第5章 皇都陥落─後編─ 2

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 救貧院の独房の小さな格子窓から、赤い光を照り返す黒煙が見えた。


 早鐘が先ほどから遠くで絶えずなり続けている。


 夕方に独房へと放り込まれてから4刻が過ぎ、そろそろ監視の神官を欺く演技にも飽きてきた明るい栗色の髪の男は、木で組まれた重い扉にもたれかかりながら、はてさてどうしたものかと首を傾げていた。


(こりゃ尋常ではない火だ。救貧院ごと丸焼きにされても困る)


 イグナティオである。


 先ほどから見張りをしていた救貧院の神官たちが「屋根が燃えている」と慌てているのを見ていると、どうやら独房に入れられている病人たちの事は頭にないようで、このまま置き去りにされる様子であった。


(救済と安寧の神アフマとキトに仕える神官が、聞いて呆れる。この様子だと、アフマ神とキト女神も病人には特段の慈しみを与えて下さらないケチらしいな)


 イグナティオは早々に退散することに決めた。


 とは言え、病人が暴れることを考慮して、独房の扉は重く厚い木で作られているため、簡単には破れるものではない。


(得てして、この火が救いの手になってくれるようだ)


 イグナティオは自分の着ていた絹の上衣を脱ぐと、出来るだけ強く絞って、太い紐状にし、外の火の粉を着けて燃やした。


 頃合いを見計らって、イグナティオは火種となった上衣を独房の扉に投げつけた。すると、独房の扉はゆっくりと燃え始めた。


 しばらくすると、燃えて黒くなった扉の火は消えた。イグナティオは、扉の蝶番が焦げて脆くなったのを確認すると、扉と床の隙間に手を突っ込んで手前に力を入れて引いた。


 独房の扉は内開きである。押してだめでも、脆くなった蝶番ならば、引けば簡単に壊れる。


 一瞬で扉は奥に倒れる形で外れた。イグナティオは用なしとなった独房に別れを告げると、急いでアキシュバルに忍び込んだ時に使った水汲み場へと向かった。


 振り返ると救貧院は燃え盛る松明のように火を吹いて燃えていた。あと少し遅ければ、あの火の中に閉じ込められて死んでいた。


 自分と一緒に入れられていた独房の病人たちが今頃どうなったかを想像できないイグナティオではないが、助けてやる義理もなければ、暇もなかった。


(アフマ神のお導きのあらんことを)


 イグナティオは少しだけそう念じてから、水汲み場の下へと潜り込んだ。


 夜になると地下隧道カレーズの中はなにも見えない暗闇そのものである。


 イグナティオは昼間に通った隧道の道順を完璧に覚えていた。湿ってよく滑る壁に手を沿わせて、来たときとは逆に行けばよい。馬たちを置いていた場所に出られれば御の字である。


 足元の水音と、流れる水の方向を頼りに下流へと向かう。


(しかし、どれだけの大火だ。皇都全体が山火事のように燃えていたぞ......)


 イグナティオは状況をはかりかねていた。


 燃え始めて四半刻ほどで、恐らく南西区全体が燃えていた。ひいては皇都全体が燃えていたとなると、これは何かしらの大規模な放火であることは推し量れた。


(キースヴァルトがもうアキシュバルへと着いた? いやあり得ない。あの砂漠を1日2日で軍勢が越えられるものか。であれば別の何かか......)


 そう考えていると、自分の進行方向に明かりが見えた。


 松明の明かりで、そちらから大勢の者が歩く水音が聞こえる。


(俺のほかにも地下隧道カレーズに逃げるやつがいたか)


 しかし、様子は異なっていた。


 甲冑を着こんだ兵士20人ほどが、真ん中の人影を守るように囲んで、警戒色濃く辺りを睨み付けながら急いでいたのだ。


(これは......)


