第16話 とらわれる

 分の悪い賭けだとは思っていた。


 唇を拒まれなかったことにわずかに安堵しつつも、ヴェラの内心は焦燥感に満ち溢れている。これでノエルを繋ぎとめることができるのか、あるいは逆効果ではないのか、不安の種は探すまでもなくあちこちに転がっている。


 両腕をノエルの首に回し、ヴェラの心情を、離れたくないという想いを必死にぶつけた。もちろんその気持ち自体は本物だが、それ以上にノエルを求める者がここにいると知らせなければならない。そうしなければ、きっとノエルはどこかへ消えてしまう。


 ヴェラの推測、いや直感では、ノエルにはおそらく今後も生きていくという発想がない。この数日の間行動を共にしていたが、自分の依頼が終わった後のことを考えている様子がなかった。楽観的な意味ではない。諦観的な意味だ。きっとノエルは自分の人生をもう諦めてしまっている。


 だから、ノエルに理由を作らなければならないのだ。生きる理由を。そのためなら利用できるものはなんでも利用する。さしあたってはこの心と身体を使って、せめて時間を稼ぐ。そうでもしなければヴェラの言葉すら届かない。


 ヴェラは自分がハーフリングの中では優れた容姿をしていると自覚していた。一部の人間にも好まれることも把握している。だがノエルが自分をそういう意味で受け入れてくれるかは未知数だ。目が無いわけではないが、勝算が高いとも言えない。


 とはいえ先日の子守唄と午睡の件で、ノエルの中にある傷の一端に触れられた感触はあった。ノエルはきっと人の温もりに飢えている。なら恋人として、あるいは妹のような家族として、ノエルの懐に入り込むことは不可能ではないだろう。


 生きていて欲しい。消えて欲しくない。せめてその想いだけでも伝わって欲しいと、ヴェラは唇に祈りを込めた。




 理解が追いつかない。


 重なった唇はどんな言葉よりもヴェラの内心を伝えてきた。けれどノエルにはそこに至った経緯がわからない。あれほど説明されてもなおわからない。


 人にはそれぞれ価値観があると言ったのは誰であったか。悲しいかな誰しも己の価値観の枠から逃れることは難しいものだ。ヴェラにとって大事なものを、ノエルは理解できなかった。ノエルという存在に価値を見いだしているなどと、信じられるわけがない。なぜなら、ノエルは無価値であるはずだから。ずっとそう言われてきたのだから。


 ノエルには生まれた時から、生かされる理由が存在した。その理由が無ければ存在してはいけないと言われ続けてきたのだ。そしてその理由は、何事もなければいずれ消えてしまうモノだった。


 用が済めば速やかに消えることを求められた人生。異母弟の予備としての役割のみを与えられ、しかも役に立つ事態は歓迎されない。予定通りにただ存在し、時が来れば無意味に消えることが最善とされたのだ。


 そうと知らされても、何を求められているのか理解できても、なお死にたくなくて生き足掻いた。何度も何度も、血反吐を吐きながら自らの価値を示した。見てくれと、自分は役に立つと、己と他者の血で濡れた成果を差し出したのだ。だがその価値が認められたことは一度もない。


 それでも諦めずに積み重ねてきた戦績を、手を血に染め命を削りながら築き上げた記録までも否定された。そして突きつけられたのだ。お前は用済みだと、道端で無意味に野垂れ死ねと。


 だから、ノエルは燃え尽きたバーンナウト。何もかもを諦めざるを得なくなったのだ。


 そう、諦めた。何もかも届かなかった。ノエルという個には一切の価値がなく、ノエルという意思は誰にも顧みられない。


 ……だと、いうのに、何もかもを諦めた後に、最後にただ一度だけ、自分はここにいると、ただ八つ当たりがしたかっただけ、なのに、どうして、彼女は、こんなにも……あたたかい。


 ノエルはその時、やっと気付いた。自分が涙を流していることを。その両腕が小さくて暖かくて優しい女性を強く抱きしめていることを。自分の心が、囚われてしまったことを。




 これは明らかに失敗だ。


 ヴェラは己の見通しの甘さを嘆いた。途中までは上手くいっていたのだが。


 まずヴェラの唇を拒まれなかった。これはいい。これでも美少女を自負しているのだから、この時点で拒否されたらもう嫌われているか他に心に決めた女がいるかだろう。そうでなくて本当に良かった。


 次にノエルが抱きしめ返してくれた。ここまでもいい。むしろ大勝利だ。願わくば雰囲気に流されただけだとかいうオチはつかないで欲しいと祈ったくらい。


 だが問題はここからだ。


 ノエルが泣き出した。静かに涙を零し始めたと詩的に言った方が近いだろうか。だが問題はそこではない。こんなの予定になかった。昔近所の悪戯小僧をぶちのめした時とはわけが違うのだ。こんな時どうすればいいのかわからない。


 しかもヴェラを抱きしめる腕に段々力がこもってくるではないか。まずい。ノエルはどうやらかなり鍛えてあるらしく、普通の成人男性に比べても筋力がある。抱きしめられてうっとりできたのは1分足らず。それ以降は背骨が折れやしないかと生命の危機を感じていた。


 人のことはあまり言えないが、ノエルの態度はあまりに必死すぎないだろうか。これは恋人に愛を伝える抱擁ではない。妹を慈しむ抱擁でもない。まるで母親に縋っているようだ。普通母親とこんなに長く唇を重ねないだろうとは思うものの、そのあたりをゆっくり考える余裕はない。おもに息苦しさのせいで。


 このままでは死ぬ。せっかく目的を達成したのに死ぬ。ノエルのために死ぬのは本望ではあるものの、ノエルのせいでうっかり死ぬのは勘弁願いたい。ここまで上手くいったのに、成果も受け取れず死ぬなぞ真っ平である。


 なんとか落ち着かせようと、ノエルの背中を撫でるように叩く。あまり当たって欲しくない直感だが、ノエルの求めているモノが母親のような存在なら、求めるモノを演じ与えることが最も話が早い。こんな時に言葉が紡げないのは不便極まるが、口づけを始めたのは自分なので文句も言えない。


 だが結局のところヴェラが解放されたのは、料理を運び込むために店員が室外から声をかけてきた時だった。それまでヴェラの意識がもったのは奇跡というしかない。我に返ったノエルが慌てて介抱したが、その姿が店員の目にどう映ったのかは容易に想像できる。きっと急に発情しておっぱじめたとでも思われていることだろう。


 なんにせよ、これで落ち着いて話ができそうである。少なくとも、ヴェラに何も告げずノエルが消えるような事態だけは回避できたはずだ。背骨の痛みを堪えながら、ヴェラはそう確信していた。

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