて、休憩のために止まるわけにもいかなかった事も大きい。一刻も早くメギイトへと向かわねばならない。


 とは言え、今のところ概ね順調な道行きである。


 そうして8日目の昼前、バフテガーン湖という広大な湖の畔に沿って西へと続く山地が途切れて、ついに視界に平野しかなくなった頃、ファルシールら一行はシーラーズの都市まちへと至った。


 シーラーズは城壁に囲まれた地方都市である。町の外には農地が広がってして、春先にはバフテガーン湖から曳いた水路で灌漑をして一面が青い小麦畑になる。


 また、隊商カールワーンが立ち寄る隊商宿カールワーンサラーも町の中心にあって、交易の中継地として栄えていた。


「どうやら、諸侯らの謀叛が成功したことはすでに広まっているようですな」


 町の城門を馬に乗ってくぐりながら、後続のファルシールたちに言ったのは、イグナティオである。門兵をする兵士が不安そうにボヤいていたのが聞こえてきたのだ。


「そのようだ。だが余がまだ生きている事は知られていないのか?」


 ファルシールは周りを行き交う人々の声に耳を傾けつつ訊いた。


「あれだけ派手に立ち回ったんだし、ミナオの高官にも顔バレしてるし、さすがに知られてるんじゃない?」


 与一が馬の上でヨロヨロとしながら答えた。乗馬には慣れてきたとは言え、体幹の力が弱い帰宅部とって長時間の乗馬は、さすがに辛いものがあった。


「というより皇統が絶えたことにしておかないと、諸侯らには不都合も多ございましょう。皇族とは、生きているだけで大義となり得ますからね」


 イグナティオが補足した。


「追っ手はやはり迫っているか」


 イグナティオは皇子の言葉に心の中で「そうだろうともな」と言っておいた。


 事実、皇都アキシュバルからアルサケスの手配で2000弱の追撃部隊が各地に散っているが、ファルシールら4人には推測するしかない。


 行商人や市民が行き来する往来をゆっくりと人混みを掻き分けて進みながら、皇子は案内人のイグナティオに今後の方針を問うた。


「これからは?」


隊商宿カールワーンサラーへ向かいます。そこでメギイトまで行く隊商に同道させて貰えるよう手はずを調えます」


「わかった」


「さしあたっては、まず旅支度を整えねばなりません。何せ私たちは着の身着のまま飛び出してきた家出息子と等しいですからな」


 つまるところ、メギイトまでの残り3200ジグアリフ(キロメートル)を往くためには、旅装が不十分であった。イグナティオは馬革の簡素な上着を重ね着しただけであるし、ファルシールや与一に限っては、オトコオンナこと娼館の主セグバントの荷馬車にあった拾い物の衣服を着込んでいるだけで、とても冬の長旅に耐える得るものではない。3人の後ろを続く騎士ケイヴァーンも、過酷な旅の前に青毛の愛馬アヒヤを野山に放って自由にする考えでいた。


 そういうわけで、イグナティオは早速、準備に取りかかった。


「追っ手のこともあります。あまり長居は出来ないでしょうから、こうしましょう。アルメスとシャイードで旅装の用意を、私と与一で隊商と話をつけにいきましょう」


 本当は一人で交渉したかったが、単独で行動して騎士に疑われるのは面倒なので、ぎょしやすそうなお目付け役として与一を選んでおいたのだった。


「師匠、宜しく頼む。与一も」


 皇子は与一と同じく長旅で少し疲れている様子であったが、急ぐ道行きのためにすぐさま了承した。


「わかりました」


「おうよ」


 師匠と呼ばれたイグナティオは皇子の即答を意外に思ったが、拒まれても押し通すつもりでいたので素直に応えておいた。一方、与一は急な指名に訳が分からずにいたが、その場の流れで何となく返事を返した。