 イグナティオの勘が警鐘を鳴らした。これは近づくべきではない、と。


 皇帝の近衛たちである。


 松明に照らし出された兵士たちの甲冑は一般の兵士と比べて物々しく、一目でそれが近衛兵のものとわかるくらい華やかである。何より、中央の御仁を殺気を纏って守護する姿勢が、近衛兵の顕れである。


(皇帝の忠犬がここにいる、ということは、真ん中に居るのは......)


 そして、先導する近衛たちの後方に続く体躯の良い一人の大男が、近衛が唯一忠誠を誓うシャリム皇国の君主であるコモドゥジール5世である。


 暗がりでも判るほどの精悍な顔立ちと、前に居るもの圧倒する体躯の男で、その佇まいだけで、王者だと判る。


(現物を見るのは初めてだが、これは、かなりおっかない......)


 イグナティオは近衛が十分に見えなくなるまで止まってやり過ごすことにした。


 前を行く皇帝と近衛の一団は、接近しすぎたイグナティオに気づくことはなく、そのまま隧道を下って行く。


(おかしな事もあるものだ。地上では都が燃えているというのに、皇帝がこのような場所に近衛20人ほどで都から離れていくなど......)


 そこでイグナティオは得心した。


(なるほど、反乱か。キースヴァルトが迫ってきて内部分裂でもしたのだ。それで反乱を起こされて"夜逃げ中"というわけか)


 イグナティオは心の中で嘲笑した。


(所詮、権威のある者たちは自己の保身に躍起になる利己的な凡人に過ぎない。導くべき民が苦しんでいる時に、構わず逃げ出す。そういうところは、ハッキリしていて面白い)


 イグナティオは人の利に敏い。殊、権力者に関しては、道徳的な考え方をする必要性は全くない。彼らはいかに残忍であろうとも、最後に自分が生きていれば良い、と考える。


(王というものも、対して変わらん。自分さえ生きていれば、たとえ統べるべき民が一人も居なくても国の名は残るからな。そして、近衛などという犬らは、それを本気で信じて犬死にする部類の奴らだ)


 そうしてしばらく待っていると、何やら隧道の先の方から騒がしい音が響いてきた。


 大勢が激しく動き回っているのか、水音が絶え間なく立っている。


 しかも時折、金属同士を打ち付けあう音まで聞こえてくる。


(なんだ......? 仲間割れか?)


 イグナティオは、ゆっくりと先へ忍び寄った。


 すると、突然隧道の曲がり角から一人の兵士が倒れてきた。イグナティオにのし掛かり、もろとも倒れこんだ。


(なんだ!? こいつは!)


 鎧を着こんだ兵士は完全にイグナティオに覆い被さっていて、簡単には退けられない。松明が地面に転がり、周りを明るく照らし出す。よく見ると赤い血が流れ出ていて、辺りの水面から血液特有の鉄臭い匂いが立ち上がっている。


(まずい、早く逃げないと! 内輪揉めに巻き込まれるのは御免だ!!)


 イグナティオは生気を失って横たわる兵士のむくろを無理やり蹴り飛ばすと、すぐさま起き上がって立ち去ろうとした。口は達者なイグナティオだが、武には分がない。


 しかし、よくよく思い出してみると、イグナティオの向かう場所は、今、近衛が倒れてきた曲がり角を曲がった先にある。


(勘弁してくれ......)


 イグナティオは仕方なく戻って行くと、そろりと角から隧道を覗き込んだ。


 そこでは、水面に落ちた松明が事の一部始終を映し出してた。


──────────

──────

───


「お前たちは誰に刃を向けているのか解っておるのか!?!」


「皇帝陛下の首を落とす栄誉に預かれるは、我ら最後の近衛としての本懐!」


 将らしき白髪の老人が、先ほど見た皇帝を後ろに守りながら、じわじわと壁際に追い詰める近衛たちと対峙している。全員剣を抜いており、その顔には殺気が込められていた。


「諸侯たちに何を言われた!」


「諸侯など関係ない。全ては真に国を想うお方の意思に沿ったまで!」


 近衛の長と老将は、互いに納得のいく答えを得られないまま、乱戦に突入した。


 刃と刃が打ち交わされ、火花が散った。老将よりも背の高い近衛たちを相手に、老将は一歩も退かずに、むしろ近衛たちが少し気圧されているほどの剣幕で、皇帝へと向かう凶刃を跳ね返している。老将は精兵相手に20合以上も打ち合って、傷ひとつつかなかった。しかし、さすがに雑兵と違って近衛は簡単には倒せない。


