第1章 帰りたい 2

    2


 スギの大木が昼間なのか分からない程に空を覆い隠して繁り、一歩先が霞んで見える程の濃霧が、さらにその森を深くしている。風はなく、ただ低い地響きのようなとどろきが遠くから聞こえてくる。


「なんだよこれ......」


 与一の頭は、現在自分の措かれている状況を全く理解出来ない。さっきまでそこにあったレンガを敷き詰めた舗装道路の地面も、嫌なほど煌々と輝いていた日の光も、ここにはない。目の前の光景は、自分の知らない何処かのものである。


 半袖で露出した腕や、先程まで汗を滲ませていた首筋に、霧の水滴を含んだ風がゆっくりと撫でる。


 与一は頭から全身に広がる悪寒に足をすくませて、枯葉の覆う地面へと座りこんでしまった。一気に力が抜け、与一の手からスマホがこぼれ落ちた。


(こういうのって夢オチってやつか......?)


 淡い期待を持ったが、臀部から伝わる湿った土の水気や、スマホを落とした手から伝わる痛みにも似た肌寒さは、確かに与一が感じる感覚で、これが夢ではないことを強く思い知らせた。


「てか、ここ何処よ......」


 咳をしても独り。声に出してみても答えるものはない。


 どこからともなく木々に反響して聴こえてくるカラスの鳴き声が、無意識に与一の注意を周りに向けさせる。


 辺りに人の気配はなく、それがかえって独りの与一に底知れぬ恐怖を与える。何かが霧の向こうに潜んでいるのではないか。一度そのように感じてしまうと一層周りへの警戒は強くなり、自分の緊迫する鼓動の音が耳の奥で周りの音を圧迫する。


 与一はスマホを拾い上げて急いで"森の中 サバイバル"で検索を掛けてみるが、勿論電波など繋がっている訳もなく、気が動転して初めて、冷静ではない自分に気づく。


 与一はとにかく側にあったスギの木に四つん這いで這っていって肩を寄せた。なんとなく姿勢を低くしたいと思うと自然と動物のように動いていた。


 木に背をもたれ掛けると、表皮は水分を含んでいて少し湿っているが、妙に外気より温かいように感じた。与一は束の間、落ち着きを覚えることが出来た。


 頭が少し冷えたところで、与一は不測の事態に際して、とりあえずラノベの主人公らがよくしている状況の整理を始めてみる。


(俺は今どっかの森の中に居て、別に魔方陣とかそういうのは見なかった。商店街を歩いていったら変なとこに出ました、って感じだから、何か事故とかで死んた訳でもなさそうだし、転生だとか、ここが天国とか地獄とかそういうことはない、か......。飛ばされたって考えるべきか? あの声が何か関係あるとは思うんだけど......)


 この森に飛ばされる前に聞いた少年の声は、恐らく関係している。だが、あまりにも情報が少なすぎるために全く腑に落ちる結論が出せない。かといってこのまま森の中でじっとしている訳にもいかなかった。


(確か、夜になると森って怖いんだっけ)


 先週何となく見た動画配信アプリのオススメ動画で言っていた事を思い出し、与一は覚えている限りその動画の外国人がしていた通りに行動してみることにした。


 不幸なことに、この森の気温は元いた商店街よりも低い。挙げ句、冷えた汗が、半袖カッターシャツであることも相まって、容赦なく体温を奪う。


 与一は体温がこれ以上下がらないように、立ち上がって木の周りを歩く。


 しばらく続けて温まって服も乾き始めると、昼を食べていない手前、腹の虫が鳴った。


(飯か......朝抜いたのはマズったな......)


 カバンの中は補習授業の教科書や筆記用具だけで、食べられそうなものはない。勿論、森の中に素人目にも判る食べられそうなものも見当たらない。


 与一はまた元のスギの大木の下に座りこんだ。


 することがないのでぼうっとしていると自然に思考が回る。


 帰れなかったらどうしよう。このまま餓死したら? 寝たら元に戻ってるとか?


 そんな事を思案して気を揉む。


「帰りてぇ......」


 楽しみなイベントが待っているのに。


 そうこうしていると与一は疲労感のあまりいつの間にか落ちるように眠っていた。


    ***


 日は沈みかけていた。


 霧の濃く掛かる森を独走する騎馬は、馬も騎手も何刻も止まることなく駆け、駆り続け、疲労は溜まりに溜まっている。


 パルソリア平原を抜け西の森へ逃げ込んだファルシールは、極相林きょくそうりんの巨木の合間を縫って、濃く掛かる霧を隠れみの追手おっての騎兵を撒くが、自らもどこへ向かっているか解らなくなり、追手の脅威から止まるにも止まれずにいた。


 身に付けている防具という防具を脱ぎ捨てながら駆け、残っていたのは腰に下げた短剣アキナカのみであった。


 当初ファルシールは、この森を抜けてその先にあるサキュロエス街道を通って居城がある皇都アキシュバルへ戻るつもりでいた。


 伝令馬の駅が並ぶサキュロエス街道は、皇国の要路のひとつである。街道沿いには野盗やとうなどから駅を守る守備兵が配置されているので、追手の猛追から逃げきるには街道の屯所へと辿り着く必要があった。


