習作集・風景画杯に向けて

ナツメ

ゆめのあめ

 しとしとと

 ふるあめのなかを

 きみとあるけたらいいのに




「……あれ」

 ギターを弾いていたら、さっきまで全くの無音だったリビングから声がした。

 それで、ああ、この部屋にはもうひとりいたんだった、と思い出した。

 忘れるほどに、物音がしていなかった。

 振り返る。

 ダイニングテーブルにノートを広げ、リビングを背にして椅子に座っていたから、一八〇度後ろを向く。不精ぶしょうして椅子を引かなかったら、さすがに首が痛かった。

 ギターを置いて、体ごと向き直す。視界には最近買ったばかりのグリーンのソファの背。声の主は見えない。

 立ち上がってのぞき込むと、ソファに寝っころがる彼の姿があった。

 彼は体の左側を下にして、クッションを枕にして横になっていた。

 そしてその顔はまっすぐと、レースのカーテンが引かれた窓に向けられていた。

 とらえどころのない無表情で窓を見つめる彼は、再び声を発した。

「雨じゃない?」

「え?」

 言われて、反射的に窓を見やる。レースのカーテン越しには、雨粒を視認することは出来なかった。

 それに、快晴とは言わないが、外はうすら明るい気がする。

「降ってる?」

 そう言いながら窓に歩み寄り、レースの間から外をのぞく。

 向かいのマンションが見えるだけの、見慣れた殺風景な眺めに目を凝らすと、なるほど、よくよく見れば小雨が降っている。

「ほんとだー……」

 しとしと、というより、まだぱらぱら、といった程度の、本当に軽い雨。

「よく気づいたね」

 開けたカーテンの隙間すきまを閉めながら振り返ると、彼はさっきと全く同じ姿勢だった。

 目が合った。

 彫りが深いわけではないが、大きく、妙に力のあるその目が、急に眠そうに細くなる。

 直後、ふわあああ、と間抜けな音が彼の口から漏れ出て行った。

「寝てたの?」

「寝てた」

 ギター弾いてたし、と言いながらまた目をつむった。

 まだ寝る気なのかな。

「退屈だったってこと?」

「いや、心地よかったってこと」

 目は閉じているが、口調ははっきりしているから、寝ちゃうわけじゃなさそうだ。

「あんまり静かだから、いるの忘れてた」

「えー、ひどいな」

 そういって笑う。

 その彼の顔の横に、本が置いてあるのに気付いた。置いてある、というか、投げ出してあるといった感じだ。

「読んでたの?」

 ソファの右端に腰掛けて、もう一つのクッションを抱える。

 枕になっている方が茶で、今抱えた方がアイボリー。前のソファの時から使っていたものだ。

 新しいソファは新しい匂いがして、まだ慣れない。くたびれたクッションを抱くと、なんだかひどく落ち着いた。

 彼は同じくくたびれて少し色あせた茶色の上で薄目を開け、本を確認したら、また目を閉じた。

「あ、読んでた。そんで寝た」

「なに、つまんなかったの?」

 茶化ちゃかすように問えば、ううんと唸って、あおむけになる。お尻のあたりに彼の足が当たった。

「つまんなくはないけど、なんか変な夢見た」

「え?」

 質問と噛み合ってない答えに、また眠りに落ちかけているのかと顔を見れば、彼はぼんやりと半目になって、天井を見ていた。

「小説なんて普段読まないからかな。なんか、夢に出てきた気がする」

「本の内容が?」

「そう」

 夢の中では、自分たちが小説の登場人物になっていた、と、彼はほうけたみたいな口調で説明した。

「よく覚えてないけど、雨が降ってて、二人で歩いてるんだ。濡れて」

「傘は?」

「ない」

「風邪引くね」

「なんか、楽しくて、何も気にしなくて良くて、手なんか繋いでさ」

 彼の声を聞きながら窓の方を見る。

 雨が降っているか、ここから見てもやっぱりわからなかった。

「雨だけど、暗くなくて。天気雨だったのかな。んで、でもこれは夢だって、たぶん俺わかってて」

 心なしか、彼の声が、ほんのすこし、かなしそうに聞こえた。

「そんな話なの? その本」

 気付かないふりをして、普通のトーンでそう聞いた。

「いや、雨だけだ、そう言えば」

 そこで彼は、首をもたげてこちらを見て、へらっと笑った。

 

 そのあと、しばらく、二人で窓の方を見ていた。

 相変わらず、薄いレースにさえぎられて、雨は見えない。

 雨音も、聞こえなかった。

「……目が覚めて、窓の方見たら、なんか同じ感じに見えた」

「夢とってこと?」

「うん」

「だから雨って言ったんだ」

「うん」

 彼が足の指で背中をつついてくる。たぶん無意識にやってるんだろう。それかじゃれているのか。

 なぜか、二人してソファから動けなくなっていた。

 気付かないふりをしたのに、部屋中に、そこはかとないかなしさが充満してるみたいだった。

 まるで、見えない雨みたい。

「……外、行く? 傘持たないで」

 ダメもとで言ってみた。

 彼はすぐには反応せずに、その一瞬の間が、悲しみを濃くしたように感じてしまって、やっぱり失敗だったと後悔した。

「濡れちゃうから無理だよ」

 そういう彼の声音からは、感情は読み取れなかったけど。

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