深淵高校 天文学部 その2 ②

「驚かせてごめんね……私、犬が苦手で……吠えられたもんだから、反射的に蹴り上げちゃったの……」


 邪々苑のボックス席に座る岩渕と水谷さん。注文した肉が来るまでの間、水谷さんはダックスフンドを蹴り上げた経緯について謝罪を入れつつ語っていた。


 水谷さんに対して、どちらかというと大人しいタイプという印象を抱いていた岩渕。まさか犬を蹴るなんて想像もしていなかった。


「いやぁ、仕方ないよ。ボクだって苦手な動物に吠えられたらびっくりしちゃうだろうし……」


 フォローしようとする岩渕だったが、水谷さんが犬を蹴った直後に放った言葉が頭から離れない。


『四足歩行のくせに人間様に楯突いてんじゃねぇぞこの犬畜生いぬちくしょうが!』


 男子とはあまり話をしないが、女子と話す時はいつでも笑顔な水谷さんが、あんなことを言うなんて考えられない。最初は聞き間違いかもしれないと思ったが、何度思い返しても、このようにしか聞こえなかった。


 女性スタッフが肉を運んできた。岩渕も水谷さんもスポーツをやっているため、かなり食べる方だ。肉は牛、豚、鳥、様々な種類を三人前ずつ頼んだ。


「トング取ってもらっていい?ここからはボクに任せて!」


 熱い炎に臆せず肉を焼き、皿が空いたらすかさず次の肉を配る。この気配りこそ男の魅せ場。岩渕は同じ男子テニス部員と焼肉に行く時は必ず肉を焼く係を担当した。全ては、水谷さんとの焼肉デートでイケてる自分を披露するために。


「あっ、私もやるよ!トング二つあるから!」


 男に頼りすぎず、自分からも行動する。なんて素晴らしい女子だ。犬を蹴り上げたことを除けば、限りなく理想に近い……岩渕はそう感じていた。


 水谷さんはトングを握ると、生の肉を掴み、直接食べ始めた。


「な、何やってんの水谷さん!生肉食べちゃダメだよ!お腹壊すよ!」


 岩渕が急いで制止する。


「えっ?ウチではこうやって食べてるよ?焼くのって時間かかるから、こっちの方が良くない?どうせお腹に入るんだし。」


 良くないだろ……とは言い出せなかった岩渕。『他人の常識は自分の非常識』という言葉を聞いたことがある。水谷さんの家庭では、肉を生のまま食べるのが普通のようだ。この食べ方を否定するのは、彼女の生き方やご家族まで否定するように思えた。


 水谷さんは注文した肉を全て生で食べた。岩渕は水谷さんの食べ方に合わせて食べるつもりだったが、さすがに生食までは真似できなかった。


「おいしかったね!岩渕くんの言う通り、ここ本当にいいお店!また来たいなぁ……」


 岩渕の心に疑念が湧いてきた。水谷さんはかなり変わった人なのかもしれない、という疑念が。


 会計のためにレジへ向かおうとした時、一匹のハエが水谷さんの周りを飛び始めた。水谷さんは両手でハエを潰すと、死骸を口の中へと放り、飲み込んだ。


「ここは割り勘にしよう!私もいっぱい食べちゃったから!」


 そう言ってレジへ向かう水谷さんの後ろ姿を、岩渕は冷や汗を流しながら眺めていた。


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 今日はかなり暑い。まだ六月上旬だというのに、やかましいほどセミが鳴いている。


 岩渕と水谷さんは、北怪奇公園の中を散歩していた。かなり広くて緑が多く、デートスポットとしても人気の公園だ。散歩コースは家族連れや、ジョギングをする人などで溢れかえっている。


 水谷さんは楽しげに授業のこと、部活のことなどを話してくれた。相変わらず笑顔は可愛らしい。


 しかし岩渕の頭の中は、水谷さんの奇行でいっぱいだった。犬を蹴る、肉を生で食う、ハエの死骸を飲み込む……普通の人間とは思えない。さっきまでキレイな花に見えていた水谷さんが、今は人を死に至らしめる毒キノコのように見える。


 三十分ほど歩いたところで、尿意を感じた岩渕。トイレを見つけたので済ませることに。水谷さんにもトイレに行くよう促したが、大丈夫とのことだった。


 尿を足しながら、女性に対してトイレを促すのは失礼だったかもしれない、と後悔した岩渕。しかし、本当の後悔はトイレを出た後にやってきた。


 水谷さんの姿がない。トイレの周りを探したが、どこにもいない。女子トイレに入った可能性もあるが、数分待っても出てこない。


 気分を損ねて帰ってしまったのかもしれない、と岩渕は不安に感じた。いくら彼女が奇行の目立つ人とはいえ、女性らしく扱わなくていいわけではない。このまま帰らせるのは、岩渕のポリシーが許さなかった。


「ママー、あのお姉ちゃん何してるの?」


 小さい女の子の声を、岩渕の鼓膜がキャッチした。五メートルほど離れた木の近く、母親らしき女性とその娘が木の上の方を見上げている。


 まさかと思い母子に近づく岩渕。同じ方向を見上げると、木の幹に掴まりながら、セミに混ざって『みーんみんみんみんみんみーん』と声を出す水谷さんがいた。高さは地上七メートルほどはあるだろう。


「見ちゃだめよ!帰っておやつを食べましょうね!たべっこどうぶつを食べましょうね!」


 母親が娘を連れて立ち去った。


「水谷さぁぁん!何やってんの!危ないよー!」


 水谷さんはみんみんという声を止め、岩渕の方を見下ろした。


「ごめんねー!暇だったからついー!クセでー!」


 水谷さんはスルスルと、猿のように木から降りてきた。彼女は只者ではない。岩渕の疑念は確信に変わりつつあった。

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