その4「むずむず」

 これは、おれが先輩から聞いた話だ。こういう話で実名を出すのもどうかと思うので、仮にAさんとする。

 Aさんはアパートで一人暮らしをしている大学生で、特に変わった所のない、ごく普通の人間だった。

 そんな彼は少し前からある事に悩まされていた。

 それは…。


   *   *   *


 ある日、Aさんは大学の講義を終え帰宅し、夕食をとった後にすぐ布団に入った。疲れていて眠かったし、風呂に入るのも面倒だったという。

 そして直ぐに寝入ってしまったのだが、深夜一時頃、唐突に目を覚ました。

 なんだか、心臓の辺りがむず痒いのだ。虫が這っているかのようにむずむずし、不快な感覚だったという。

 身体の表面ならば搔く事も出来たのだが、むず痒いのは身体の中…言ってしまえば臓器だという事で、対策のしようが無かった。

 痒みは暫くするとピタリと収まった。まるで最初からそんな事は無かったかのように、Aさんの心臓は動き続けている。何だったのだろうと首を傾げつつ、Aさんはまた横になった。今度は痒みに襲われる事無く、朝まで眠る事が出来た。


   *   *   *


 その時はそれで終わりだったのだが、一週間後の夜中、また心臓の辺りに痒みを覚えた。今度は長く続き、体感時間で三十分ほど痒みが続いたのだという。

 それからも心臓の痒みは続き、痒みを覚える間隔は次第に短くなっていった。遂には毎日それに襲われる事になり、しかも痒みが持続する時間はますます長くなっていく。眠れない日も多くなり、困ったAさんはとりあえず病院に行って医師の診察を受ける事にした。

 しかし医師にも原因は分からなかったようで、「不整脈ではないか」と言われただけだった。何かよく分からない薬をもらったが、飲んでも痒みは収まらない。ただ無駄に金を使っただけだった。

 Aさんは寝不足になり、疲れ切った顔で毎日を過ごす事になった。


   *   *   *


 それから暫く経ったある日、また夜中に痒みに襲われ、Aさんは目を覚ました。

 中々収まらない痒みに辟易しつつ、とりあえず水でも飲もうと思い台所へ行こうとした瞬間、不意にゴホゴホと咳き込んだ。

 口を押さえた手の中に何かがこぼれ落ちる。それを見て、Aさんは思わず声を上げた。

 それは―数十匹の虫だった。体躯は五センチ程で、蚯蚓に無数の足が生えている様な奇異な見た目をしていた。

 Aさんは悲鳴をあげ、反射的に手の中に居る虫達を床に叩きつけるようにして投げた。

 大半は潰れて床に汚らしいシミを作ったが、何匹かはまだ生き残っている。

 Aさんは荒い息を吐き出しながらほうきとちりとりを持ってきて、床の虫達を片付けた。

 あんなものが自分の中にいたなんて…寄生虫か何かの類だろうか?

 とりあえず、台所に行き水を飲む。それでひと息ついて…ようやく自分が起きた理由を思い出した。

 そうだ、自分は胸の痒みに襲われて、落ち着く為に水を飲もうとしたんだ。

 胸の痒みは収まっている。まだ緊張冷めやらぬまま、眠ろうと布団に入ったところで…ひとつの可能性に思い当たった。


 もしかして、あの虫がむず痒さの原因なのか…?


 現に痒みは収まっている。心臓に居た虫がどこをどう通って口から排出されたのかは分からないが…その可能性は高いのではないか?

 恐ろしい考えだが、その可能性が高い事を否定出来ない自分が居る。

 Aさんの目は完全に冴え、先程とはまた別の理由で寝付く事が出来なかった。


   *   *   *


 それからは夜に心臓の痒みに悩まされる事は無くなった。

 …少なくとも、おれがこの話をきいた時には心臓の痒みは起きていないようだった。

 だが、次に会った時、Aさんは深刻な顔をして、


「またむず痒さが始まった」


 とおれに言った。

 一縷の望みをかけて病院に行ってみたが、相変わらず結果は不明。痒みは収まる気配を見せず、何より体内に変な虫が居ると考えだだけで嫌な気持ちになるという。


「卵でも植え付けられたのかなぁ…」


 Aさんはそう言って、深いため息をついたのだった。

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