第2話長興山の枝垂れ桜

2, 長興山の枝垂桜


  平成九年の春、ある事情で私は自由の身になった。


毎日が休日となったのである。


この機会を生かして今春は関東近辺の日帰りで行ける範囲は全て行ってみることにしようと考えた。


ただし、経済的事情の許す限りという条件付ではある。


まず始めに普段の私では行きそうもない所を選んだ。


長興山の枝垂桜である。


三月の最終日、ホリディパスを利用して平塚まで行き、そこからは別料金ではあるが小田原へ出た。


小田原から箱根登山鉄道へ乗り、入生田の駅で降りた。


寝坊助の私の事なので駅に着いたのはお昼であった。


駅を降りると丁寧に案内板が置いてあって迷うことは無い。


ただ、少々坂道を歩くので運動不足の私の足にはこたえる。


所々の農家の軒先などに採れたてのなんと言う名前か忘れたがレモン色した小さなみかんが


無人販売されていて喉の渇きはいやされる。


余談だがこのみかんがとても美味しくて気に入った私は帰り道に


あっただけの物を買い求めに持つが重かったことを覚えている。


十五分ほど登ると目的の枝垂桜が見えてきた。


巨木である。


根元はきれいに管理され中に入らないようにぐるりと縄張りされている。


樹齢三百二十年、高さ十四メートル、根回り四、七メートル、枝張り十三メートルと書かれている。


花は満開で少し終わり気味なのかもしれない。


葉が出始めている。


これがそうか。


ふむ、なるほどという感じで特別の感動は無かった。


もちろん、その流れ落ちるような枝の迫力にはびっくりしたがそれよりも、


若々しい枝がむくむくと上に伸びてから下に垂れる様を


どう表現できるか悩むことで頭が一杯だった。


大きい樹なのに全体にこじんまりし見えるのは私だけの印象だろうか。


とりあえず他の観客をよけながら桜の樹の周りをゆっくりと一周してみる。


絵に出来る場所を探しているのだがあっちへこっちへと伸びる枝に目を奪われて


「描いてよ」と訴えかけてくる枝が無い。


何回も回ってみるがどこの場面も難しすぎて手が動かない。


それでも、せっかく来たのだからと一枚描いてみる。


が、スケッチブックが小さいせいかこじんまりとしてしまった。


あの、むくむくと天に向かって盛り上がっていたる枝を表現できない。


床屋さんでおかっぱにしてもらった小学生の女の子のようになってしまった。


もう一枚トライしようと思って斜面の方に登ってみる。


斜面はさすがに見物客も少なく邪魔も入らないのでスケッチしやすい。


その分少し遠めになるので枝の重なり具合が良くわからない。


込み入った枝の表現の仕方や花の描き方もわからない。


それでも、後ろで私が絵を描くのを見ていたおじさんに「本職かね」と聞かれ


、すっかり気をよくしてその気になる。


豚が樹に登るとはこのことかな。


内心はこの桜の絵、まとめることが出来るのだろうかと思っていたのだが・・・


本来はこの場で色をつけるべきなのだが小田原城の桜も見たいので


早々にスケッチブックを閉じて山を降りる。


春の嵐か、小田原城の方へ行ったら風が強くなりスケッチブックを広げることも出来ない。


目も開けていられない位の風である。


仕方ない、薄目を開けてそのスクリーンに焼き付けるだけにして足早に見て歩く。


この日の帰り、JRは強風のため運行できず、小田急線で帰ることになった。








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