第10話 くらいつく

 ノエルが安らかな午睡をしてから3日が経っていた。就寝時のノエルは相変わらず魘されていたが、以前に比べれば徐々に改善している様子だ。少なくとも睡眠不足に陥るほどの状態は脱している。


 改善の理由ははっきりしないものの、この3日間ノエルが別の部屋に移ろうとしなかったことはきっと無関係ではないだろう。そのわりにヴェラからの再度の子守唄は顔をそむけながら固辞していたが。


 そうこうしているうちに調停局からレアード海運の件で連絡が届き、今日は調停の当日である。ノエルが作成したヴェラの訴状に対し、レアード海運の代表であるフランシスはむしろ自分たちが被害者だと反訴を申し立ててきたのだ。


「なあノエル、ウチらの言い分って法律にそってるはずなんよな? なんで反対に訴えられるん?」


「訴えそのものは法律にそっていなくても申し立てできるんですよ。お互いの主張がぶつかった時に法律に照らし合わせるのが法廷における調停です。この時にきちんと反論しないと相手の主張を認めたことになって、法律がどうあれ相手の主張が通ってしまいます」


「なんやそれ。ほな法律のことをなんも知らんで訴えられたら、えらいことになるんちゃうん?」


「なります。だから代行士という職業が成立するんです。戦う力を持たない商人が護衛を雇うようなものですね」


「なるほどな」


 ここ数日の間にヴェラはノエルから法律に関する簡単な知識を教えてもらっていた。今日はノエルがヴェラの代理人として矢面に立つが、何も知らないことでノエルの足を引っ張ることがないようにするためだ。


「あまり心配はしていませんが、あくまでも僕は代理人です。最終決定権はヴェラにあるので、ヴェラの発言は僕より優先されます。そこだけ注意してください」


「ん、わかった」


 こうして打合せを終えた二人は、フランシスとの調停の場である調停局の法廷へと出廷したのだった。




 法廷には既にフランシスと調停官が着いていた。フランシス側も専門の代行士を雇うことはしておらず、出廷したのはフランシス一人だ。彼は何やら調停官に話しかけていたようだが、内容まではわからない。少なくとも調停官のほうは無表情で、フランシスの主張に感銘を受けた様子は無かった。


 全員が揃うと調停官から注意事項が伝えられ、調停が始まる。まずは先に訴えを起こしたヴェラの申し立てだ。


 ノエルがヴェラから預かった委任状を提示して代理人であることを周知した後、長々とした訴状を一気に読み上げた。


「当方の訴えとしては第一にヴェラ嬢の負わされた借金についての正当性がなく、これまでに支払った金額の返還を求めるとともに、詐欺行為の賠償を求めます。第二に就業して4年が経過しているにも関わらず待遇が見習いのままであり、最初の契約時にあった一人前と認められた場合の給与を支給されていません。これも詐欺行為であり、差額の支払いと詐欺行為に対する賠償を求めます。第三に借金を盾に取った過酷な労働によって陥った重度の過労に対する治療費の請求と、傷害行為に対する賠償を求めます。以上が当方の主張です」


 ノエルの主張に対し、余裕の表情で構えるフランシス。よほど自信があるのだろう。ノエルの申し立てが終わるとわざわざ聞こえるように鼻で笑った。


 フランシスの態度に対し、調停官とノエルは特に反応しなかったが、ヴェラだけは不快感を顔に出している。これまで一緒に働いてきた上司ではあるが、これが本性かと思うとやはり騙されていたのだという想いが深くなったのだ。


 続いて調停官に促され、フランシスが反訴の内容を読み上げる。


「アテクシの主張は三点。一つはヴェラの訴えた内容は最初の契約書にそったものであり、レアード海運に落ち度はないということ。二つはヴェラが急に退職したことで発生した損害の賠償を求めるということ。三つは退職した以上借金の即時返済を求めるということ。以上ね」


 そう言いつつ持論の根拠らしき書類を取り出して並べた。まだ始まって間もないというのに、既に勝ち誇ったような笑みを浮かべている。


 双方の主張が出揃ったところで、調停官はノエルに対し、個々の主張を説明するよう求めた。


「では第一の訴えから述べさせていただきます。ヴェラ嬢はレアード海運に所属して最初の業務中におかした失敗に対し、借金を負わされるという形で罰則が適用されました。これはあきらかな法律違反であり、この借金には正当性がありません」


 ノエルの主張に対し、フランシスが反論する。


「異議あり。ヴェラはレアード海運に入る際に、レアード海運の規約を遵守するという契約を交わしているわ。そしてうちの規約には従業員は発生させた損害を補填する義務があると規定してあるの。この契約がある以上、借金には正当性があるわねぇ」


 ここで一度息をついたフランシスは、畳みかけるように付け加えた。


「お若いアナタたちにはわからないかも知れないけど、一度交わした契約は絶対なの。おわかり? わかったら訴えを引っ込めなさいな」


 嘲りを込めてフランシスが言う。それを受けたヴェラはフランシスのやり口に眩暈がするほどの怒りを覚えた。確かにヴェラは規約に従う旨の契約を交わしたが、あんな規約は無かったはずだ。この調停が決まってから付け足したに違いない。


 だが一方のノエルは平然としていた。まるでフランシスの主張など聞こえないかのようだ。


「契約は絶対とはまた、都合のいい言葉ですね」


「それが大人の世界ってもんよ。子どもには厳しかったかも知れないわねぇ」


 余裕をもってノエルを見下すフランシス。自分の勝利を全く疑っていないのだろう。だが、彼の余裕はここまでだった。


「では貴方の主張は、私的に創設された商会に過ぎないレアード海運の内部規約が、恐れ多くも歴代の皇帝陛下がお定めになった帝国法より優先するということでよろしいですか?」


「あん?」


「ですから、レアード海運の内部規約ごときが帝国雇用法より優先すると主張されているのですよね?」


「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! なんなのよその理屈は!」


 ノエルの持ち出した論法に焦りを覚えたフランシス。もしかしたら、自分は何か重大な失敗をしたのではないかという疑念がわずかに脳裏をかすめる。


「そのままの意味です。貴方はレアード海運の内部規約を作成する際に、帝国雇用法を全く考慮せず作った。何事も無ければそれで良かったのかも知れませんが、問題が発生して表沙汰になってしまえばそんなものにはなんの意味もありません。当然の帰結として帝国法が優先適用されます」


「そんっな、バカなことがあるはずないじゃない!」


 フランシスの叫びに構わず、ノエルは調停官に確認する。


「どう思われますか、調停官殿?」


「ノエル殿のご主張の通りですな。レアード海運の内部規約より帝国雇用法が優先されます」


「そんな……」


 調停官の答えに呆然とするフランシス。これで彼の一つ目と三つ目の主張はほぼ負けが確定してしまった。ヴェラの借金は無効となり、これまでの返済分も返還しなければならない。


 予想外に発生した損害に戦慄したフランシスだったが、彼の悪夢はまだ始まったばかりだった。

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