第3話 【もう彼は来ない】

 教室に戻り、鞄を回収して校舎を出る。足がふわふわして、月の上でも歩いているような気分だった。


 次の水曜日が待ち遠しい。こんな気持ちは、小学生のころ、ネズミがドンの某夢の国に初めて連れていってもらえると親から聞かされたとき以来だ。


 木曜日も金曜日も、俺はテンション高めに過ごした。土曜日と日曜日は、貝守さんと再会する前に少しでも知識を増やそうと、電子書籍のサイトでランキングをチェックしたり、ネット小説のアプリをダウンロードして目についた小説をブックマークした。


 しかし月曜日、そんな浮ついた気分は徐々に冷めてきて、火曜日にはほとんど絶望に変わっていた。


 学校から帰宅して、へたりとベッドに座りこむ。


 ――ぐいぐい行きすぎたかも……。


 俺は両手で顔を覆った。


 貝守さんのことを考えず、自分の欲求だけで行動してしまった。多分、いや絶対引かれた。まともに話をしたのはあの日が初めてなのに、「君のいる日に図書室に行くよ」だなんて――。


 ――俺、気持ち悪う……。


 それを告げたときの彼女の戸惑った顔を思いだすと恥ずかしくて恥ずかしくて大声で喚き散らしたくなる。


 合わせる顔がない。


「はあ……」


 ため息をついてみたが、胸の苦しさは少しも楽にならなかった。




 水曜日になっても気持ちはどんどん沈んでいく一方だった。


 放課後、俺は鞄を持って教室を出た。


 T字の廊下に突き当たる。右に進めば特別教室棟。そこには図書室もある。左に進めば玄関。


「……」


 俺はしばし立ち止まったあと左に折れた。


 玄関で靴に履きかえ、校舎を出る。


 足が重い。頭がぼうっとする。プールでくたくたになるまで泳いだあとみたいな感覚だ。もちろん今日は体育の授業すらなかったから身体の疲れが原因ではない。


 気分を変えようと、自販機で紅茶を買って公園のベンチに座った。


 ペットボトルをあおる。鼻に紅茶のよい香りが抜けていく。しかし、いつもはほどよく感じる苦みが今日はやけに舌を刺す。


 気をまぎらわそうとスマホを手にとる。しかしこんな辺鄙へんぴなところにフリーWi-Fiの電波など飛んでいるわけもなく動画を観ることはできない。SNSのタイムラインは散発的なつぶやきばかりだし、トレンドを見てもイデオロギー色の強い主張ばかりでかえって気が滅入る。


 手持ちぶさたになって意味もなくホーム画面をスライドすると、見慣れないアプリに通知が来ていることを示すバッジがついていた。


 ――これ……。


 そうだ。この前ダウンロードしたネット小説のアプリだ。その後、急速に落ちこんだ俺はその存在すら完全に忘れていた。


 アプリを開く。ベルのマークの通知欄にとある小説の更新の知らせが届いていた。


『古書店サボテン堂』


 見つけたときはまだプロローグしか投稿されていなかったが、主人公の女の子が無口な文学少女で、貝守さんの気持ちを知る参考になるのではないかとブックマークしておいたものだ。


 昨夜、第一話が投稿されていたらしい。


 ――もう読む必要もないな……。


 アプリを落とそうとしたとき、誤ってリンクに触れてしまった。


 小説が表示される。平易な言葉で書かれた文章は読みやすく、目が自然と文字を追っていた。


 放課後、祖父の古書店でバイトをしていた主人公の栗生くりう茅乃かやのが、最近このあたりに引っ越してきた小野山おのやまくんという男子と出会うエピソード。


 本が好きという彼は茅乃に積極的に話しかけるが、茅乃はコミュニケーションが苦手で、まして同年代の男子相手だと余計に緊張してしまい、しどろもどろに応対してしまう。


 バイトを終えて帰宅後、茅乃は風呂の湯に浸かりながら自己嫌悪していた。


【彼の冗談に返事すらできず、微笑むことすらできなかった。頭の中で言葉が浮かんでも、これを言ったら相手を不快にさせてしまうのではないかと心配になり、ブレーキがかかってしまう。そうこうしているうちにタイミングを逃し、結局押し黙るだけ。余計に相手を不愉快にさせてしまう。その繰り返し。】


 ――俺と同じだ。


 彼女は黙る。俺はしゃべる。行動は正反対なのに、根っこはイコールだった。


 さらに読み進める。


【「好きな本はなに?」

 彼の質問に、わたしは我を忘れて長広舌をふるっていた。ふつうの受け答えはできないくせに。こんなのはもはや暴走だ。】


「……そんなことない」


 俺は口の中でつぶやく。


【口下手を治したいと言ったわたしに彼は、


「それは利き手を矯正するようなものだと思う」


 と言った。


「無理に自分を社会に合わせるのは、自分で自分をいじめるようなものじゃないかな」


 そして「ごめん、知った風な口をきいて」と謝った。


 その謝罪にもわたしはなにも返せなかった。ただそれはブレーキがかかったからではない。ひとと上手にコミュニケーションをとることが圧倒的に善であると信じ込み、信じ込まされてきたわたしにとって「無理をする必要はない」という彼の価値観はとても新鮮だったから、言葉が見つからなかったのだ。