 だが、暗くなると身動きのとりにくい森の中で単騎駆けることになる。幸い霧は濃く、追手の姿も馬の足音も近くにはない。


 ファルシールはようやく馬を止め、近くにあった木の幹に手綱たづなくくりつけ、見つかりにくくするために馬を座らせ。その後、自身も地面に重く腰を降ろした。


 脱力感か襲うと同時に、長時間の騎乗で感覚のない股ぐらに痺れが来る。


「──助け、か......」


 ファルシールは霧とも雨ともつかない迷霧の中、地べたにさらに上体を倒して仰向けに寝そべると、返り血がこびれついた革手袋をはめた手を頭上にかざした。


   ──────────

   ─────

   ───


 パルソリア平原の西に布陣したシャリム皇国軍50万は、大陸の東より版図を広げつつあったキースヴァルト王国軍15万を迎え討つ。


 18人の万騎将ヤールヴァールが率いる騎兵20万と歩兵30万で構成されるシャリム皇国の軍勢は、常勝無敗の軍として大陸に名を馳せていた。特に騎兵の強さは大陸随一で、行く道を遮るものは、何であれ薙ぎ倒し踏みにじる。


 皇族は成人となる15歳より、戦場に立つことを義務とされ、その勲功によって分封される領地が決まる。ファルシールは6人の兄妹の末の弟で皇位の継承権は皆無に等しかったが、それでも武勇をほまれとするシャリム皇家の名声に恥じぬよう側近に強引に促され、初陣することになった。


 ファルシールは武勇に優れていなかった。血気の盛んな兄妹に比べて気が弱く、宮廷では"ハマヌフス臆病な子羊"と呼ばれる程である。そのためファルシールは、正面を競り取った第2皇子センテシャスフの騎馬兵2万の後ろに付いて、角笛シープールが鳴るのを待っていた。


 右翼、正面、左翼、それぞれ騎兵を前衛に、後衛に歩兵が続くシャリム皇国伝統の布陣である。


 長男の皇太子フェルキエスは平原を見渡す丘の本陣にて総大将として控えた。


 戦闘が開始されたのは、平原に近くの湖から流れ込んだ霧が立ち始めた昼前の事であった。100アリフ(100メートル)先が見えない程の霧の中、1000アリフ先に横列を組んで並ぶキースヴァルトの歩兵が一斉に行進を開始したという偵察の報告を得てから、それに呼応してセンテシャスフの隊も前進を始めた。


 予定通りセンテシャスフを含めた前衛の騎馬隊は、徐々に尖塔の陣になりつつ突撃に移るが、あと少しで先頭が斬りかかるという距離で、突如、キースヴァルト兵の目前の地面が火を吹いた。騎兵の突撃する重みでによって、地面に埋められていた革袋から油が吹き出して火種が点火し、瞬く間に2軍間に炎の壁が作られる。予め仕掛けられていた罠が発動したのだ。


 馬は面食らって暴れたり、失神して倒れたりする。


 キースヴァルトの前衛は炎が上がると、瞬時に4アリフ(4メートル)ある槍を足で斜めに地面に固定して、ハリネズミのように槍のいばらを組んだ。炎の壁を抜けた騎馬はその蕀に無防備に突っ込んで串刺しになっていく。回り込んで側面を衝こうにも炎の壁が側面を庇っており出来ない。


 先頭に居てすぐさま気づいたセンテシャスフは急いで突撃を止めるよう命を出すが、兵は止まらなかった。何故ならセンテシャスフの兵の一部が、どうしてか命令を無視して、突撃する騎兵を後ろから捲し立てるように押し込んだからだ。両翼でも同じことが起こり、炎と槍の蕀で立ち往生する先頭と押し込む後方により、騎馬の隊列は乱れに乱れた。


 黒煙が昇り始めた時点でも、ファルシールの隊はセンテシャスフの真後ろに付いていた。止まることのないセンテシャスフの後方の騎兵により、突撃が続行していると見たファルシールを補佐する万騎将ヤールヴァールコムは、そのまま歩兵を小走りで前進させる。


 しかし、前方の歩兵の中から"センテシャスフ討死"の声が上がり、ファルシールの軍の至るところで叫ばれ始めた。その時センテシャスフは未だ健在であったが、センテシャスフ討死の報は、ファルシール軍の足を一瞬止めることになり、センテシャスフ軍とファルシール軍の間には必然的に間隙が生まれることになった。


 さらに、皇太子フェルキエスの居る丘の本陣が奇襲されて黒煙が上がり、フェルキエスが敗走しているという声が響いた。この時も本陣には何事もなかったが、丘の下で本陣を守備する歩兵の一部が野営テントに火を放ち、その煙と共にフェルキエス逃亡の声が上がったのだった。


