第9話 【わたしは思わず逃げだしてしまった】

「こんにちは」


 いつものように挨拶しながら図書室に入ると、カウンターの貝守さんがくちびるに人差し指を当てた。そして視線を窓際の席へ向ける。


 珍しく先客がいた。しかも井崎さんだ。彼女は背筋を伸ばし、本を読んでいる。


 ――絵になるなあ……。


 映画のワンシーンを切り抜いたかのようだ。ここから始まる物語はおそらく日常系ミステリーだろうと妄想する。井崎さんのミステリアスでただならぬ雰囲気にぴったりだ。


 井崎さんは本を閉じ、立ちあがった。借りるようだ。


 本を探すふりをしながら横目で見ると、借りようとしている本のタイトルがちらっと見えた。俺でも知っているSFの超有名作品『冬のドアの向こう』だった。


「ありがとう」


 手続きが終わり、低くよく通る声で礼を言うと、井崎さんは本を鞄に仕舞いこんで図書室をあとにする。


 ――……?


 ドアを出ていくとき、いつもクールな彼女の表情に一瞬だけ興奮と喜びの色がにじんでいたような気がした。


 彼女が去り、しばし間を置いてから貝守さんに尋ねた。


「さっきの本ってさ、今度映画化されるやつだよね?」

「いえ……」

「あれ? 違った?」

「プライバシーなので、話せないんです」

「あ、そっか。ごめん」


 いつなにを借りたかはもちろん、利用者の所属、性別、連絡先などの個人情報は保護されなければならない。それは図書館だけじゃなく学校の図書室も同じだ。ちょっとデリカシーがなかった。


「井崎さんとはなにか話した?」


 すると貝守さんは頭が飛んでいきそうなほどの勢いでぶるぶると首を振った。


「まさか……! む、無理です……」

「どうして」

「住む世界が違いすぎます」

「そうかな」

「隣の席の子に話しかけるのも緊張するのに……」

「友だちになれるかも」

「無理ですよ……」


 と、背中を丸める。


「でもさ、本好きの友だち欲しくない?」

「それは……」


 否定はしない。


 ――意外と気が合うと思うんだよなあ。


 井崎さんが垣間見せた嬉しそうな顔。あの表情を俺はよく知っている。それは、読書しているときの貝守さんの表情だ。


 きっと井崎さんも本が好きに違いない。機会があったら彼女と話してみよう。俺はそう心に決めた。





 木曜日の三、四時間目はA組とB組合同の体育の授業となっている。体育館を半分に分け、男子はバスケ、女子はバレーだ。


 運動が得意でも不得意でもない俺は活躍はせず、かといって足を引っぱりもせず、まったく目立つことなく無難に試合を終えた。


 球技となると運動部の連中がやたらガチンコでやりたがるので、その熱量にちょっと引く。まあ、そいつらにパスをしておけばあとは勝手に頑張ってくれるので楽ではあるのだが。


 隣のコートで歓声が上がった。


 女子たちが得点者を囲んで祝福する。その得点者は井崎さんだった。クラスメイトたちのハイタッチには応えずクールな表情のままこくっと頷くだけ。長い髪をポニーテールにしたスポーティな装いだが、応対はいつもの井崎さんといった感じだ。


 観戦していた女子たちのあいだから、


「すげー」

「顔も頭もよくて運動もできるとかなんでもありか」

「手足なげえ」

「先生からの評判もいいのはなんなん?」


 などと、嫉妬混じりの羨望の言葉が聞こえてきた。有名税というやつだろうか。井崎さんも大変そうだ。


 授業が終わり、ぞろぞろと教室にもどる。その集団の中に井崎さんの姿が見当たらなかった。


 なんとなく気になってあたりを探す。すると教室へのルートから外れた廊下を折れていく姿がちらっと見えた。


 彼女のあとを追おうと俺も集団から外れる。


「どうした?」


 友人に声をかけられた。


「トイレ」

「帰り道にもあるじゃん」

「大なんだ」

「なるほど。ってか昼飯前に想像させるな」

「悪い」


 俺は笑ってごまかし、井崎さんの消えたほうへ小走りした。


 彼女は職員室に程近い、人気ひとけのない水飲み場で水を飲んでいた。


 井崎さんは俺に気づいたが、とくになにも言わず、ハンドタオルで口を拭いてその場を去ろうとした。


「あのさ」


 呼びとめると、いつもの冷静な顔を俺に振り向けた。


「井崎さんって本好きなの?」

「……だったら?」


 表情は変わらないが、なんだか警戒されているような感じがする。


「いや、なんとなくそうなのかなって」

「それって君に言う必要ある?」

「あ、ありませんけど……」


 井崎さんの圧力に思わず敬語になってしまった。


 彼女はこくっと頷き、こちらに背を向けた。


 まちがいなく好かれていない。であるなら今以上に嫌われたってたいして変わらないと思い、俺はあの件を探ってみることにした。


「今度『冬のドアの向こう』が映画化されるよね。あれって面白いのかな」


 井崎さんは立ち止まり、もう一度俺のほうを見た。


 昨日、彼女が借りていった本だ。盗み見ていたことを自白するような問い。嫌味くらいは言われるだろうと覚悟しながら答えを待つ。


「それはひとによる」

「え?」


 思わぬまともな応答に虚をつかれた。


「だ、だよな。SFって難しそうだし」

「難しそうな描写はほとんど飛ばしても構わない」

「そうなの?」

「SFっぽい雰囲気を作るための演出であることが多いから。まして『冬のドアの向こう』みたいな古い作品だととくに。話自体は意外とシンプル」


 やっぱり井崎さんは本が好き――それもけっこうな読書家のようだ。


「というか昨日借りてったやつ、もう読んだの? 早いな」

「あれはまだ少しだけ」

「でも知ってるふうな口ぶりだけど」

「新訳のほうを読んだから。あれは初訳」

「古い翻訳ってこと?」

「そんな感じ」

「そっちのほうが面白いんだ?」

「全然。読みにくい」


 そう言うわりに井崎さんの口元にはかすかな笑みがこぼれていた。


「なんか嬉しそうだけど」


 すると表情がもどってしまった。ちょっともったいない気がした。


 癖なのか、井崎さんは人差し指でちょっと泣きぼくろに触れて話す。


「絶版だから」

「もう売ってないんだ?」

「古本屋やオークションを探せば。でも高い」

「だから図書室で見つけて、嬉しかったと」

「……否定はしない」

「俺も読んでみようかな」

「読むなら新訳がいい」

「分かった。ありがとう」


 井崎さんは去っていった。やはり本が好きなようだし、無愛想でとっつきにくいが意外と親切だ。今度それとなく貝守さんに伝えてみよう。


 蛇口を逆さにして水を飲む。顔を上げると、向かい側の校舎の二回から誰かがこちらを見ているのに気づいた。


 貝守さんだ。俺が手を挙げるとぺこりと頭を下げて逃げるように去っていった。


 ――……?


 遠かったし、俺だと気づかなかったのだろうか。


 食い入るように読書する貝守さんが思い浮かぶ。


 ――たしかに視力は低そうだな。


 俺は口元を袖で拭い、教室へ足を向けた。



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