 嬉しかった。でも、本当にこのままでいいのだろうか。こんなわたしで。】


「……こんな、なんて言うなよ」


【不憫に思って優しい言葉をかけてくれただけだろう。本当はきっと引かれている。】


「引いてない」


 惹かれたんだ。


【また来ると言ってくれたが、おそらくもう彼は来ない。】


「……」


【でももしも来てくれたなら。そのときは、どんなにたどたどしくても気持ちを伝えたい。】


 俺は立ちあがった。景気づけに紅茶を一気飲みする。もうさっきみたいな苦みは感じなかった。


 学校へ走る。


 貝守さんのことが知りたい。そう思ったはずなのに、俺は自分のことしか考えず、彼女の声にならない声に耳を傾けることから逃げていた。


 こんな時間に学校へ逆走する俺に、帰りの生徒たちが怪訝な目を向ける。忘れ物を思いだした間抜けな奴と思われているだろうか。いや、実際そのとおり。俺は忘れ物をした。


 玄関に飛びこみ、上履きに履きかえるのももどかしく、かかとを踏んづけたまま特別教室棟へ小走りする。


 図書室前に到着するころにはふとももはぱんぱんだし息も荒れに荒れていた。でも心臓が破裂しそうなのは急な運動のせいだけではないらしい。


 震える手で図書室の引き戸を開ける。めまいがするほど鼓動が激しくなる。


 一歩、足を踏みいれた。


 カウンターの貝守さんが顔を上げる。


「ちょっと遅れた」


 俺は緊張をごまかすように笑う。


「べつに待ってないって? ははっ」


 貝守さんはなにも言わない。うつむき、浅い呼吸をしている。


「貝守さん?」

「あ、き……」


 言葉が詰まる。彼女はすーっと息を吸いこみ、搾りだすように言った。


「来てくれて、嬉しい、です……」

「……」


 なにか返事をしないと。そう分かっているのになにも思い浮かばない。


 そしてようやく出てきた言葉は――。


「お、俺も」


 それだけだった。


「ほ、本、探そうかな!」


 調子はずれの声でそう言って、俺は本棚のあいだに逃げこんだ。


 胸を押さえる。必死に気持ちを伝えてくれた貝守さんの様子に、俺の鼓動は静まるどころかさらに高鳴っていた。


 ――これって……、これって……!


 文学の棚の、ある一冊が目についた。そのタイトルは――。


『初恋』


 ――まじか……。


 腰が砕けて床に座りこむ。


 ――どんな顔をして貝守さんの前に出ればいいんだ……。


 俺はしばらくのあいだ本棚のあいだで気持ちが落ち着くのを待つしかなかった。





 その日の夜、また夢を見た。




 俺はスーツを着てパイプイスに座っている。正面には会議テーブルをはさんで三名の面接官。そのうちのひとりが俺の履歴書を見ながら言う。


「大学ではボランティアに打ちこんだとありますが、具体的には?」


 想定していた質問。答えは当然用意してきている。


 なのに言葉が出ない。焦る。泣きそうになる。


 履歴書に大きなバツを書かれた。面接官たちは呆れたような顔をして部屋を出ていく。


 制止しても止まってくれない。ひとり取り残され、俺はがっくりとうな垂れた。


 ――……?


 服装が変わっていた。さっきまではスーツだったのに、いつの間にか俺は学校の制服を着ていた。


 顔を上げる。そこは図書室だった。カウンターでは女の子――貝守さんが本を読んでいる。


「あ、貝守さん、ここ……」


 彼女は俺を見て、人差し指をくちびるに当てて「しー」と言った。


 ――あ、そうか。


 肩の力が抜ける。


 ――しゃべらなくてもいいんだ……。


 テーブルの上に置いてあった本を開き、俺は読書をした。


 それはかつてないほど穏やかな時間だった。


 やがて下校を促す鐘が鳴る。


 嫌だ。俺はまだここにいたい。


 しかし鐘は鳴りやまない。


 鐘? いや、なぜかその音色は電子音だった。


 ピピ、ピピ、ピピ。




 目を開ける。俺の部屋の天井が見える。


 アラームを止め、身体を起こす。すっきりとした目覚め。久しぶりに熟睡した気がする。


 俺は立ちあがり、カーテンを開けた。朝日が目に飛びこんでくる。


「よし」


 俺は意気揚々と登校の準備をしはじめた。




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