【黒鉄孝之、浅尾真綾(3)】

 真綾に手を引かれるまま森を歩いていると、やがて視界がひらけて棚田が見えてきた。

 ほんの数時間前までは真綾を探しに刀背打邸へ行く目的があったが、今となってはその必要もなく、ふたりでこのケツバット村から無事に逃げ出す術を考えなければならなかった。


「真綾、お腹は? 咽喉のども渇いてるんじゃないのか?」

「ありがとう、わたしは大丈夫だから。孝之こそ、何か食べたりした?」

「ああ、うん。旅館から持ってきたケツバット天然水を飲んだかな」


 苦笑いで答える孝之に、真綾も顔をわずかにほころばせた。


「そんなのもあるんだ、知らなかったな。……ねえ、孝之」


 笑顔が一瞬だけ陰ったかと思うと、真綾は棚田の先を指差して注意をうながす。


「この村の村長の御屋敷に、わたしたち以外の観光客が大勢捕まっているって、村人が話してるのを聞いたんだ」

「えっ、本当かよそれ!?」


 旅館から逃げ延びたのは自分たちだけで、後は村からの脱出方法だけだと考えていた孝之にとって、それはなんとも言えない貴重な情報だった。


「うん。だから……孝之、なんとかその人たちを助けてあげられないかな?」

「ええっ……? 助けるったって……」


 真夜中とは違い、昼間の今は百人以上もの村人たちがそこら中を徘徊しているはずである。しかも、村長の屋敷には人質が大勢いると言う。確実に見張りの数も大勢いることだろう。


「ねえ、孝之。みんなを助けようよ。わたし、自分たちだけ逃げても嫌だよ」


 汚れ無き真っ直ぐな眼差しで見つめる真綾が、孝之の両手を掴んで必死にすがる。

 このまま自分たちだけが助かったとしても、この先、何かのきっかけでケツバット村の出来事を思い出すだろう。そして、罪悪感にさいなまれ、残りの人生を後悔しながら生きることにもなってしまうのだ。


「わかったよ、助けに行こう。でも、これ以上は危ないと判断したら、オレたちだけでも逃げるぞ。いいな?」


 孝之の言葉に、真綾はとても嬉しそうに笑顔でうなずいて応えた。



     *



 森を抜けてから大通りの坂の上にある刀背打邸までは、不思議と村人にかち合うことなく辿たどり着けた。

 道すがら、なぜか真綾は不機嫌そうではあったが、それを除けばここまでは特別なにも問題がなく、目の前の門扉も開かれていて見張りすら誰もいない。幸先は良さそうだと、孝之は思った。

 入口には〝刀背打真右衛門〟と毛筆手書きされた表札が掲げられており、その邸宅は本格的な両袖付きの長屋門で、実際に武家屋敷として使われていたのではないかと、素人の孝之が見てもそう思えるほどの立派なつくりであった。


「開いてるみたいだね」

「ああ。誰も居無いな」

「孝之、入らないの?」

「いや……入るよ。入るけどさ…………おい! 真綾ッ!」


 孝之よりも先に真綾は足早に開け放たれた門へ近づく。堂々と中の様子をうかがいい、そして、なんの迷いも無くスッと入っていってしまった。


「ったく、信じらんねぇよマジで!」


 苛立ちを隠せない孝之が、後を追いかけて門をくぐる。

 そんなふたりの姿を、頭上の監視カメラが静かにとらえていた。



     *



 暗闇の中で、様々な電子機器が赤や緑の妖しい光を放って作動する。

 いくつも壁に埋め込まれてある監視カメラのモニター画面のひとつを見ながら、細身の背広姿の男が黒縁眼鏡を中指で直す。

 そして、事務椅子の背もたれにゆっくりと寄り掛かり、うしろに立つ米蔵老人に話しかけた。


「米蔵さん、そろそろ出番ですよ。今回もよろしくお願いします」

「はいよぉ。あの東京とうきょうもんケツさぁ、ぶっ叩きまくるんべぇ!」


 米蔵老人はモニター室を意気揚々に出ると、廊下に立て掛けてある錆びた釘が数十本打ち込まれた特製バットを手に取り、鼻唄まじりで去っていった。


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