第13話

「冷たっ…!」 

 和樹は、思わず声を出す。

 我が家の浴槽のぬるま湯に浸かっていることを思い出すのに、数秒間かかった。

 上野を助けるために、真昼間まっぴるまから、風呂に飛び込んだのだが……

 

「上野、無事か!?」

 バッと左を向き、洗い場に座り込んでいる上野を見て、和樹は絶句した。

 上野も、どこからか震える声を出す。

「ナシロぉ……」


 信じ難いが、上野の顔が無かった。

 ぞくに言う『のっぺらぼう』である。

 顔面には、眉も目も口も鼻も無い。

 のっぺらぼうの顔面は、薄く白いもやに包まれているように、ぽや~んとぼやけて見える。


「こ、こ、これは……」

 笙慶しょうけいさんは尻餅を付いて、壁にもたれかかっている。

 僧侶と言えど、想像を超えた事態に、読経も出てこないらしい。


「ナシロ……オレの顔が無くなった……」

 上野は半泣きの声を出す。

 彼の正面には、鏡がある。

 目は無くても周囲は見え、声は出せるらしい。


「待ってろ、上野…!」

 和樹は咄嗟とっさに思い付き、浴槽から出た。

 全裸のままで、脱衣所に投げ置いたデニムパンツのポケットを探る。

 岸松おじさんの言葉を思い出したのだ。


『風呂の湯を入れる醤油さしだがな……予備をいくつか持っておけ。お前の他に、必要になる人が出る気がするんだよ』


 それに従い、父と入浴した時の風呂湯を入れた醤油さしは、いつもポケットに入れている。

「これを持って、上野」

 醤油さしを上野のチェック柄のオーバーシャツのポケットに入れた。


 すると、フワッと上野の顔面が現れた。

 上野は鏡を見て、顔を撫で、歓喜して叫ぶ。

「うおっ、うあっ……顔が戻ったっ!ある、ある、顔がある!」

「あの……上野、ちよっと」

 

 和樹は、上野のシャツポケットから醤油さしを出す。

 再び、上野は絶叫した。

「うぉあっ!?また顔が消えたーっ!!」

「上野、ごめん……」

 和樹は脱衣所に座り込み、醤油さしを見て息をく。

 この湯入り醤油さしが、上野の命綱いのちづなのようだ。


 


 30分後、リビングで和樹・上野・笙慶さんは重苦しい顔で座っていた。

「つまり……和樹くんは、幽体離脱をして『悪霊』と闘っているのですね?」

 笙慶さんは、信じがたいと言う顔でうなる。

 しかし、和樹の隣でボケーッと座る上野の顔面消失を見てしまったのである。

 事実を受け入れる他に無い。


 和樹も首をすくめつつ、説明を繰り返す。

「はい、その、亡くなった祖父の幽霊の言いつけで。転入してきた蓬莱ほうらいさんに憑いている『悪霊』を倒してるんです。幽体離脱した僕は『神名月かみなづきの中将』という名前です。平安時代の貴族っぽい服装で、刀を持ってます」


 和樹は、この場では嘘をついた。

 現れた幽霊が、死んだ父親の裕樹ひろきだとは言えなかった。

 上野が「笙慶さんは、お前のお母さんを好きなんじゃ」と言ったせいで、それがかせになり、真実は話せなかった。


「和男くんたちが居た場所も『魔窟』なのですか?」

「僕たちが去年に行った夏祭りの風景でしたので、上野の思い出の中かと」

 笙慶さんに聞かれ、和樹は答える。

 上野の話だと、洗面所で手を洗っていると、浴室で水の流れる音が聞こえ、のぞいてみたら、いきなり顔面をつかまれて引っ張り込まれたらしい。

 しかし、この世の外の世界について、真面目に僧侶と話しているとは奇妙だ。

 

「あの……和男くんが連れてた女の子たちのことだけど」

 上野は、醤油さしを握りながら言う。

「その子たちは、オレのお祖母ばあちゃんの、お姉さんたちだと思う」

「はあ?」

 和樹も笙慶さんも、唖然と口を開けた。


「『静子しずこ』と『幸子さちこ』は、お祖母ばあちゃんのお姉さん二人と同じ名前なんだよ。兵隊だった祖父じいちゃんがソ連から帰って来たのは、戦争が終わってから、ずっと後だと聞いたことがある。ソ連の黒パンのかたまりを、いくつか持って来たんだって。祖母ばあちゃんは、パルプ工場で働いてたみたいだ。オレのお祖母ちゃんが生まれたのは、祖父じいちゃんが帰って来てからなんだよ」


