弐話
この後、一行は釣殿に移動した。
夕刻であり、御簾を半ばまで降ろし、四方で虫よけの香を焚く。
八の宮さまの御席には畳が敷かれ、三人が向き合って座ると、侍従たちが膳を運んできた。
昆布だしの冷茶漬け、干し梅、揚げ菓子、
酒を満たした銚子もある。
八の宮さまは侍従たちを下がらせ、その姿が見えなくなると――両足を伸ばして、ごろりと畳に横になられた。
「はああああああ~、疲れる~」
「宮さま、お行儀が悪い」
中将殿が諫めたが、八の宮さまは
「そう言うな。頭の固い奴だな。おい、和明とやら。お前も肩を突っ張るな。びわなんぞは食えれば充分だ」
膳に手を伸ばし、干した
「おっ、なかなか強い酒だな。
皇子らしからぬ振る舞いに、和明殿は唖然とした。
風雅のかけらも無いが、堅苦しい暮らしに辟易なさっているのだろうか。
助け舟を求めて中将殿を見ると、口元を袖で抑えて忍び笑いをしている。
どうやら、心を許す友人にしか見せない御無体なのであろう。
「ほれほれ、飲~む~ぞ~♪」
八の宮さまは、自ら銚子を手にして、盃に酒を注ぐ。
「和明、そんな顔せずに飲め!」
「いえ、私は水で」
「元服したら一人前だ。ほれ、飲め!」
八の宮さまに勧められ、しぶしぶと盃の水を飲み干し、酒を注いだ。
舌先で舐めてみると、芳醇な香りが鼻から抜けた。
悪くない味で、すーっと流し込むと、甘味に頬が火照る。
かくして――月下での酒宴が始まった。
「ぎゃははははは! 和明ぃ~、ほれほれ♪」
「みやしゃま、もぉ飲めまちぇん」
顔を真っ赤にした八の宮さまと和明殿は、寝そべりながら揚げ菓子をかじる。
中将殿は、盃三杯で寝入ってしまい、欄干にもたれかかって寝息を立てている。
「おーい、酒を持て! 誰か来てえ~♪」
八の宮さまは空っぽの銚子をかかげ、渡殿の奥に控える侍従に呼びかけた。
しばし後に――柔らかな衣擦れの音が近付いて来た。
和明殿がぼんやりと目を開けると、衣が顔をこすった。
見上げると、透き通った
月光を浴び、白い肌が目にも鮮やかに浮き上がって見える。
後ろ姿だったので顔は見えなかったが――はてと顔を上げる。
しかし……女の姿は、釣殿には無い。
女が引き返す姿は見なかったのだが……。
(我が家に、あのような姿で歩く女が居たか?)
和明殿は首をひねる。
暑さしのぎに、薄物の
だが、皇家の血筋の母と姉は、そのような装束を嫌った。
珍しさも相まって、上半身を起こして女を探す。
渡殿を覗くと、控えている筈の八の宮さまの侍従はいない。
奥は真っ暗で、さまよう小舟に乗っているように感じた。
傍らの八の宮さまは、盃を鼻に置いたまま、いびきを搔いていらっしゃる。
中将殿は、欄干を抱いて眠っている。
そして――中央に、丸い赤い盆と白い盃が置かれている。
酒宴が始まった時には、こんなものは無かった。
(……あの女が持って来たのか?)
這い寄って盃を覗き込むと……望月(満月)が映っている。
慌てて、夜空を見上げると――上弦の月(半月)が浮いていた。
――酔っているのか、夢なのか。
――盃に映るは望月で、空にあるのは上弦の月である。
顔を上下させていると……どこからともなく香しい匂いが漂ってきた。
虫よけの薫物とは異なる香りである。
(……この香りは……)
頭が次第にはっきりして来る。
すると――突然、水に落ちた。
(ぐはっ!?)
水の冷たさに驚き、手足を亀のように動かす。
だが、海女のように泳いだことは無い。
必死に瞼を開けると、八の宮さまと中将殿も腕を大きく動かしている。
釣殿が壊れ落ち、三人揃って池に落ちたとしか思えぬ――。
そのうちに――次第に明るさが増して来た。
息苦しさも無い。
まさか、極楽浄土に向かっているのか――
だが突然に、身を包む水は消えた。
三人とも、地に這いつくばっている。
引っ張られたように身を起こすと――真上には、巨大な望月が浮いている。
望月は赤味を帯びており、妖しい光を地に注いでいる。
「何だ、あの月は!?」
八の宮さまは叫んだ。
「宮さま、これは、物の怪の仕業やも知れませぬ! 和明殿もこちらに!」
中将殿は、いち早く正気を取り戻したようだ。
三人は背中合わせに立ち、周囲の闇を見渡す。
目を凝らすと……先に、巨大な山門が浮かび上がった。
御所を囲む塀より、遥かに高い。
「あの怪しい山門は何だ? ここは鬼界か!?」
八の宮さまは、腰を抜かして座り込む。
和明殿も身震いした。
夢であれと祈るが、これは現実だと――何かが耳打ちする。
――内なる何かが。
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