 そうして激しい剣戟が繰り出されているうちに、いつの間にか老将と皇帝は壁際の難から逃れていた。


「陛下、今です!」


 老将は近衛の一人をやっとのことで斬り倒すと、隧道に立ちはだかって、壁になった。


「うむ。ダレイマーニ──世話になった」


 皇帝は短く言うと、皇帝は隧道を走り下っていった。


「陛下の大恩に報いる日々、楽しゅうございました.......」


 老将は小さく言うと、再び近衛たちと向かい合った。


 共に戦場を駆けてきた長い年月が、再会の叶わないことを悟らせたのだった。


 近衛たちはさすがに慌てた。すぐさま追いかけようと老将に飛び掛かるが、老将は先ほどにも増して強かった。また一人斬り倒して、剣を近衛たちに向けた。


「さあ来い若造ども。大万騎将サーヴァールダレイマーニが相手だ」


──────────

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──


 死闘は長く続かなかった。


 老将は最初のうちは圧倒的な強さで近衛たちを跳ね除けていたが、次第に肩に剣を受け、脚を斬られ、動きを鈍くしていった。


 しかし老将も20人ほどいた近衛たちを半数まで減らしていて、被害としては近衛たちの方が大きかった。


 四半刻が経ち、流された血で地下隧道が染まりきった頃、老将は遂に膝を折って水面に屈した。


 近衛の長が繰り出した一閃が、老将の胴を切り裂いたのだ。


 近衛たちは膝をついた老将に矢継ぎ早に斬りかかり、肉を断った。


 それでも老将は顔を上げ、近衛たちを睨み付けた。深いしわの刻まれた顔には、もう血の気はない。


 近衛の長が老将の剣を撥ね飛ばし、剣を振り上げた。


「終わりだ」


 老将は近衛の長を睨んだまま最期の言葉を叫んだ。


「......皇帝陛下に主神の加護ぞあらんっ!!」


 剣は迷いなく鋭く弧を描いて落とされた。暗闇に一閃すると、老将の首は水面に音を立てて、落ちた。


 近衛たちはしばらく老将の骸を見つめたが、すぐに逃げた皇帝を追って隧道を走っていった。


 それを陰から隠れて見ていたイグナティオは、近衛たちが去ったのを確認すると、老将の元へと近づいた。


 胴と分かたれた首が、無惨にも隧道のせせらぎの中に沈んでいる。


(馬鹿な老人だ。老いぼれ一人が壁になって戦ったところで、多勢に勝てる道理もないのに)


 イグナティオは老将の死骸を水の流れの真ん中から縁の方へと引きずって壁にもたれさせた。自分でも不思議に思える行動だった。


 イグナティオは老将の動かぬ身体を見下ろして思った。


(皇帝やら主君やらの何があんたをそうさせた? あいつらはあんたひとりが死んだところで、悲しむこともあるまい。手前自身の利益にも、何の儲けにもならない最期の"忠誠"に、あんたはその命を掛けた訳だ)


「──騎士ってのは憐れな奴らだな」


 イグナティオは、そう洩らすと、ゆっくりと隧道を進んでいった。


 地下隧道の出口に差し掛かり、イグナティオはより一層警戒を強めた。先程の近衛たちは、恐らくすでに隧道から出て地上に上がっている頃である。うっかり鉢合わせでもしたら、問答無用で斬り殺されるのは目に見えている。