「お祖母ばあさまのお姉さま二人は、御存命ごぞんめいでいらっしゃるのですか?」

 笙慶さんは身を乗り出し、上野はうなずいた。

「はい、姉妹三人とも。祖母ばあちゃんは、お祖母ちゃんが高校生の時に亡くなりましたが、お祖父ちゃんは70歳ぐらいで亡くなりました……」


 上野は神妙に頭を下げる。

「今は、余り持ち合わせが無いんですが……和男くんのために、お経をあげていただけませんか?」

「上野……」

 和樹は、友人を見直した。

 物事を深刻に考えないと思っていた上野の、忘れていた優しい一面を思い出す。

 ひとりぼっちだった和男くんが、彼を引き入れ、自分と出会ったのは運命だったのかも知れない。


「お経料は、りませんよ」

 笙慶さんは微笑んだ。

「ぜひ、和男くんのために祈らせてください。お願いします」


 そして承継さんは脱衣所に移動し、お経を唱えてくれた。

 和樹と上野は狭い廊下に並んで座り、手を合わせて祈る。


 読経どきょうが終わり、笙慶さんは帰り支度したくを始めた。

 帰って、お寺の掃除をするそうだ。

「和樹くん、昌也くん。困ったことがあったら、すぐに知らせてください」

「ご心配をかけて申し訳ありません。宇野さまも、お気をつけて」

 和樹たちは玄関に座って、笙慶さんを見送る。

「あの、宇野さま……僕の母には、僕の『悪霊退治』などの件は」

「分かっています。決して言いませんよ」


 笙慶さんの答えに、和樹は安堵あんどした。

 母には多少の霊感がある。

 いつまで、ごまかせるかは分からないが、心配をかけたくはない。



 笙慶さんが去った後、二人はリビングに戻った。

 ポテトチップスを開封し、コーラをコップに注ぎ、何とも言えない面持ちで向き合う。

「とにかく、醤油さしの予備をたくさん用意しとく。寝る時も手放すなよ」

「……泣きてえよ」

 上野は、ガックリと首を垂れる。

「こんなん、両親や兄ちゃんに知れたら、どうするよ。どっかで、すっぽりかぶれるマスクを買うわ…」

「ごめん……僕が、お前のお面を奪った『悪霊』を逃がしちゃったせいで」

「言いたいことはあるけどよ……まあ、お祖母ちゃんのこととか、ちょびっと分かったしな。お前の秘密の仕事もな」

「誰にも言うなよ。絶対に、お前の顔面は取り戻すから」

「分かってるって」


 上野はポケットに入れていた醤油さしを、テーブルに置く。

 ふぉーっと上野の顔面が消えた。

 和樹は口をゆがめるが、上野はポテトチップを口に入れ、コーラを飲む。

「うん、普通に食えて飲めるんだな。アテにしてるぜ、ナシロ」

「ああ……頑張るさ」


 和樹は答える。

 だが、不安は募っている。

 『霊界』の出来事が、現実に影響するなど、とても怖ろしいことだ。

 よもや、上野の顔面が持って行かれるとは、こうしていても信じがたい。

 『神名月の中将』が天狗にライフルの銃弾を撃ち込まれた時は、この体に影響は無かったようだが……

 改めて、闘いの厳しさを思い知る。



 そして夜に、また和樹は父の裕樹と浴槽で向き合う。

「それで、上野くんも『桜南高さくらみなみこう』を受けると?」

「うん。顔がいつ戻るか分からないから、僕と一緒の高校が良いと。受験勉強は、お兄さんに見て貰うって」

「そうか……やはり、『霊道』を固定して置くのはマズイかもな。和男くんは、彼に縁のある上野くんが近付いたから、『霊道』に反応して、上野くんを引き込んでしまったんだろう。『霊道』は、和男くんのそばを通っていたんだな」

 裕樹は難しい顔で頷き、和樹は醤油さしに湯を入れ、下に落とす。

 洗い場に置いた洗面器の中の湯入りの醤油さしは、20個ほどになった。


「でも、父さん……僕は笙慶さんたちに嘘を言ったよ……」

「分かってる……」

 裕樹は、息子の膝に手を当てる。

 母の沙々子の幸福を、二人は祈っている。

 それ以上を話す勇気は、今は無い。



 そして風呂から上がり、部屋でスマホゲームをしていた和樹は、ふと思い出して立ち上がる。

 非常に、嫌な予感がした。

 机の引き出しを開け、アニメ誌の付録のファイルを取り出し、挟んでいた封筒を取り出す。

「う、嘘だろ!?」


 少ない。

 減っている。

 岸松おじさんから貰ったお年玉の一万円札が消えている。

 代わりに千円札が二枚と五百円硬貨一枚、百円硬貨二枚が入っている。


「マジかあああぁ?」

 あっちの世界で、三人に奢ったおつりとおぼしき金額だけが残っている。

 これは、夢ではない。

 現実だ。

 残金を見て頭を抱えたが、後の祭りである。


(……三人が喜んでたから、いいよな?)

 自分を納得させ、ゲームを中断し、電灯を消して布団をかぶった。

 頭の中で、祭りの提灯ちょうちんの明かりが揺れている。

 それもすぐに消え、和樹は眠りに落ちた。

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