第2話 見ぃつけた

 加藤由美子さんは交通事故に遭い、入院していた。その時の体験。


 幸い怪我の程度は重くなく、足の骨折程度で済んでいた。頭部に外傷もなく、入院期間は10日程度と医師から告げられていた。なにより、顔に怪我をしなかったことが年頃の由美子さんには嬉しいことだったという。


 病棟内では主に車椅子を使っていたが、退院すると松葉杖で生活しなければいけない。由美子さんは時間をみては院内を松葉杖で散歩し、歩く練習をしていたそうだ。


 入院7日目。由美子さんは入院生活にも慣れていた。消灯時間が早いことには始めは閉口したが、早寝早起きの生活もなかなか悪くない。入院前は不摂生だった。退院してからも続けてみてもいいかもしれないと感じたそうだ。

「……なんて、きっと3日で元に戻っちゃうわね」

 由美子さんは廊下を歩きながらくすり、と笑ってしまったとのこと。歩き始めて30分。そろそろ腕が辛くなってきた。

「こんな調子で退院してもやっていけるのかしら」

 少し不安になる。医師からは退院後も1ヶ月はギプスで固定しておかなければならないと言われていた。

 家から近くのバス停まで徒歩5分。10分ほど揺られて電車に乗り換えて30分。電車を降りたら、そこから更に徒歩5分。それが由美子さんの通勤ルートだ。幸い都心とは逆方向のため、通勤時の混雑振りもさほどではない。見舞いにきてくれた上司も、ギプスが取れるまでは通勤時間を遅らせてもいいと言ってくれていた。


 とはいえ、できることはやっておくにこしたことはない。もうすぐ昼食だ。少しホールで休み、昼食が済んだら中庭に散歩に行こうと由美子さんは考えた。

 由美子さんはホールの自動販売機でお茶を買った。冷たいペットボトルの感触が疲れた手に心地いい。


 食事は基本的にそれぞれの病室でとるが、なかにはホールでとる人もいる。ホールは食事を待つ人や見舞い客たちで少し賑やかになっていた。食事を待つ人の前には、私物のスプーンと箸がお行儀よく並べられている。空いているテーブルを見つけ、由美子さんはそこに座った。


 この時間が由美子さんは割りと好きだったという。午前中は検査や採血などで看護師が動き回りあわただしいが、今は穏やかな空気がさわさわと流れている。

 言ってみればちょっとした休暇みたいなもの。

 由美子さんはテーブルの上に放置されていた週刊誌を手に取った。少し前の日付だ。退院した患者の置き土産かなにかだろう。普段週刊誌を読まない由美子さんは、気にすることもなくページをめくる。特に興味もない芸能人たちのゴシップ。そんな記事をパラパラと流し読みしていた。

「ここ、座ってもいいですか?」

 ふいに声をかけられ、由美子さんの手が止まった。

 由美子さんが目をやると、紺色の制服を着た10歳くらいの少年がいる。お見舞いにきたのだろうか。

「ええ、どうぞ」

 少年は由美子さんの前に座ると、持っていたカバンからノートと筆記用具、そして教科書を取り出した。

「宿題?」

 由美子さんが尋ねると、

「いいえ、明日漢字テストがあるから勉強するんです」

 少年はにっこり笑って答えた。少年にしては少ししわがれた声だ。

「いい点とれるといいね」

 由美子さんの声に少年はにこにこ笑いながらうなずいた。愛らしい目元のほくろが印象的だったという。


 やがて配膳車が運び込まれてきた。香辛料のいい香りが病棟内に漂う。どうやら今日はカレーのようだ。食事が意外と悪くなかったのが幸いだった。整形外科病棟ということもあり、食事制限のある人もそれほどではなく他の患者も「ここの食事は美味い」と言っていた。

「加藤さん、今日はここで食べるの?」

 そう尋ねてきた看護師に由美子さんは部屋で食べる、と伝えた。

「君はごはんは大丈夫なの?」

 由美子さんが目の前の少年に尋ねると、

「あとでお母さんと食べます」

 しわがれた声で少年は答えた。

 テストがんばって、由美子さんはそう言って部屋に戻った。


 食事は通常キャビネットに備えられたテーブルで食べるのだが、由美子さんのように足が不自由な場合、ベッドテーブルで食べることができる。由美子さんの部屋は4人部屋だったが、みんな足を怪我していたため全員ベッドテーブルを使用していた。

 ベッドに戻った由美子さんは、一息ついて外を見た。由美子さんのベッドは窓際だ。窓からは心地よい光が入ってくる。今日もいい天気。午後の散歩も捗りそうだと由美子さんは少々の爽快感を覚えたという。


「お食事でーす」

 由美子さんの前に昼食が置かれた。やっぱりカレーだ。香辛料の香りが胃袋を刺激する。入院生活の楽しみと言えば主に食事だ。由美子さんがあっという間にたいらげ、手をそっと合わせて小さな声でごちそうさま、とつぶやくと、

