第7話 「もう、後宮には戻れないんでしょうか」

 通いの老人は幸い、薬によって体調は再び安定し、働けるようになった。


 雹華が青明門まで行った際の顛末を聞いた鈴玉は、雹華にこう提案した。

「この家に来てもう二週間です、雹華様も少し外にお出になっては? 今後もこういうことがあるかもしれないですし、慣れておきませんと!」


 二人はまず家の周りの散歩から始め、徐々に足を伸ばして、坊里の中の道を覚えていった。

 二度目の青明街に行った時には、門には近づかないようにし、店を見て回る。

 けれど、街のどこからでも、門の威容は目に入った。


(旦那様は、主上をお守りする役目を立派に果たされている。そんな旦那様の手助けがしたいと申し上げはしたけれど、ちゃんと夫婦になれなければ、私、役立たずのままね……)

 しかしまだ雹華は、後宮に心を残したままでいた。

(主上……春燕……)


  

 婚礼まで十日に迫った、ある日。

 雹華の母方の伯母・嶺依りょういが、銘軒の家を訪ねてきた。商人と結婚して、万保の西側で暮らしている人物である。

 この日は銘軒も家にいて、雹華とともに彼女を迎えた。


「伯母様」

 母屋の入り口で伯母の顔を見たとたん、雹華は涙ぐんだ。

「ああ、雹華」

 嶺依も、思わずといったふうに名を呼んだ。しかしすぐに、銘軒に向かって礼をとる。

「朱嶺依りょういと申します。この万保に住んでおりますので、遠方の妹夫婦に代わり、雹華のことを気にかけて参りました。久しぶりに顔を見られて嬉しゅうございます」

 ふっくらした体型ながら、きりっとした眉の印象的な、初老の女性である。


 銘軒は愛想よく答えた。

「林銘軒と申します。近くに伯母上のような方がいらっしゃるとは心強い。伯母上もぜひ、我らの婚礼に出席していただきたい」

 雹華はちらっと、銘軒を見た。

(伯母様の前では、私を迎えたことを喜んでいるように振る舞って……。ありがたいことだけれど、複雑な気持ち)


「ありがとうございます。雹華のことも引き受けて下さって、本当に……」

 嶺依は少し安心したのか、礼を言ったが、一言付け加えた。

「あまり女らしいとも申せませんが、妹が世間様に恥ずかしくない子に育てたと思っております」


 暗に、雹華は噂されているようなことなどやっていない、と言っている。


 銘軒は朗らかに答えた。

「俺にはもったいないほどの人です。さあ、どうぞゆっくりして下さい」

 銘軒と雹華は、客間に嶺依を案内した。廊下を歩きながら雹華が嶺依を見ると、嶺依は微笑む。

(伯母様は、怒っていらっしゃらないみたい)