 キースヴァルトの謀略であった。


 前方からセンテシャスフの訃報、後方からフェルキエス逃走の報が聞こえ、ファルシールを含めた後衛の歩兵は完全に足を止めた。


 その隙をキースヴァルトは待っていた。


 混乱するセンテシャスフの軍の中央目掛けて、キースヴァルトの重騎兵2千が味方歩兵の間を割って突撃を掛けると同時に、後方から押していたセンテシャスフの騎兵がキースヴァルトの戦旗を掲げ、反転。ファルシールの軍に向かってくる。


 両翼は中途半端に前進していたこともあって、完全に足を止めたファルシールの軍は、中央で孤立する事になり、センテシャスフの後方の反転突撃と、センテシャスフの軍を蹂躙しながら進んでくる重騎兵の2つに食い付かれ、瓦解していく。


 気付けばセンテシャスフの軍は壊滅し、中央には大きな道が出来ていた。その道を通ってキースヴァルトの歩兵が突進して、ファルシール軍を前に左右に分かれて両翼の歩兵群に襲いかかる。本来であれば横列の隙間を抜けてくる敵には、両翼の騎兵や歩兵が対応するのだが、霧と黒煙により視界が狭まっていることもあって中央が突破されたことに気づかずにいたのだ。


 白い闇の中から、前触れもなく現れたキースヴァルトの歩兵は、各々油の入った豚の腸袋をシャリム軍に投げつけ、火矢を放つ。あっという間に燃え上がると、シャリム軍の戦列は崩れていった。前から来るであろう敵が、いきなり横から攻めてくる。しかも総大将や、先鋒の将も居ないとなれば、混乱は必至であった。


 斯くして中央から3つに分断されたシャリム軍は、飛び交う流言と、霧と、分断による混乱で、ひと刻ともたずに崩壊を始めた。数の上では有利を誇っていたシャリム軍は、その大軍の故にキースヴァルトの少数に見事に一蹴されることになったのだ。


 本陣に残っていた皇太子フェルキエスの10万も、中央を抜けてきた軽騎兵に丘の上の本陣を突破され、混乱のうちに敗走することになった。


 パルソリア平原の戦いは、こうしてシャリム皇国の大敗で幕を下ろした。皇国筆頭軍師の万騎将ヤールヴァールイルトゥスを初め、11人の万騎将ヤールヴァールが討ち死。3人が消息不明。麾下きかの歩兵と騎兵合わせて大半である30万が壊滅、残りは諸万騎将討ち死の報を訊くと、3人の万騎将もろとも戦意を失い潰走したのであった。


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 ファルシールはキースヴァルト重騎兵の突撃による混乱で軍の敗色が濃くなった頃、戦列の中央に形成した歩兵円陣の中に居た。しかし、削られていく外縁の消耗具合から、万騎将コムは撤退の進言をする。既に幾重にも囲まれていたが、コムが囮を買って出て、何とか数百の兵と共に逃げることに成功したのだった。


 やがて追手によって数百の兵が百数十になり、数十となって脱落していく内にファルシールはひとりになっていた。


 とももおらず、ひとりで行動するのは、ファルシールにとって初めての事であった。喉が渇いても、水を持つ側仕えは居ない。


 寂寥感せきりょうかんを紛らわせるものは己の乗っていた赤毛の軍馬と気休め程度の短剣しかない。


 ファルシールは鎖帷子の内側に持っていた備えの鹿の干し肉を口に含み、唾液でふやけさせて噛み千切る。


「──堅いな......」


 しかし、食べ物が何もない時、においのキツい鹿肉でさえ肉の味が染み出して旨く感じる。


「──宮廷に居ればこのようなものを口にする機会などなかったろうに......」


 ファルシールは出陣したことを後悔した。


「それもこれも側近のレリウスが無理矢理いくさで武勲を、などと申したのが悪いのだ」


 ファルシールは少し大きな声でぼやいてしまい、すぐに回りを見回した。


 近づくものはない。


 再び寝転がり、また戦場の事を思い返す。


 敵兵に囲まれた時、次々に殺されていく自軍の兵を目の当たりにし、噴き出す血飛沫ちしぶきを浴びた。ぞっと全身に寒気が走り、途端に恐怖で動けなくなった。だが、敵はそんなファルシールを待つことはない。詰め寄ると、槍で突きかかってくる。


 ファルシールは剣を抜くことすら忘れて佇むばかりであったので、コムがその槍を跳ね除けなければ、今頃は喉を貫かれて討ち取られていたであろう。


 今は殿しんがりをつとめたコムの消息が気掛かりである。


「──帰りたい......」


 ファルシールは、宮殿の寝所の温かな寝床を想って溜め息を漏らした。


 この時のファルシールは、翌朝、センテシャスフとフェルキエスの御首級みしるしと共に、コムを含めた諸万騎将の首が槍に括りつけられ、キースヴァルト軍の戦列に並ぶことになるのを、まだ知らない。

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