突然のことに驚いて、お母さんを見つめ返す。お母さんは、変わらず微笑んだままだった。

「今までだったら、どうしようって泣きそうな顔になっていたでしょう? 不安でいっぱいっていう顔でね。だけど今は、前を向いている。しっかり向き合っている。お母さん、嬉しいわ」

「そ、そうかな……」

「そうよ。大きくなったわね、苺樺」

 ふわりと抱き締められる。温かくて、心地よくて、少し恥ずかしかったけれど、嬉しくなって。わたしもそっと、お母さんの背中に手を回した。

「そのまま、まっすぐ大きくなってね。後ろなんて気にしないで。植物のように、苺樺にしか咲かせられない花を、咲かせてね」

 優しい瞳を向けられて、胸がいっぱいになる。それは、どうしても言葉にはならなかった。

 そうしていると、足元に温もりを感じた。弟だ。わたしたちの真似をして、同じように抱きついてきたらしい。

「あらあら」

「ぎゅーっ」

 無邪気な笑顔に癒される。吉田くんも、今頃家族と一緒にいるのだろうか。

 今のわたしのように、笑顔だったらいいな。

 そうだったらいい。そうであってほしい。

 そしてまた、みんなで一緒に楽しく過ごせたら。

 そう願う、二月の終わり頃だった。


◆◆◆


 吉田くんが学校に来たのは、三月の初めだった。

 そわそわしながら教室に入ると、彼がいた。

 クラスメイトに囲まれているその様子は、いつもの笑顔を浮かべているそれだったけれど、何故だろうか。心の中で、何かがもやっとした。

 何かが違う。吉田くんは笑っているけれど、どこかぎこちない。

 その微細な変化に気付いたわたしだったけれど、輪の中心にいる彼を、ただただ遠くから見ていることしかできなかった。

「吉田、元気みたいだね」

 そんなわたしの隣に立ったかおりちゃん。片山さんが、小さく首を傾げた。

「だけど、ちょっと疲れてるみたい」

 疲れている……そうなのかな? そうかもしれない。だけど、どうしてだかしっくりこない。

「苺樺、どうかしたの? 何かあった?」

「ううん、なんでもないよ」

「そう……ねえ苺樺、吉田に話しかけに行かなくていいの?」

「うん、いいよ。今は、友達と話しているところだし、わたしは後でいいの」

「苺樺がいいなら、いいけど……そうだ、二人とも。ホワイトデーのことなんだけどね」

「ホワイトデー?」

 かおりちゃんは、とっても楽しそうな笑顔を浮かべている。だけど、ホワイトデーに何かするの?

「皆から、チョコ貰ったでしょ? そのお返しを用意しようかなと思って。クッキーなら、一度にたくさん作れるし、包んで配ったらどうかなって考えてたんだけど、一緒にどう?」

「良いね。賛成」

「うん、やりたい。楽しそう!」

「そうこなくっちゃ。じゃあ後で、どんなクッキーにするか、作戦会議ね」

 茶目っ気たっぷりにウィンクするかおりちゃん。先に戻っていくその背中を目で追うと、ふいに吉田くんと目が合った。

 数秒見つめ合う。しかし、教室内に入ってきた先生の掛け声によって、瞳は逸らされた。

 久しぶりの視線。久しぶりの声。嬉しいけれど、どこかもどかしい。

 せっかく同じ空間にいるのに、遠い。

 もっと話したい。もっとそばに行きたい。聞きたいことや話したいことが、いっぱいある。知りたいことが、いっぱいある。

 前よりずっと願望が溢れて、まみれて、止まらない。吉田くんのことばっかり考えている。

 好きすぎて、苦しい。

 自分の気持ちなのに、抑えられない。止められそうにない。他なんて、手につかない。

 ほんの二週間会えなかっただけで、こんな気持ちになるなんて、恋って怖い。

 だけど、止めることなんてできない。

 できるはずがなかった。

 結局、吉田くんとは放課後まで話すチャンスがなくて、わたしはその日一日、授業に集中できなかった。

「吉田、久しぶり」

 やっと目の前に立てたのは、ランドセルを背負った頃。かおりちゃんが、吉田くんに話しかけてくれたからだった。

「元気だった?」

「まあね」

 朝に感じた違和感が、嘘のようだった。吉田くんは、変わらぬクールさでかおりちゃんに応えていた。

「そっか。急に休むからさ、皆で心配してたんだよね。まあでも元気そうだし、良かったよ」

「心配かけてごめん。急に、前住んでた家に行かないといけなくなってさ。でも、もう落ち着いたから」

「そう……それならいいんだけど……」

 かおりちゃんが、珍しく言い淀む。でもそれは、仕方のないことだろう。これ以上は、聞けそうにない。吉田くんから、話したくなさそうなオーラが出ているからだ。

 空気を読んだ片山さんが、帰宅を促す。それに同意して、みんなで教室を出た。

 門のところでかおりちゃんと片山さんと別れて、木村くんと吉田くんと三人で歩く。

 この光景も久しぶりだ。隣を歩くことができているだけで、胸が高鳴る。

 やがて木村くんとも別れ、二人きりになった。何のことはない話をして、分かれ道に差し掛かる。名残惜しいけれど、仕方がない。わたしが「じゃあ」と手を振ろうとすると、しかし、吉田くんに呼び止められた。

「佐藤……あのさ……」

 何だろうと思い、挙げかけた手を下ろして、吉田くんと向き合う。

 そうして黙って続きを待っていたが、吉田くんは目を泳がせるばかりで、口を開いては閉じることを繰り返していた。

 やっぱり様子がおかしい。どうしたのだろうか。

 わたしが不安に思っていると、吉田くんは目を逸らして「ごめん」と言った。そのまま、背を向ける。

「また明日」

「え……」

 戸惑うわたしをよそに、どんどんと黒いランドセルが遠くなる。何かを言いかけていたけれど、何だったのだろうか。それは、いつか教えてもらえるのかな……?

「吉田くんが、言い淀むなんて……」

 わたしじゃあるまいし、珍しい。

 何だか嫌な予感がするのは、何故だろう。

 わたしはそっと服の上から胸を押さえて、見えなくなった背中を見つめ続けた。

 こんなにも気になるのは、ちらりと見えた彼の瞳に、既視感があったからだろうか。

 怯え、悲しむようなそれを、以前にもどこかで見た気がする。

 しかし、まったく思い出せない。

「気のせい、だよね……」

 自身にそう言い聞かせて、わたしはその場を後にした。それでも、後ろ髪を引かれる思いだった。

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