#10『ジッパー』
なんで結婚しないの? 一体何回、その言葉を掛けられるのか、
彼女の
ただ、いざ真剣に結婚について考えてみると妙に踏ん切りがつかない。理由は漠然として、つかみどころがない。故に解決策もなかった。
志津加自身も結婚のことを口にしなかった。彼女が無理に望んでいるわけでもなさそうだったし、気を使っている風にも見えなかった。だから、これまでいくら親や知人から「結婚しないの?」と聞かれても、さほど思いつめることなく、のらりくらりかわし、数を数えて遊ぶという余裕もあったのだ。
しかし、今日は違った。
まだ、薄暗い夜明け前の部屋でリクはまんじりともせず、天井を見つめていた。隣には志津加の立てる穏やかな寝息とひと肌の温もりが壁のように存在している。
『ねえ、私たちっていつ結婚するの?』
昨夜、行為を終えた彼女がそう言った。言葉を残したまま、半裸でベッドに入る志津加を引き留める間もなかった。
それから、リクは一睡もせずにずっと考え続けた。まず考えたのはあまりに打算的なリスクヘッジについてであった。
彼女と身を共にすることでどんなリスクがある? 彼女の両親、そして彼女自身、妙な宗教にハマってやしないか。借金は? 両親、祖父母、曾祖父母に遺伝性の病気はないか?
もし、結婚後彼女が急変したらどうする。子どもが生まれ、愛情の矛先が子供に向けば、自宅に居場所はなくなり、自分はただ給料を運ぶ働きアリになるのでは?
もし、離婚しようものならば資産の半分が慰謝料として持ち去られる。
しかし、夜が更け、朝が近づくにつれそんな邪淫な心を否定する、憤懣たる男気がにわかに湧出してきた。
8年も一緒にいる。現に今もこうして、同棲している。彼女の家族構成、家庭事情も全て知っている。彼女について知らぬことなど、何もないのだ。
たとえ、何か隠し事があったとしてどうだというのか。それを受け止めるだけの気概は充分持ち合わせているつもりだ。
結婚を切り出そう。このまま、夜が明けて朝食を食べる。その時に切り出そう。プロポーズの指輪のことをなんとなく考えたが、今このチャンスを逃せばきっと自分は一生結婚しないままかもしれない。
リクは寝返りを打ち、隣で寝ている志津加を見た。彼女は半裸のまま、無防備な背中を向け眠りに落ちている。
リクは目をつぶり、産毛の生えた背中にそっと手を這わせた。
指先に奇妙な感触があった。柔らかく、ほんのりとしたぬくもり、そのどちらとも真逆の固くひんやりとした感触。それは彼女の首の付け根あたりでぶら下がっている。指でそっと触れると、その塊が揺れている感覚があった。
瞼を開き、薄明かりの中、目を凝らした。視野を狭めながら、闇に眼を順応させていくとやがて感触の正体が分かった。
それはジッパーの引手によく似ていた。銀色の輪が付いたそれが志津加のうなじ、丁度背骨が始まっている辺りにぶら下がっているのだ。まじまじと見ると、引手は当然のごとく、スライダーからぶら下がっている。
背骨を這わせるように指でなぞると、これまた当然のごとく
寝ぼけて、いるのか?
何度か、スライダーを指で確かめ目をしぱたかせたが、何も変わらない。それは相変わらずそこにある。夢でも幻覚でもない。
今までこんなのあったのか?必死にリクは志津加の背中を思い出そうとした。が、人の背中など真剣に観察してこともなければ、一々記憶もしていない。
そもそも、これはなんだ? 指で務歯の付近を触ってみるとどうやらそれは皮膚と結合しているようだった。張り付けたり縫い付けているわけではなく、文字通り結合している。
スライダーの上部は少しの隙間もなく、彼女の肌はぴったりと寸分違わぬ寸法で閉じられていた。
志津加の背中は呼吸の度に大きく胎動している。産毛のなびくさまや、わずかばかりのそばかすは紛れもなく、ほんものの皮膚だ。
しばし、リクはそれを見つめ、一つの欲求と戦った。あのジッパーを下ろすと、いったい何が起きるのか。彼の本能は危険だと警鐘を鳴らしている。
『なんで結婚しないの?』
彼女のことは何でも知っているはずなのに。窓の外にはゆっくりゆっくりと朝日が顔を出し始めていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます