匂い

「え、あ、ただいま」


 勢いよく出迎えた私に、理沙ちゃんは戸惑ったようにまた挨拶をした。そんな理沙ちゃんを見てると、なんだかおかしくなってきてしまう。


「何回も言わなくてもいいよ。荷物持ってあげるね。」

「あ、ありがと」


 まずは普通に迎える。慌てて玄関でする必要もないもんね。理沙ちゃんが手洗いをして部屋着に着替え、ソファにつくまでついて回る。理沙ちゃんはなにやら居心地悪そうにソファの上で身を小さくしている。


「あの、なにかな。私、何か変?」

「ううん。そうじゃないんだけど……」


 ……あれ、ちょっと匂いかがせて、って。ちょっと変かも。わざわざ口に出して断ってするって言うのはちょっと、うーん。よし、わからないようにさりげなくしよ。


「今日、朝はほんとにごめんね。お詫びの印に、肩もんであげる」

「え、いいよ、別に。朝のも……気にして、ないから」


 立ち上がってソファの後ろに回り込む私に、理沙ちゃんは一度は私を目で追ったけど、気にしてないといいながら前を向いて私から顔をそらしたので、いいつつもんでほしいみたいだ。理沙ちゃん、時々肩回したりしてるもんね。

 今回口実だけど、遠慮しなくていいのに。肩くらいいくらでももむのに。まあもんだことないから、うまいかはわかんないけど。


「下手でも許してね。じゃあいくよー」


 理沙ちゃんの背後から両肩をつかむ。そしてぐっと親指に力を入れるようにして鷲掴みするようにもむ。


「んっ!? え、かたっ。こんなに肩って固いものなの!?」


 もむ、というより、表面の皮に皺を寄せているような感じで、二度三度と力をいれてみても全然ほぐれていく気がしない。


「ん、ごめん。私、結構凝ってる方だから。あの、無理しなくていいから」

「できるとこまで頑張る」


 人の肩は確かにもんだことないけど、自分で自分の肩はつかめるんだから、人間の肩がどのくらいの肩さでどんな感じに筋肉があるかはだいたいわかる。だからぐっとしても痛くないはずだ。


「ふんっ、んっ。うんっ。ふうっ……ふー、どう? ちょっとずつ、ほぐれてきたと思うんだけど」

「う、うん……気持ちいいよ。あの、でもその、無理しないでいいから。私、肩凝ってるのなれてるし」

「今は、かたいけど、毎日、はあ……毎日すれば、柔らかくなって、楽になる、はずだよっ」


 理沙ちゃんの肩がこんなにかちこちだったなんて。きっと毎日のようにパソコンでお仕事してるからだ。大変だって言うもんね。もっと早く気付いてあげればよかった。これからは私がマッサージしてあげなきゃ!


 私は理沙ちゃんの匂いをかぐという当初の目的もわすれ、10分ほどかけてしっかり理沙ちゃんの肩をもみほぐした。さすがに親指が痛くなってきたし、理沙ちゃんの肩も筋肉に指がめり込んだ感じがするくらいにはほぐれてきたから、今日のところはこれまでだ。


「うー、疲れたー。肩揉みおしまいね」


 私は指先をぶらぶら振りつつ理沙ちゃんの肩に腕を置いて休憩する。ほんとにジンジンする。肩を揉むだけでこんなことになるとは。ほんとに疲れた。


「お、お疲れさま。あの、ありがとう。気持ちよかったよ」

「はぁー、うん。でもこれからは毎日肩揉んであげるね。そうしたらもっとほぐれるだろうし」

「えぇ、悪いよ。別にこのくらい。あ、理沙ちゃん前向いて」

「え? う、うん」


 ようやく最初の目的を思い出した私は、振り向いてお礼を言った理沙ちゃんの頭をそっとつかんで前を向かせ、そのままそっと頭に顔を寄せて触れないようにそっと匂いをかいだ。


「……え? なに? なにかしてる?」

「……ううん。隣、戻るね」


 私は理沙ちゃんの隣に戻って座り、そのまま理沙ちゃんと反対方向に倒れて丸まって手で顔を隠した。


 ……めっちゃ理沙ちゃんの匂いした。当たり前だけど、なんか、同じシャンプーとリンスの匂いにすごい地肌の感じの匂いが混ざって理沙ちゃんって感じの、なんか一瞬懐かしさと、なんか、なんか……すっごい、ドキドキしてしまった。

 何この感情。わかんないけどしんど。


「あ、そ、そんなに疲れたの?」

「うん……ちょっと、寝るね。まだ夕ご飯作るまで時間あるし」


 今日は理沙ちゃん帰ってくるの早かったし、私も買い物なしなのでまだ4時過ぎくらいだ。だからちょっと、昼寝ってことにして気持ちを落ち着けよう。


「あ、あの、よかったら、あの、肩もんでもらったし、そのぉ……私の膝、つかう?」

「うん? ……膝枕ってこと?」


 使う? と言われて一瞬意味が分からなかったけど、顔を隠しながらちょっとだけ首を曲げて理沙ちゃんを見ると自分の膝を撫でていて、ドラマや漫画ではあることなので察した。

 確認のため尋ねると理沙ちゃんは目をそらしながら頷いた。


「そ、そう。あの、全然、よかったら、なんだけど」

「……じゃあ、その、お願いします」


 折角の申し出だし、何よりこの不思議な感覚をもう一度味わいたい気持ちもあって、膝枕ってなんだか憧れてたのもあって、私はそう顔を隠しながら提案に乗った。のそのそとした動きで顔をあわせないようにしながら姿勢をかえ、私はそっと両手をあげた理沙ちゃんの膝に頭を乗せた。