 事が済んでから──皇帝が殺害されてから──顔を出して、隙を見て馬に乗って逃げ去るのが得策である。


 そうしたいのは山々であったイグナティオであったが、どうにも出口の事の進みようが芳しくないようだった。


「そなた、なぜここにおる」


 イグナティオが地下隧道の出口の蓋の隙間から覗き込んだその時、そう皇帝が言ったのが聞こえた。低く、重みのある声音で、強かな怒りを滲ませていた。


 皇帝の肩や脚には、近衛たちの剣が刺さっており、傷口から止めどなく血が流れ出ている。そして、目の前に立つ文官の衣服を纏った老人を睨んでいた。


「ベルマン」


 宰相ラージャートのベルマンであった。ベルマンは黙り込んで、膝をついた皇帝を見つめている。


「そなたは、いち早く謀叛を朕に知らせて、諸侯らの目的を察すると、朕に逃げるよう進言した。己が皇宮に残り、囮を引き受けると申して。なぜここにおる!」


 ベルマンは無表情で口を開いた。


「我らが王の王よ。皇国は、将来の皇国のために変わらねばなりませぬ。そのためには、まず皇帝陛下の御首級みしるしが必要なのです」


「朕を裏切ったな、ベルマン」


「はい」


 ベルマンの声は、皇都郊外の荒野に冷たく響いた。燃え上がる皇都の炎が、二人の横顔を照らし出していた。


「陛下。皇家は初代皇帝アル=シャースフより代々、武勇を誉れとして、国土を拡大する事に注力して参りました。陛下の御世においては、西方諸部族の併呑と、北方行路ハシュヌマーン街道周辺の平定を成し遂げられました。民はそんな皇家の在り方を迎合し、挙って遠征への軍列に加わります。しかし、もはや武勇の時代は過去のものになりつつあるのです」


「ゆえに、諸侯と組んだのか」


 皇帝は怒気を含んだ声色を変えず、静かに言った。


「──」


 ベルマンは無言を返した。すると、皇帝はベルマンが可笑しいように笑いだした。


「はははは!! そなたは何も判っておらぬ。そなたに靡いたそこの近衛たちもな。良いか、皇帝シャー王者ジャーハーンシャーたるは、主神ムクシュ=ハールドの授けたもう武あってこそよ。これは皇家に伝わる呪いであり祝福なのだ。朕と朕に連なる子々孫々を消したところで、呪縛が解けることはない。お前も、諸侯も、いずれがシャリムを統べろうとも、必ずや主神は武の道へといざなわれるであろう」


 皇帝は不気味に笑い続けた。笑う度に傷口から血を吹き出して、蒼白く冷めていった。


「皇帝陛下。国が武で栄えれば、滅ぶのも武によってです。そして、いま陛下を滅ぼすのもまた武なのです」


 ベルマンがそう言って、さっと手を挙げて合図をすると、近衛の長が皇帝の横に歩み出た。


「不忠者め」


 近衛の長は皇帝がそう吐き捨てたのを聞き届けると、高く掲げた刃を振り下ろした。


 イグナティオは目をつむった。人が死ぬのを目の前で見届けたのは、今日でもう2回目である。


 それと同時に、これから起こるであろう動乱の世に、一抹の不安を覚えずにはいられなかった。


(シャリム皇国が滅びる、か......。これより先、シャリムを通じた交易のよる利益は望めんな)


 だがイグナティオの頭のなかでは、すでに商いのことを考え始めていた。シャリム皇国による大陸行路の安定は、恐らくこれで終わりを告げる。キースヴァルトという外患と諸勢力による覇権争いの内憂が、周辺の交易都市を衰退させることは目に見えていた。幸い、イグナティオの拠点は東方のメギイトであるから、動乱に直接巻き込まれることはないだろう。


 イグナティオは近衛たちが、落とされた皇帝の首を回収して去っていくのを地下隧道カレーズの出口の隙間から見送った。






 









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