 4人は市場バザールの手前で二手に分かれた。


 イグナティオと与一は昼下がりの閑散として妙な静けさがある市場バザールの横をすり抜けて、市中の一角にある隊商宿へと向かった。


 隊商宿は概ね東西に四角い建物である。焼きレンガ造りの2階建てで、大抵、大通りに沿って建てられている。四方を回廊で囲まれた中庭が中央にあり、隊商のラクダの厩舎や荷物の倉庫を貸している宿である。1階の回廊は隊商や地元の行商人などが取引をする場所で、在りし日のシャリムでは、商魂たくましい行商人と各地の隊商商人とが利益のために凌ぎを削っていた。


 ところが、この日は違った。


「あれ? 人が全然いない?」


 与一は隊商宿の入り口を通って中庭に出た時、ラクダどころか全く人が居ないことに声を漏らした。


「やはりか」


「……?」


 イグナティオは後ろでキョトンとしていた与一の様子を振り返るでもなく察して言う。


「それはそうでしょう。商人が通行の安全を保証されない内乱中の国に長居しようなどと考える道理はありません。それに、冬になって殆どの隊商や商人は早々にシーラーズを去ったのでしょう」


「じゃあ隊商を掴まえて載せてってもらうっていう案は……」


「諦める必要はないですよ」


 不安そうな与一を遮って、イグナティオは回廊の一角を指差した。


「あそこに荷が積んで置いてあるでしょう」


 麻袋やつたで編んだカゴが、石造りの倉庫の手前に出して積んである。100個は超える数で、宿の下男らしい男たちが次々と荷を中庭に運び出していた。


「あの荷はおそらく香辛料、つまりは西行きの荷です」


「へえ、そうなんですね。東の方に香辛料が取れる地域があるんですか?」


「面白い思いつきですが、正確には南方ですね。シャリムの南の国境を越え、さらに南の僻地に香辛料が自生する地があるのです。大抵はそこから運んび込まれます」


「へえ」


 イグナティオは与一の問いに適当に素っ気なく返して馬を降りた。


(いちいち口を出してくるな。面倒を見るだけでも割に合わん仕事だというのに)


 イグナティオの与一に対する評価はある種、低かった。与一が未知の学問書を写本できる金の成る樹である点で価値は認めていた。しかし別として、とことん腰が低い性格であることが気に障った。


 普段、客相手にわざとへとへこと頭を下げて、へりくだるイグナティオにとって、与一の自然体な丁寧さや腰の低さは鼻についた。


(へりくだるというのは、自分を安く見せるということだ。自分の価値を知らぬ奴ほど俺を苛立たせるものはない)


 独立独歩を旨とする隊商商人は自身の知恵と人脈、荷のみを頼り、価値を決め、世を渡り歩く。権力者には大いに媚び、金を持たない者には目もくれない。故に、誰にでも頭を下げる与一の性格は気に入らなかった。


 とはいえ気に入らなくとも、金を出す客である。丁重に扱っておくに越したことはない。


 イグナティオは辺りを見回すと、回廊で板に留めた羊皮紙に何やら書き込んでいる男を見つけて、それに寄っていった。


 中年らしい男は恰幅の良い体躯で、暖かそうな毛皮の襟巻きを巻いて、指にはいくつかの銀の指輪をはめている。太い眉に口と顎に自身の胸に届くくらい髭を蓄えて、重厚感を辺りに滲ませていた。


「お忙しいとは存じますが1つお尋ねしたい」


 イグナティオがそう声を掛けると、男は目だけを動かしてイグナティオを一瞥した。しかし身なりを見て興味を失ったように、また帳面に視線を戻した。


(無理もない。今の俺の身なりは、一介の薬売りの行商人に見えることだろうよ)


「私はイグナティオ=スー=スーシと申します。メギイトにて商会を営んでいる者です。私どもはこれより西のバグダラートに拠点を移して商いをするつもりなのですが、幾分、遠くへ旅するには人もうまも足りません。ひいてはあなたの隊商に同道させて頂きたいのですが」