「あ……」


 理沙ちゃんの膝は思ったより柔らかかった。温かくて、太ももは私の肩より少し高いくらいで、顔を押し付けると枕くらいでちょうどいい。自然に、いつも枕にうずめるようになって匂いをかいだ。


「あの、どう? 痛かったり、する?」

「……ううん、理沙ちゃんの膝、ちょうどいいよ」


 さっきと違ってシャンプーとかの匂いはない。布独特の衣類の匂いと、奥にある人の匂い。他の誰でもない理沙ちゃんの匂い。

 それは私の体に染み渡るようで、ほどよい太ももの弾力感もあってとても心地よくて全身の力が勝手に抜けていく。


「……ありがとう」

「ん、肩揉みくらいで、そんなに何度もお礼言わなくていいよ」

「うん、そうじゃなくて、その、いっつも。全部。色々してくれるし、その、そうじゃなくても、いてくれて。ありがとう」


 そう言いながら理沙ちゃんはそっと私の頭を撫でた。その不器用な手付きに、私は記憶があふれるのを感じた。懐かしさを感じたのはこれだ。私は前もこんな風に、理沙ちゃんの匂いをかいだことがあったんだ。


 親戚の集まりではいつも、理沙ちゃんと一緒にいるのが当たり前だった。血縁関係的にも、年齢的にも近かったし、理沙ちゃんがいつも自分から寄ってきてくれていたから。そんな時の、ずっと前のこと。ずっとずっと前、小学校にあがるかどうかくらいの時、私は今みたいに理沙ちゃんに膝枕されて頭を撫でられながらお昼寝をしたことがあったんだ。

 その少し前に食べたソーダアイスの冷たさ、熱い夏のこもった匂い、そんな記憶が一気に蘇ってくる。理沙ちゃんは、私のことが最初から好きだったから、いつも優しくしてくれたんだ。自分から積極的に話しかけてはくれなかったけど、さり気なく傍にいてくれて、声をかけると嬉しそうにして遊びにだってなんだって付き合ってくれた。


「……馬鹿だなぁ、理沙ちゃんは」


 お礼を言うのは、私の方なのに。いつもよくしてくれて、私のことを考えてくれて、私を大事にしてくれて、私を、好きでいてくれて。私がどんなに嬉しいか、ちっともわかってないんだから。

 いてくれてありがとう、なんて。聞いたことないセリフ。私がただいるだけでいいなんて。そんな風に思うのは理沙ちゃんだけだ。そして、理沙ちゃんだからこそ、私もこんなにもその言葉が嬉しいんだ。


「え、ご、ごめん。馬鹿で」

「もう、そうじゃなくて……ありがとう、理沙ちゃん。私を好きになってくれて」


 戸惑うようにして止まってしまう理沙ちゃんの手を両手をのばしてとって、そっと頬に摺り寄せながらお礼を言う。


 初めて会った時から特別と言われて、最初それを正直引いてた。ロリコンすぎるって思ってた。でも、なんでかな。今は嬉しい。

 だって今、実感として、もう私が忘れてしまうくらい前から理沙ちゃんは私を好きでいてくれたんだ。


 私が家にいて寂しかったり、意味もないのに泣けてきてしまったり、何だかうまく眠れなかったり、時々不安になってしまってた時がある。でもそんな時も、理沙ちゃんは私を好きでいてくれたんだ。

 傍にいなかったけど、私を思ってくれている人がいたんだ。本当の意味で、世界で独りぼっちだったわけじゃないんだ。


 それは、何の意味もないのかもしれない。だけど今になって、理沙ちゃんの気持ちが嬉しくてたまらない。

 誰かに思われているって言うのは、ただそれだけで幸せな気持ちになれるんだ。今更どうしようもない過去のはずなのに、心が慰められることがあるんだ。

 理沙ちゃんの気持ちがすごく嬉しい。嬉しくて嬉しくて、きっと嬉しい以上にもっとすごい感情の名前があるんだろうってくらい、気持ちががあふれてるくらいだけど、私は嬉しいとしか言えない。でもとにかく、嬉しい。


「理沙ちゃんが私のこと好きでいてくれて、傍にいてくれて、それだけで、幸せだよ。私も、大好きだからね」


 こんな事、顔を見ながらじゃとてもじゃないけど恥ずかしくって言えない。でも不思議と、膝枕をしてもらってると顔をあわせないからか、ただ幸せだなってお風呂にゆっくり使ってるみたいな穏やかな気持ちでそう言えた。

 私は固まってる理沙ちゃんの手に顔を擦りつけてから、そっと手の甲に唇をあてた。びくっと指先が震えたのがおかしくて、そのまま指先にも唇をあてる。


「は、春ちゃん……」

「うん……」


 理沙ちゃんが私の名前を呼ぶ。それがさらに、私の心を落ち着かせる。膝枕を始める時はそんな気はなかったのに、本当に眠くなってきてしまう。理沙ちゃんの手をつかむのに、手を少しソファから持ち上げているのもおっくうになってきて手を離す。理沙ちゃんの手は私の顔の前で停止していて、ちょっとだけくすっと笑えた。


「ねぇ、ちょっと、眠くなってきちゃった。ちょっとだけ、お昼寝してもいい?」

「う、うん……もちろん、いいよ」

「起きるまで、頭、撫でてくれる?」

「うん……ずっと、するよ」


 理沙ちゃんの手が動いて、私の頭に移動する。その手付きはやっぱりぎこちなくて、それが私を眠りに誘った。

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