「若い人はさすがねぇ」

 と、隣のベッドの池田さんに声をかけられた。池田さんのカレーはまだ半分くらい残っている。

「この年になると、カレーは少し……ね。献立表をよく見ておけばよかった。おうどんかなにかに変えてもらえたかもしれなかったのに」


 池田さんは買い物中転倒して足を骨折し、この病院に運び込まれた。由美子さんが入院する5日前のことだったらしい。亡くなった祖母にどこか似た池田さんはとても穏やかで、由美子さんはすぐに仲良くなったという。

「しっかり食べて治さないと、庭仕事できませんよ」

 由美子さんはにっこり笑って言った。


 池田さんはご主人と二人暮らしだと言っていた。若い頃息子を幼くして亡くし、それ以来二人きりで過ごしてきたという。そう話す池田さんの顔には悲壮感はなく、ご主人との生活がとても幸福だったことを物語っていた。


 池田さんご夫妻は、子どもを亡くしてから庭で花を育てるのが趣味になったそうだ。季節折々の花を育てて、仏壇に供える。色とりどりの花々を眺めていくうちに池田さんご夫妻の心の傷も癒されていったのだと、以前話してくれた。

「そうね、主人だけじゃ頼りないの。早く退院しなきゃね」

 池田さんはそう言ってスプーンを手に取ったが、結局全て食べきることはできなかった。


 入院生活の一日は長いようで短い。夕食を食べてテレビを見ていたらあっという間に消灯時間だ。昼間散歩で体を動かしているし、21時は電気を消され薄暗いため22時くらいには眠気がやってくる。時計が23時を指す頃には、由美子さんはうとうとと眠りにつきかけていた。


「見ぃつけた」


 ふいに入り口から聞こえてきた声に由美子さんははっとした。少ししわがれた少年の声。あれは昼間に会ったあの少年の声ではないだろうか。こんな時間までなにをしていたというのだろう。由美子さんはカーテンを開け、入り口のほうを覗いた。


―……誰もいない。


 気のせいだったのだろうか。そんなはずはない。由美子さんはベッドから起き上がってドアを開け、外を覗いてみた。


―……やっぱり誰もいない。


 気のせいだったのだろう。たぶんそうだ。少年の声が印象的だったから、きっと夢を見たのだ。由美子さんはベッドに戻り、横になった。やがて再び眠りが訪れた。


―……先生呼んで!


―……血圧測って!血圧!


―……安静室に移動させましょう!


 小声だがあわただしい雰囲気に由美子さんは目を覚ました。時計を見ると朝の5時を指していた。その声は隣のベッドから聞こえてくる。由美子さんはそっとカーテンの陰から様子を伺った。


 池田さんのベッドを2人の看護師が外へ運び出していた。池田さんになにかあったのだ。あんなに元気そうだったのに、どうしたというのだろう。由美子さんは心配になったが、口を出すのもはばかれて不安になりながらまた横になった。


 うとうとと数時間を過ごし、病棟にいつもの朝がやってきた。顔を洗おうとベッドから起き上がる。


 ふと隣の池田さんのベッドを見た。安静室のベッドと入れ替えたのだろうか。シーツもかかっていない空のベッドがそこにあった。池田さんの荷物はそのままだ。

「きっと大丈夫」

 由美子さんは祈るように思わずつぶやいたそうだ。


 いつものように朝食を食べ、いつものように歯を磨く。そしていつものようにホールの自動販売機でコーヒーを買って部屋に戻った。


 池田さんのベッドで、いつもお見舞いに来ていたご主人が荷物を整理していた。

「おはようございます」

 由美子さんはその背に声をかけた。池田さんのご主人がゆっくり振り返って応えた。

「ああ、おはようございます」

 その笑顔はどこかぎこちない。

「あの……」

 由美子さんはそう言ったものの、続けてなんと言ったらいいのか分からなくて口をつぐんだ。

「今朝方、亡くなりましてね」

 ご主人が言う。

「え?」

「医者は心不全とか言ってましたが……突然のことですわ。親戚がきて女房を見ててくれてますんでね、荷物を取りにきたんですわ」


 あの池田さんが亡くなった。怪我は命にかかわるようなことではなかったはずだった。顔色だってそんなに悪くなかったと思う。

「どうも、お世話になりました」

 そうお辞儀するご主人が抱えた着替えから、一枚の写真がすり落ちた。

 ひらりひらりと舞ったその写真が由美子さんの足元に落ちる。拾いあげようと屈む由美子さんを優しく制してご主人がそれを拾った。

「亡くなった息子の写真ですわ。……これも棺に入れてやらんとね」


 ご主人が大切そうに手帳に挟んだその写真の少年には、確かに目元にほくろがあったと由美子さんは話を終えた。

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