第3章 イーディディイールにて 1

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 夜風は湿って冷たかった。ファルシールは馬から落ちた与一を起こそうと試みたが、どうやら熱を出しているようで、どうすれば良いかわからずに与一を呼び続けていた。


「おい! ヨイチ! おい! しっかりせよ!」


 イグナティオは馬上で与一が倒れ落ちる様を見ていたが、喚くだけで何もしないファルシールを見かねて馬から降りて与一のもとに寄った。


「お、おいそなた、イグナティオと言ったか!? ヨイチはどうしたのだ!?」


 イグナティオはファルシールの取り乱し様に驚いていた。先ほどの高慢さはどこへ行ったのやら、と心の中で嘲笑しすると、跪いて与一の額に手を当てた。


「これは、酷い熱ですね。よく今まで馬から落ちなかったものだ」


 イグナティオは心にもなかったが感心したように見せた。


 本来であればファルシールが察して顰蹙ひんしゅくをかう台詞せりふだが、今のファルシールはそれどころではない慌てようである。


 イグナティオは冷静ではないファルシールにわざと指示を仰いだ。


「どうされます? このままではご友人が弱っていくばかりですが」


「どうする......どうすればよい!?」


 ファルシールはイグナティオが発した"友人"という文言もんごんに、何ら異論を唱えることもせず、イグナティオを頼ってすがる様である。


 イグナティオは呆れた。同時に、高貴な身分の者がこうも取り乱すのは珍妙で可笑おかしかったので、もう少し責めて気の動転した様を拝んでやろうと思ったが、商人のあくどい知恵が働いてあることを思い付くと、深刻そうな顔をしてファルシールに提案した。


「では、近くの町でも村でも良いので、急ぎ運びましょう。夜更けではございますが、寄り合いの医者は診てくれるはずです」


「そうか......! では急ぎ参ろう!」


 イグナティオは頷くと与一の腕を自分の肩に回して担ぎ上げ、馬に横たえさせて自分の着ていた絹の上着を与一に掛けた。それから自身も鞍のある馬に乗り換え、与一を片腕で抱えて抑えて手綱を握った。


 ファルシールも馬に乗ると、二人とも示し合わせて掛け声をあげ、馬を走らせた。


 後に続く馬もそれに合わせて駆ける。


 勾配も緩急をつけて続き、中頃まで進むと力の弱い馬が遅れて列は長く伸びきっていた。本来、羊などを放して歩かせる際、シャリムでは群れの後ろから追いたてるのが一般的だが、今回はそうも言っていられない。


 何より馬群を先導していたファルシールの気が回っていない。


 イグナティオは、このままでは脱落する馬が勿体ない、と思い適度に指笛を吹いて馬を急かした。使い道はいくらでもある。馬は財産だからだ。


 峠越えの道は奥に進むに連れて狭くなり、馬2頭がやっと並んで通れるくらいにまで両側の崖が迫ってくる。


 この道は"整備された"と言うよりは、人が通りやすい所を通っている内に自然に出来た道で、馬車などを用いることは考えられていない。故に、ここを通る隊商は登坂力に優れた荷運び馬をふもとのホスロイで借りて、向こう側の町で返す、という方法をとる。その後、峠を越えさせた自らの馬に荷を載せ替えて、皇都へと向かうのだ。


 イグナティオは前を進むファルシールの後ろ姿を眺めながら、自分がいま考えている事がどう転ぶのか、先が楽しみでもあり背徳にも似た高揚感もあり、期待に胸を躍らせていた。


 だいぶ経って峠越えの道が佳境を過ぎると、岩場からなだらかな砂地に変わった。


 山脈の反対側は、山で湿気を含んだ風が遮られて乾燥するため、岩石砂漠が広がっている。高低の激しい事から草原にはならず、雨も降らないため、サキュロエス街道周辺は、途中まで砂漠の中である。


 一刻が過ぎて東の空が薄く淡い水色に変わる頃、ファルシールたちはようやくホスロイの反対側の町イーディディイールを目下に見た。


 イーディディイールの町はまだ無事なようで日も上らぬ明け方の静かな様子が遠目からもわかった。


 しかし、入ってみると町の様子には違和感を禁じ得なかった。


 所々の建物は扉が無用心に開いており、石畳の道の端には大きな家具や車軸の折れた荷車などが打ち捨てられている。


 開いている扉から見える家の中に、人の気配はない。ファルシールは町の異様さに思わず馬を止めた。


「これは一体......」


「夜逃げでしょう。ホスロイの者が何人か逃げ仰してここにたどり着き、キースヴァルトの襲来を知らせたのやもしれません」


 そうでなくとも峠の向こう側から黒煙が昇っているのが見えれば、シャリムの敗北を察して持てるだけの財産を担いで逃げるだろう、とイグナティオは心の中で続けた。ホスロイが焼かれてより半日は経過しようという頃である。逃げられる時に逃げておくのが得策である。


「この様子では寄り合いの医者も......」


 イグナティオはファルシールを追い詰めるように肩を落としてみせた。


「何か別の方法はないのか!? ここまで来るのにも時を要した。これ以上は時間をかけていられぬ!」


 ファルシールはイグナティオに詰め寄る。イグナティオは、落ちた、と口角を上げた。


 さすがのファルシールもその機敏は見逃さなかった。


「......そなた、何を考えておる」


 宮廷で培った策謀を見極める目は、冷静さを欠いてはいても危険を察知した。しかし、もはやイグナティオの術数にファルシールは落ちている。イグナティオは隠すこともない、というように微かに上げた口角を緩めることなく答えた。


「私にはあなた様のご友人をお助けする方法がございます。ただそれだけの事です」


 この言葉だけで十分であった。案の定ファルシールは言葉の先を読み取った。


「......余に何を求める」


 ファルシールは目の前で北叟笑ほくそえむこの狡猾な男が商人であることをようやく思い出したのだった。


「今は何も」


 イグナティオは含みを持たせておいて何も言わない。それがファルシールの判断を難しくした。


 この男の口車に乗せられてここまで時間を掛けてやって来てしまった。時間的余裕はもう無い。


 ファルシールはイグナティオの馬に乗る与一の熱にあえぐ姿を見た。


「......そなたの要求、何でも応えよう......」


「しかしここには誓約書がありませんなあ。どうしたものか」


「良い......誓おう。繁栄と契約の神ジワーディンに誓い申し上げる」


 何を求められるかも分からない状況で相手の要求を全て飲むと断言することは、耐え難い無条件の敗北を意味した。ファルシールは唇を固く結び、苦悶に耐えるのだった。


「さようですか! それでは早速手配致しましょう! 商人はお客様との契約は必ず守ります。不肖イグナティオ=スー=スーシ、全力で事に当たらせて頂きますとも」


 イグナティオは高らかに述べると、馬をイーディディイールの北に向けて進めた。ファルシールは引き連れたキースヴァルトの馬たちと共にイグナティオを後ろから追いながら、イグナティオに抱えられている与一を見て恨み言を言ってやりたかったが、男の策にはまった自身の浅はかさがまさって、やるせなく馬を駆けるのであった。


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