第14話 にげそこなう

 手足を砕かれて泣き喚くオーエンを見下ろしながら、ノエルは途方に暮れていた。速やかに無力化できたのはいいのだが、この後どうするべきかを決めかねていたのだ。


「ぐぁあああ! ぎえええぇぇぇ!」


 まずこのいかにも重そうな大男を、憲兵詰め所に運ぶというのはできれば避けたい。不可能ではないが、かなり大変だ。おまけに派手に泣きわめいているので煩くてかなわない。


「何しやがったんだてめぇ! この卑怯者がぁ!」


 だがここに放置しておけば無慈悲な物取りたちに、大きな石でも頭に落とされて死ぬことになるだろう。ノエルとしてはそれでも別に構わないが、そうするとオーエンの証言が取れなくなる。それで困るのは実はヴェラなのだ。


「いでぇよぉ! 俺が何したってんだぁ!」


 オーエンが生きて憲兵隊の尋問を受けた場合、この頭の悪さであるから遅かれ早かれ全部白状させられるだろう。打合せも無しにフランシスと口裏を合わせるような、器用な芸当ができるとは思えない。


「なあ、助けてくれよぉ! お前がやったんだからよぉ!」


 だがオーエンが死んだ場合、フランシスはここぞとばかりにオーエンに罪を被せるだろう。それくらいの才覚はあるだろうし、その程度で痛む心は持っていまい。


「聞いてんのかよぉ! ああいてぇチクショウ! 覚えとけよぉ!」


 そしてフランシスのしたことは詐欺と傷害なので、刑罰としての投獄期間が元々それほど長くない。それがさらに短くなると、下手をすればレアード海運の強制的な資産整理が終わる前に釈放される可能性が出てくる。


「治ったらてめぇギタギタにしてやるからなぁ!」


 経営者であり所有者であるフランシスが投獄されていれば、ヴェラへの支払いは調停局がレアード海運の資産を差し押さえて代行できた。だがフランシスが釈放されてしまうと、調停局の指示の元フランシスが支払うことになる。それではヴェラにとって少々都合が悪い。


「なんか言えよてめぇ! 耳ついてんのか!」


 なぜならヴェラの訴えによる請求額のうち、法的に支払い義務があるのは六割程度に過ぎないからだ。残りの四割は、レアード海運側に拒否する権利がある。これは未払い給与を過去に遡って請求する場合、法的に強制力があるのは2年前までとなっているためだ。それ以前の給与を請求すること自体はできるが、強制力がない。


「誰か助けてくれぇ! 頭のおかしい奴に襲われたんだ!」


 レアード海運側に法律の専門家がついていなかったので、まだフランシスは拒否できることに気付いていないだろう。だがあの男は頭が悪いわけではない。行動の自由を得たなら関連する法律を精査して、そのことに気づく可能性は充分ある。


「おいてめぇら! ぼさっと見てねぇで俺を助けろよぉ! ああいてぇ!」


 そうなればヴェラの夢は一気に遠のくだろう。満額を手にしても中古の小型船舶に手が届くかどうかという金額だったのだ。それが四割減れば当分夢は実現しまい。あの可愛らしい顔が失意に歪む様子が目に浮かぶようだ。


「こうなったら自力で逃げてやる! チクショウ! 俺は負けねぇえええぃいってえええぇぇぇ!」


 とはいえそれでノエルになんの損があるかと言えば、別にない。ただヴェラの役に立てたという自己満足に泥が着くだけだ。内心であれだけ格好をつけて出てきておきながら、なんとも締まらない結果になるだけ。大したことではないと言えばない。が、


「それはちょっと見過ごせませんね」


「な、何がだよ! まだ俺に何かする気かよ! もういいだろうが!」


 つまりノエルが自己満足に浸りたければ、ここでオーエンを死なせず憲兵に引き渡さなければならないのだ。できればヴェラに見つからないように、こっそりと。


「やるしかありませんか。面倒ですけど」


「ひっ、ひいいいぃぃぃ! 来るな! 来るなぁ!」


 何を恐れているのか、唯一無事な左足をばたつかせるオーエン。下手に動けば骨折箇所が痛むだろうに、無駄に元気である。


 ノエルは軍の訓練で負傷者を運搬する方法を習得していたが、運搬される側が暴れている場合の対処法などは知らない。大人しくさせる方法も知らない。死体にする方法ならいくつか知っているが。


「まあ、気を使う必要は別にありませんね」


「何を、すうぐえええぇぇぇ」


 色々と方法を考えたノエルだったが、結論としてはオーエンの首の後ろ襟を掴み、引き摺っていくことに決めた。もちろん、オーエンの苦悶だの悲鳴だの抗議だのは一切無視だ。


「やめ、苦し、助け、クソが、死ぬ、いてぇ!」


 右肩、左肘、右膝を砕かれた状態で石畳の上を引きずられるオーエン。運ぶノエルも大変だが、オーエンの状態はかなり悲惨だ。特に貧民窟スラムが近いせいか、道の整備がいい加減で凹凸の多い道だったことが災いした。


「勘弁して、いい加減に、ぐえぇぇっ!」


 最終的に最寄りの憲兵詰め所のあたりまで、細く赤い線を描きながら移動することになったのだ。オーエンはそろそろぐったりし始めていたが、ノエルは気にしない。オーエンは死んでさえいなければ、むしろ証言を取るのに時間がかかる状態であったほうが都合がいいのだから。


 むしろノエルにとってはここからが問題だ。憲兵はオーエンを引き取ってはくれるだろうが、同時にノエルから事情を聞きたがるだろう。そうなれば今ヴェラがいる憲兵本部まで同行を求められるに違いない。それは困る。


 それに憲兵に身分を明かせば、これもガードナー家に連絡が行くだろう。別に悪いことは何もしていないが、足取りを知られるというだけで落ち着かない。


 ならばどうするのか。簡単だ。詰め所の近くにオーエンを放り出していけばいい。ノエルはオーエンの前で名乗ったことはないので、オーエンがノエルの情報を漏らす心配はない。


 結論が出たノエルは、ほぼ気を失ったオーエンを詰め所近くの路地に放り込んだ。貧民窟からは少し離れたし、ここならすぐに見つけてもらえるだろう。


「これなら問題ありませんね」


「ようまあこんな重たいオッサン一人で運んだなぁ。大変やったやろ?」


「……へ?」


 聞き覚えのある高く澄んだ声が、背後からノエルの耳に届く。今一番聞きたい声で、今一番会ってはいけない人物の声だ。しかも、なにやら底冷えするような気迫がこもっている。


「ようやっと見つけたでぇ。このお手紙について、ちょーっとオハナシを聞かせてんか?」


 恐る恐る振りむいた先には仁王立ちするヴェラの姿。その手には宿に置いてきた別れの手紙が、くしゃくしゃになって握られていた。

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