 雹華は少し、ホッとした。


 客間で互いのことを紹介し合い、少し茶など飲むと、銘軒は言った。

「積もる話もおありでしょう。俺は所用を済ませてきますので、どうぞ水入らずで過ごして下さい」

 彼は廊下へと出て行く。


 嶺依は改めて、雹華の息災を喜んだ。

「半年ぶりに雹華の顔が見られて、ホッとしたわ」


 嶺依は、後宮にいる頃の雹華に何度か会いに行ったことがあるのだ。

 宦官や衛士の付き添いがあれば、妃嬪は後宮の外に出ることができ、外朝の宮で客と面会することも可能である。


 親戚たちの近況話が一段落してから、雹華はこう切り出した。

「伯母様、あの……ご迷惑をおかけしています」

 嶺依は軽く目を見開いたが、首を振る。

「噂のことね。うちのことは気にしないで。後宮なんて、女同士で常に蹴落とし合いをするような場所なのでしょ。大変だったわね」

「伯母様には、主上への贈り物など色々と援助していただいたのに」

「何とかしたい伯母心よ。あなたのお父上があなたを後宮にと言い出した時は、雹華みたいな、こう、ふんわりした子だと大変だろうと思って」

 表現を和らげてくれているような、いないようなという感じだが、要するに雹華は妃には向いていないと思ったらしい。

「ま、もしかしたら主上が、そういう子を好むかもしれないし。可能性はなきにしもあらずと思って、反対はしなかったけれど」

 伯母はサバサバと尋ねた。

「あなたなりに、努力はしたんでしょ」

「は、はい……」

 口ごもる雹華である。


「それにしても」

 嶺依は少々苛立たしげに、短いため息をついた。

「まさか侍女がね。会ったことはないけど、春燕……だったかしら? お前を引き立て役にして、主上に取り入ったのね?」

 雹華は首を横に振る。

「そんなことは。春燕はずっと、私を支えてくれました」

「ええ、そうでしょうね。雹華を支えたいと言ったからこそ、周囲も侍女になることに賛成したし、雹華も呼び寄せた」

 ふん、と嶺依は鼻を鳴らす。

「それなのに、よくもまあ恩をあだで返すような真似を! これで春燕が男子を産もうものなら……ああ、想像すると悔しくてたまらないわ」


「…………」

 雹華は黙り込む。

 そして、ためらいがちに口を開いた。

「あの……」

「何?」

 淡々と聞き返す嶺依に、雹華はおそるおそる聞く。


「私は、その……もう、後宮には戻れないんでしょうか」


 嶺依は一瞬、意味がわからなかったようだ。目を見開きながら答える。

「どういう意味? こういう言い方も何だけど、あなたは銘軒殿に下げ渡されたのよ? 戻れないに決まってるでしょう」

「妃としてではなくて、例えば、あの、何か仕事をしに……」


「雹華!」

 ガタン、と、嶺依が腰を浮かせる。

「なんてみっともない! 仮にも妃だった身で、働きにですって!? 春燕にかしずくつもり!?」


 雹華は身をすくめた。

「ご、ごめんなさい。私……」

「雹華」

 嶺依は声量を落とし、声を和らげた。

「大声を上げて悪かったわ。でも、もう忘れなさい」

「……はい……」

 うつむいた雹華の肩に、嶺依はそっと触れる。

「あなたは新しい人生を始めるの。そうでしょう」

「……」

「銘軒殿は受け入れて下さっているようじゃないの、良かったわね。感謝しなくては」

「……はい」

 雹華は小さくうなずく。



 廊下から足音がして、雹華はハッと居住まいを正した。

 銘軒が客間に入ってくる。手に、木箱を持っていた。

「失礼します。雹華殿のご両親から荷物が届いたので、せっかく嶺依殿が来られていることでもあるしと思い、ここで開けようと持ってきました」

「あら、何かしら。もうすぐこちらに本人が来るのでしょうに」

 嶺依が何事もなかったかのようににこやかに言い、雹華も顔を上げて笑顔を作る。


 箱に入っていたのは、立派な香炉だった。雹華の父からの手紙がついており、

『ぜひ夫婦で使ってほしいと思い、都に向かう前に先に送った』

 と書かれている。


(夫婦、で)

 雹華は香炉をじっと見つめて思う。

(ちゃんとした夫婦になれるようにと、お父様もお母様も願って下さっている。旦那様に、申し訳ないと思っておいでなのでしょうね……)



 一方、そんな雹華を、銘軒はじっと見つめていた。

 彼は、二人の会話を立ち聞いていたのである。


『私は、その……もう、後宮には戻れないんでしょうか』


 雹華の言葉には、さすがに銘軒も衝撃を受けた。

(まだ戻りたいほどに、未練があるとは。後宮に──主上のおわす場所に)

 主上のために生きていたという、雹華。

(しかし、追放された。気持ちが高じて、歪んで……もし何か事件でも起こされたら。太上皇の事件の時のように)


 銘軒は、主上に忠誠を誓っている。仮にも自分の妻が、思いあまって皇帝家の誰かに危害を加えたらと想像すると、めまいがした。

(やはり、このままではまずいな。何とかして、吹っ切らせないと)

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