 男は再び帳簿からイグナティオに目線を移すと、ずっしりと重く腹に響く声でひとこと発した。


「1人あたり1日で西方銀貨ドラクマ60枚。無ければ代わるもの」


 そう言われてイグナティオはすぐさま頭を回した。


(今の西方銀貨ドラクマの価値は、シャリム金貨ディナールの1/10にまで上がっているだろう。本来は1/36程度であったが、先の謀叛のこともある。この相場で西方銀貨ドラクマで換算した決済は馬鹿にならん。今なら西方銀貨10枚で6日分の食糧は買えるぞ)


「昨今の相場はご存知か。1日あたり1人で銀貨1枚で」


「ならぬ」


「銀貨3枚、よく調教された軍馬を6頭」


 男はイグナティオが宿の出入り口に留めている200頭の馬の群れを見やってから続ける。


「銀貨40枚、馬60頭」


「銀貨5枚で馬15頭」


「銀貨30枚、馬40頭」


(強気なやつだ……これ以上は意地でも下げないつもりはないな?)


 イグナティオの目は中庭に次々と運び出されている荷へと向いた。


(これだ。高価な品々を運搬するからには危険が伴う。──よし、そうしよう)


「銀貨10枚、馬を20頭、それと腕の立つ"用心棒"1人」


「用心棒だと」


 イグナティオはここぞとばかりに、男を捲し立てる。


「先の謀叛は知っていると思います。シャリム皇家の保護のない道行きは、いつ賊に襲われてもおかしくはありません。私どもの用心棒をあなた様にお付けします。腕の立つ者です。獅子を素手で引きちぎる豪腕に、弓、槍、剣、すべてそこらの将より扱えます」


 用心棒とは騎士ケイヴァーンの事であった。


(いつも皇子について回っているが、この際、暑苦しいあの男には、あいつの主君のために役に立ってもらおう)


「信じられぬ」


「わたくしどもは、アキシュバルより旅して来ました。争乱の渦中を、馬を200頭連れて、8日で何事もなくシーラーズへと至っております。その証拠に、あの馬をご覧になると宜しい冬で痩せるとも、未だに肉付きが良い」


 イグナティオは商人の男を馬の元へと導いた。男は馬の後ろ足に触れたり、たてがみ毛艶けづやを確かめて「ほう」と短く漏らした。


「銀貨6枚、馬100頭、その用心棒1人。用心棒はワシが貰い受ける。これ以上はない。忘れるでないが、ワシの隊商カールワーンは、この冬最後の隊商だ。これを逃すと次の春までバグダラートへ出る隊商はない」


(このオヤジ、なかなかにがめついぞ。俺たちがアキシュバルから逃れてきたと知って足元を見やがった)


 イグナティオ1人なら別に春先まで待っても良いが、先を急ぐ皇子らにはこの隊商しかないであろう。


「宜しいでしょう」


「よし取引成立だ」


 男はイグナティオに手を差し出した。二人は寒空の下、手をとって握手をした。


「ワシはマーザンダラーンの商人、カイマルズだ。そなたらの他にも同道したい者が大勢おるから、その列に混じると良い。出立は明朝。西門外の水汲み場にて集まっておる。以上だ」


 カイマルズと名乗った商人はそれだけ述べると、帳簿を脇に挟んで、足早に回廊を歩き去った。


 石造りの回廊に残されたイグナティオと与一は、しばらく互いに無言であった。最初に口を開いたのは与一である。


「……やっぱ値段交渉ってすごいですね……俺には何が何だか……」


「やられました」


「……へ?」


「あのカイマルズとかいう商人、恐らく私たちのような西へ急ぐ人たちをかき集めています。法外な便乗料を取って、荒稼ぎするつもりでしょう。私たちが話をつけたあと、すぐに立ち去りました」


「それって、ぼったくられたってことですか……!?」


「しかし仕方ない。私たちは急ぎです。アルメスには、次の春まで待つ余裕はないでしょうし」


 戸惑う与一をよそに、イグナティオは直感的に別の何かを薄らと感じ取っていた。


 日は真南を低く西へと通り過ぎた頃であった。




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